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大蔵卿局

生年: 不詳(1540年代前半か)
没年: 慶長20(1615)年5月8日

称: 大蔵卿(局)、大蔵局、御局

肩書:
慶長2年「太閤御所ノ北御方ノ女房衆」〔義演准后日記〕
慶長3年「秀頼御所御袋ノ局 号大蔵卿局」〔義演准后日記〕
慶長5年「大蔵卿局 秀頼御袋御乳也」〔義演准后日記〕
慶長9年「秀頼公雄母堂之乳母大蔵卿」〔慶長日件録〕

戒名・院号:
・智勝院桂宗春大禅定尼〔清涼寺過去帳〕
・智勝院桂岳宗春〔諸寺過去帳〕
・桂岳宗春禅定尼〔雑華院過去帳〕
・(智勝?)院(殿岳?)桂宗春大禅定尼〔雑華院供養塔〕



生まれは小谷村


『高野山浅井過去帳』に以下の供養記事が見えます。
「玉巖宗珠禅定門/江州北郡ヲ田ニ村大蔵卿/天正十一年四月二十一日」
「秀譽安誓尼公 逆襲/江州北郡ヲタニ村大蔵卿/文禄三年六月五日」

文禄三年の時点で、浅井家に近しい「大蔵卿」を名乗る人物としては大蔵卿局以外ふさわしい人物はありません。
また、「逆修」とあることから施主により、文禄三年六月五日に生前に逆襲塔が築かれたことがわかります。
ということは、「秀誉安誓尼公」は大蔵卿局自身の事のように思います。

並んで供養している天正十一年四月二十一日没の人物は、夫もしくは父兄の追善供養と思われます。
以下、大蔵卿局の夫大野佐渡守についてみてもらえるとわかりますが、まだ文禄三年六月五日の時点でまだ生存しています。
となると、大蔵卿局の父か兄か、生家の人物ではないかと思われます。
ちなみに没日は賤ケ岳合戦があった日で、この人物は戦で亡くなったものと推測されます。

また、「尼公」とあるのでこの時点ですでに出家していることがわかり、夫佐渡守も没日には法体であったことが戒名からわかるので、夫婦そろってこの時点で出家していたであろうことが予想されます。

気になるのは、没後供養された戒名と全く違う点ですが、こちらの生前供養が知られておらず、引き継ぐ人物がいなかったということでしょうか。



「青柳は大蔵卿局の姪」という情報より


父:真野助宗?(左近/蔵人/法名:宗真)

青柳と称した秀頼の侍女(木村重成の妻)が小袖の姪だったといいます。
青柳は真野頼包(豊後守/蔵人)の女です。
大蔵卿局が真野家出身ならば父は助宗ということになります。
真野家は近江の家で、助宗(及び頼包)は大坂七手組(近衛隊)の一人です。


真野氏


後醍醐源氏の流れと伝わります。
『系図纂要』によれば、助宗は長将といい、その母は織田信長の姉といいます。

一説には浅井家の流れを汲むといわれることもあります。
この場合真野家に浅井の血が入ったとも取れますし、小袖自体真野家ではなく浅井家一族であったとも取れます。




夫: 大野佐渡守(修理亮/道犬斎/定長)

没年:慶長4(1599)年3月4日
…大蔵卿局が落飾していたという明確な記載はありませんが、この時点で落飾した可能性が高いです。

・福巌院殿忠屋元公庵主 大野佐渡殿 慶長四年三月四日 〔雑華院過去帳〕
・前佐州太守○屋元功庵主〔雑華院供養塔〕
…戒名から佐渡守は晩年僧形であったようです。


大野氏


① 丹後国大野説(『宮津府志』)
夫佐渡守は丹後国大野出身の地侍で、現地では「鬼修理」と呼ばれたことが伝わっています。
水軍の長であったとも、甲賀の流れを汲んでいたとも言われます。 丹後大野城は大野氏の居城として伝わっています。
浅井家の家臣でしたが、浅井家が滅んだ後佐渡守は丹後に帰って細川藤孝に仕えていたともいわれます。

▽大野佐渡守が領した大野城跡。当地では出身地と伝わる。
丹後大野城跡


② 葉栗郡大野説(『尾張郡書系図部集』)
石清水八幡宮の祀官の家であったが、弟と家督を争い敗れた大野伊賀守治定という人物が小袖の舅に当たるといいます。
その子が佐渡守を称した定長という人で、小袖はその妻であったとされています。

雑華院過去帳及び供養塔より、治長父が確かに佐渡守であり、晩年は法体であったこと、彼が慶長4年3月4日に亡くなったらしいことから、大蔵卿局も晩年は落飾し尼だったのでしょう。

③『南路志』より(今福匡『真田より活躍した男 毛利勝永』より)
大野治長・治房兄弟は毛利勝永と家老の宮田甚之丞とも従弟である(『南路志』)

大野・宮田・毛利(森)の三氏が葉栗郡に所縁があることを解説。

(略)高澤(等)氏は戦国初頭に(森氏が)美濃から移ってきたのではないかと推測されている。
 同(葉栗)郡内に宮田の地名があり、勝永の家老にして従兄弟宮田陣之丞の故地と考えられる。宮田氏は太子山上宮寺住職の分家であるという(『尾張群書系図部集』)。また同郡上門間庄大野郷は、大野氏発祥の地と考えられる。

大野氏発祥の地にゆかりがあるということで、宮田・毛利両氏は大野兄弟にとって父方の従弟と思われます。

同書では毛利勝永(吉政)の父吉成(勝信?)の妻が大野氏か宮田氏かとされています。
①大野氏であれば、吉成の妻及び宮田陣之丞の母は大野佐渡守の姉妹?
②宮田氏であれば、大野佐渡守の妻大蔵卿局が宮田氏の出?

青柳の存在が裏付けできれば、①?もしくは青柳の母が大蔵卿局の姉妹?となります。
②であれば『高野山浅井家過去帳』に見える小谷村出身というのは厳しくなるので、そちらからも①なのかな?と思うのですが…



子どもたち


・治長(弥三郎?/修理亮)
節叟元忠禅定門〔雑華院過去帳〕
「大野修理亮 三十余歳」〔玄朔道三配剤録(慶長11年11月17日条)〕
慶長十六年の時点で一万石を食む〔慶長十六年禁裏御普請帳〕

・治純(市兵衛〔武功雑記〕、壱岐守〔当代記、駿府記、本光国師日記、慶長見聞録〕)
徳川家に仕える。三千石〔武功雑記〕、二千石〔烈祖成績〕を食む。
「治長之弟、道見(道犬)主馬之兄」〔烈祖成績〕(『烈祖成績』では「治氏」)
「大野修理弟ヲ市兵衛ト云東照宮メシツカハレ少々御寵愛ナリ任官シテ壱岐守ト云三千石被下」〔武功雑記〕
大蔵卿局が駿府へ下った際、治純の屋敷に滞在した。
治純は徳川方の使者として、兄治長と織田有楽斎に冬の陣の講和を斡旋。
慶長19年10月2日、駿府より家康の使者として大坂に向かう。〔当代記〕
12日、大坂より家康のいる掛川へ戻り大坂の情勢を報告する。〔駿府記〕
元和元年4月12日、家康に遣わされ、大坂に赴き、治長の負傷を見舞う。〔駿府記〕

・治房(主馬)、1581/1582~
「修理次之弟、歳卅四五」〔土屋知貞私記〕
良圃元張禅定門〔雑華院過去帳〕
慶長十六年の時点で千三百石を食む〔慶長十六年禁裏御普請帳、烈祖成績〕→慶長十九年の時点で五千石〔大坂御陣山口休庵咄〕

・治胤(道犬斎)?
「主馬弟秀頼小姓、子細有リテ、京之町人松木ト申ス者之所へ養子ニ遣候」〔土屋知貞私記〕
慶長十九年の時点で三千石〔大坂御陣山口休庵咄〕
(慶長十六年の時点ですでに治房が大坂に仕えていて、治胤がそうではなかったらしい)

・後藤又兵衛妻?


〇(補記)治長の妻
没: 慶長15(1610)年6月12日?
「南陽院殿凉巌受招大禅定尼 大野修理内儀 十二日」 …雑華院過去帳

不名誉ながら茶々姫の情人として人の噂にのぼることが多かった治長の妻の存在はあまり知られていません。 「一生娶らずだった」なんてまじめに言われることも珍しくありません。
しかしもちろんそんなことはありません。 大蔵卿局にとっても義理の娘である治長の妻の存在が分かるのは、肖像画が残っているとされているからです。そしてそのありかに妻の出自が伺われるのです。
大野治長夫人像は妙心寺塔頭に寺宝として二条夫人像(織田信長の女で豊臣秀吉の妻だった三の丸殿)とともに残されています。治長は記録に残されるほど美男でしたが、妻もまた美女だったようで、彼女の肖像画は「三名幅」と称されます。 もう一つは龍安寺の細川昭元夫人(織田信長の妹お犬の方)像。
ご覧の通り、他二人は織田家縁の女性ばかりです。大野治長の妻も織田家縁の女性であったのではないでしょうか? 織田家は美形揃いといわれますから、彼女が美女なのは頷けます。
なぜそこまで有名な出自なのにその記録が残らなかったか……それはひとえに、夫治長が大坂の陣で敵方として奮戦したばかりに、 「神君」に逆らった者として江戸時代には名前すらタブーとなってしまったからにでしょうか。

(追記)
さて、ここで新しい疑問が…「三名幅」と言われる「大野治長夫人」像はどうなるの…?
略史曰く、過去帳には「南陽院殿凉巌受招大禅定尼」の法名を大野修理の内儀であるという旨が十二日の頁に記されていたそうです。
また、この画像には「涼岩受招信女」の法名があり、ここからこの画像が大野治長夫人像とされたようです。
なお、この画像の讃は慶長十五年六月に書かれたものとのことで、南陽院がそのころにはすでに亡くなっていたらしいことがわかります。または、正栄尼の画像のように、亡くなった日付が画像に付されているとしたら、南陽院の没日は慶長15年6月12日ということになります。

某様から教えていただいた書籍では、この女性を稲葉秀方夫人としており、その画像も見ることができました。
その特定理由についてはまだ定かではありませんが、稲葉秀方と南陽院の法名「青岳松禅定門」と「涼岩招信女」が対になっていると考えられているようです。


〇治長の子女:

・1592~元和元(1615)年 治徳(信濃守)
「修理総領齢廿四」〔土屋知貞私記〕
元和元年5月8日、父治長とともに自刃する(「同信濃守」〔駿府記〕、「修理嫡男」〔駿府政治録〕、「同信濃守 修理子」〔細川家記〕、「修理総領 大野信濃守」〔土屋知貞私記〕)

・1599~元和元(1615)年8月25日 弥十郎(治安?)
「(大野)修理子ヲ弥十郎ト云後ニ切腹ス」、「大野修理ハ近藤石州ナトニ逢テモ頼存候由申候是ハ息弥十郎事ナリ弥十郎屋敷ハ今ノ雉橋ノ御倉也」〔武功雑記〕
「大野弥十郎 治長次子」〔大日本史料〕

〇大坂の陣の人質は誰か
「修理嫡男大野信濃守年十七」〔駿府記〕
「修理子信濃守十七歳、乳母附来」〔大坂冬陣記〕
「…大野信濃守両人を質に進上」〔大坂御陣覚書〕
「大野修理子信濃守」〔後藤庄三郎由緒書〕
「修理子息大野信濃守ヲ為質子捕来」〔雑録〕
…治長嫡男は大坂落城時秀頼とともに自刃している。途中で人質の交代があったものか、もしくは人質となったのは弟弥十郎と言われているため、これらの情報は弥十郎のものか
「(八月)二十四日 大野修理亮ガ二男弥十郎ヲハ誅戮可仕由被仰遣」「二十五日 武州下谷於海禅寺大野弥十郎被誅」〔元寛日記〕

・女(千侍女。享年は17歳という。滝口康彦「大野修理の娘」では「葛葉」)
治長、家士前田彦右衛門(米倉権右衛門とも)に娘を託す。〔韓川筆話〕

〇大野弥十郎屋敷(江戸)
『武功雑記』に、「(大野)弥十郎屋敷ハ今ノ雉橋ノ御倉也」とありました。
「雉橋」を調べてみましたが、江戸城の雉橋門の辺りでしょうか。
弥十郎は大野治長の次男で、大坂方の人質として徳川方に差し出されました。
しかし結局、東西手切れとなり、弥十郎は父や祖母に送れること三月半、八月二十五日、下谷海禅寺で刑死しました。
兄信濃守治徳との混同が見られますが、その年は人質に出たとき十七歳であったとあります(『駿府記』、『大坂冬陣記』)ので、亨年は十八歳。『大坂冬陣記』曰く、乳母が弥十郎に付き添っていったとあります。

〇治房の子女:
・宗室(大坂の陣ののち捕まるという。隠棲していた母は箕浦誓願寺に隠棲しており助けられた) 〔南部家譜(彦根冨上喜大夫記録之写〕
・娘(母同上) 〔南部家譜(彦根冨上喜大夫記録之写)〕

治胤の子女:
・某(大坂の陣の後法師となるという) 〔南部家譜〕




大蔵卿局の初出史料か ~「乳母才覚故無異議令出城給」



『当代記』の一説です。
北ノ庄落城の際、茶々姫らが無事脱出できたのは乳母の機転であったと記されています。

「大蔵卿局」


摂関家である豊臣家で仕える女房・侍女の中には、公式な朝廷女官と同等の扱いを受けていた女性が結構いました。 「大蔵卿局」もまた宮中女官の候名で、四位~五位相当である小上臈の待遇を受けていたことが分かります〔女官要解〕。
ということは、大蔵卿局がこの候名を頂いたのは、彼女が仕える茶々姫の存在が豊臣家の公的な存在となったということです。
初めて彼女が「大蔵卿局」として登場する史料は現在のところ天正17年9月9日条、北野社へ巻数(かんじゅ、かんず)を贈った記事です。おそらく同年茶々姫が鶴松を産み、秀吉の後継ぎとされたタイミングではなかったかと思われます。

※巻数:僧が願主の依頼で読誦(どくじゅ)した経文・陀羅尼(だらに)などの題目・巻数・度数などを記した文書または目録。木の枝などにつけて願主に送る。神道にもとりいれられ、祈祷師は中臣祓(なかとみのはらえ)を読んだ度数を記し、願主に送った。かんず。〔デジタル大辞泉〕

そもそも茶々姫の養育という内向きの役目を果たしていた彼女は、だんだんと茶々姫に仕える女官や侍女を束ねるようになります。
慶長2(1597)年4月2日に大坂城に城門掟が定められ、それまでも大坂城奥御殿への出入りに厳しい決まりがありましたが、 これを期に明文化されました。 ここで大蔵卿局は奥御殿へ入る上級女房たち(輿を許されたものたち)の出入りの管理を任されます。 それだけでなく、下級の女房たちや文の出入りはあこ(後の阿古御局)、はりま(播磨局)に一任されますが、 彼女たちをまとめていたのも大蔵卿局であったといいます。
当時大坂城で鶴松と同じ間違いのないように大切に育てられていた秀頼がすくすくと育ってゆくのにつれて、 茶々姫の責任と権威は比例して増し、また大蔵卿局のそれも同じように大きくなっていったのです。
慶長3年4月18日の秀頼参内・元服の折には秀頼に従い、秀頼の筆頭乳母である右京大夫局と共に参内し、 後宮と交流を持ちました。

やがて同年の8月18日に秀吉が病没すると、その妻であり新しい当主秀頼の母である茶々姫に掛かる負担は日増しに大きくなります。 関白豊臣家として、天下人の家として、様々な付き合いをこなさなければならなくなりました。
その矢面に立ち、公家・門跡や武家(山内家)との折衝を引き受けたのが大蔵卿局その人でした。 秀頼から寧、豊臣秀次の母日秀への使者も務めました。秀吉没後の豊臣家の奥を束ねる存在として大名や貴族、社寺と交際記事で大蔵卿局の名は頻繁に登場して当時の多忙さを忍ばせられます。


息子治長


大蔵卿局の息子治長もまた、秀吉の馬廻りとしてはじめ三千石で召抱えられ重宝されていました(のちに一万石取の大名)。
何より治長は秀頼の母茶々姫の乳兄。 当時乳兄弟は本当の兄弟よりも家族としての絆が深かったといわれ、 姫の実兄万福丸が共に生きていたとしてもここまでは…いう絶対の信頼関係が築かれていたであろうことは想像に難くありません。
淀城衆の一人として出てくる「大野弥三郎」は治長と比されていますが、もしそうならば若くして公家の客人の振る舞いを任されるなど、 治長は誠実につとめあげ、大蔵卿局や秀吉、茶々姫たちの期待に十二分に応えていました。

秀吉の死後秀頼の側近となった治長でしたが、微妙な政治情勢のなかその存在や動きは多分に警戒されるようになります。
慶長4(1599)年、治長は家康暗殺の首謀者として下野国結城に蟄居を命じられます。 大蔵卿局もまた息子に連座し、徳川に罪に問われることになりました。 おそらく茶々姫は長年の功臣である大蔵卿局の赦免に全力を尽くしたのでしょうが、こればかりは茶々姫の力は及ばず年が明けてしまいます。
そこで茶々姫は京都にいた寧を頼りました。 寧は茶々姫の要請を受け慶長5(1600)年6月に大坂へ下向、数日に渡る赦免要求によって大蔵卿局の赦免を実現させました。
この件によって徳川は寧が大坂を援助したときの厄介さを思い知ったのかもしれません。


関ヶ原合戦と方広寺鐘銘事件


その後関ヶ原合戦が起こりますが、徳川の監視下にあった治長は東軍として参戦。 中立を貫いていた豊臣家の中大蔵卿局は迂闊には動けず、このときばかりは講和などの折衝を饗庭局たちに任せています。
以降緊張と融和を繰り返した豊臣と徳川の関係が決裂したのがこの事件。 徳川方によって仕掛けられた離間の計に立たされた一人が大蔵卿局でした。
片桐且元を公式の使者として送ると同時に、茶々姫の一番の側近である大蔵卿局に秀頼の乳母である正栄尼と家康と親しい二位局を付け駿府に送りました。 徳川方は片桐且元には厳然たる態度で臨み、一方の女房側には柔和な態度で臨むことで大坂方は混乱に陥りました。 結果として片桐且元は大坂城を退去、様子を伺っていた武将たちもこれを期に大坂城を去ります。
最期まで残ったのは、城主母子に絶対の忠義を誓う者たちと、拠り所や死に場所を求める者たちでした。

大坂の陣


大坂の陣の最中、大野家から治長の弟治純と次男弥十郎治安(17歳)が人質に出されていました。

大野家は母大蔵卿局の存在なくして世に出ることはありませんでした。 父佐渡守が秀吉から大野城を貰ったのも、佐渡守の働きはもちろん大蔵卿局の存在があったればこそでしょう。
この戦いに前後して、徳川方に親族がいる女房は多くが逃がされています。 きっとこの戦いを前に治純を通じて大蔵卿局に大坂を出るように促すこともあったかもしれません。
しかし大蔵卿局は慶長20(1615)年5月8日未明、茶々姫や秀頼、そして治長と共に山里曲輪の蔵にありました。 47年間大切に育て上げてきた掌中の玉である姫が生き延びること叶わずに命を散らせたのを見届け、大蔵卿局も命を絶ちました。



大蔵卿局邸



『摂津名所図会大成』によると、「大蔵局邸跡」の項があります。
曰く、「中濱村にあり今田岡の字に大蔵という伝云」とあり、現在の大阪府大阪市城東区中浜に邸があったようです。
近くに白山神社 があり、摂社の稲荷神社が大蔵卿局屋敷の邸内鎮守であったとあります。
『摂津名所図会大成』で「大蔵局」を「木村重成の母にして後に秀頼公の(傅母なりと)伝ふ」と誤記されていますが、こちらは今更訂正するまでもありません。

▽ 白山神社摂社光徳稲荷神社
白山神社摂社光徳稲荷神社

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略年表



・元亀四・天正元(1573)年
8月26日、浅井長政の命で小谷山から羽柴秀吉の陣へ落ちる市・茶々姫に「御付き添いの老女」として従う?〔武功夜話〕

・天正11(1583)年
北庄落城。大蔵卿局の機転で茶々姫ら姉妹は逃げることができたという。〔当代記〕
茶々姫たちは羽柴秀吉の庇護に入る。

・天正17(1589)年
茶々姫、淀城にて秀吉の子棄丸(鶴松)を産む。
「大蔵卿」と呼ばれるようになる。〔北野社家日記〕

・天正19(1591)年
8月5日、鶴松が淀城で病死(享年3歳)。

・文禄2(1593)年
8月3日、茶々姫、大坂城二の丸で拾丸(後の秀頼)を産む。

・慶長2(1597)年
3月20日、醍醐寺で御影供に参拝
大坂城奥御殿の城門掟が定められる。 大蔵卿局は上級女房の出入りの管理を任される。

・慶長3(1598)年
3月15日、醍醐の花見に参加。和歌を残す。
「長閑なる代は春なれや吹風も 枝越ならさぬ花の木のもと 大蔵卿」
「とり/\になをそさかへむ相生の 松も桜も萬代のはる 大蔵卿」
4月18日、秀頼の参内に従う。
8月18日、豊臣秀吉没。
有馬温泉に湯治へ行く。

・慶長4(1599)年
3月4日、夫大野佐渡守が没する。〔雑華院過去帳〕その後落飾か?
治長が家康暗殺の実行犯として蟄居となり、大蔵卿局も連座する。

・慶長5(1600)年
6月、寧の交渉により赦免される。
9月、関ヶ原合戦。

・慶長8(1603)年
5月、近江土山まで下り、千入輿のため上洛した江を迎え、伏見まで同行する。〔義演准后日記〕

・慶長9(1604)年
6月、茶々姫養女(のちの完子)の輿入れのため上洛。〔慶長日件録〕

・慶長19(1614)年
8月、方向寺鐘銘事件。大坂冬の陣へ。

・慶長20(1615)年
5月、大坂夏の陣がおこる。
8日、山里曲輪の蔵で茶々姫・秀頼が自刃。大蔵卿局も治長、孫(治長長男)の信濃守治徳と共に自刃する。
江戸で人質となっていた孫(治長次男)の弥十郎治安が刑死。
孫(治長の女)は米村権右衛門(前田彦右衛門とも)に預けられ逃げ延びる。



〔ひとりごと〕
歴史は勝者のものとはよく言ったもので、大蔵卿局は茶々姫に負けないくらい貶められていると思います。
「世間知らずの女」なんてとんでもありません。 姫と共に、むしろ姫の盾となりながら波乱の生涯を共にしてきた女性です。
晩年は最後まで姫に忠節を尽くし、その働きを追えば西へ東へ内へ外へ、激務だったことが伺われます。 しかし決してあきらめず、姫を見捨てず、「姫の御為」の一心で仕えた人です。
権力がほしかったのなら、私利私欲のためならば、きっと大蔵卿局は山里曲輪で命を絶っていなかったはず。
敗者であったばかりに大蔵卿局の生きた証は多くが炭と化したことでしょう。残念なことです。

春日局が賞賛されるなら、大蔵卿局ももっともっと評価され賞賛されてもいいはずと私は常々思うのです。


▽参考文献に挙げていただいております

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饗庭局

生年: 不詳(天文二十三〔1554〕年ごろ?)
没年: 慶長二十(1615)年五月八日〔宗正寺位牌〕

名: 不詳

称:
・「あい者(は)」〔醍醐花見短冊〕
・「アイバ殿」〔三好家過去帳〕
・「あいば殿」〔色部文書(大蔵卿局書状)、輝資卿記、続撰清正記〕
・「あいばとの」〔豊国石灯籠之覚書、筑紫古文書〕
・「饗庭様」〔資勝卿記〕
・「御いば殿」〔山内家文書(大蔵卿局書状)〕
・「饗庭」〔土屋知貞私記〕
・「相庭(アイバ)殿」〔駿府記〕
・「饗庭ノ局」〔慶元記〕
・「饗場局」〔豊内記、難波戦記、大坂籠城記、諸系譜〕
・「アイバノ局」〔豊内記〕
・「饗場」〔元寛日記〕
・「饗場ノ局」〔慶長見聞書〕
・「相庭局」〔駿府記、大坂冬陣記〕
・「饗庭局」〔宗正寺位牌、難波戦記〕
・「あいは殿」〔甲子夜話〕
(海津付近ある地名「饗庭」(現高島市新旭町饗庭)が由来か。おそらく嫁いだ先が同地を本貫とする饗庭氏らしい。)

肩書:
慶長17年「大坂御上様之御内」〔三好家過去帳〕
(桑田忠親氏が『淀君』で「淀君の乳母」とするが、如何か)

戒名:
・起雲宗桂禅定尼
(「起雲宗桂禅定尼 逆修/生国江州高嶋郡 今ハ大坂御上様之御内アイバ殿為自身逆襲立之/慶長十七季十月十五日」〔三好家過去帳〕)
・新崇院青山浄真信女〔宗正寺位牌〕
・宗正寺に供養塔があるという〔高島郡誌〕


▽ 宗正寺
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▽ 供養塔?
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父: 浅井明政(石見守のち伊予守、出身は田屋氏)、海津政元(長門守)
・「忠海院殿従五下前石州刺史義山道勇大居士 三好家第五代 天正元年八月廿九日」〔三好家菩提寺過去帳〕
・「弓光院心岸浄哲大居士 海津長門守源政元 元亀二年三月十四日薨」〔宗正寺位牌〕

母: 浅井鶴千代(浅井亮政女、母は浅井蔵屋)
・「正宗院心月清玉大禅尼 内室浅井備前守祐政娘 天正五年九月廿一日薨」〔宗正寺位牌〕


姉: (調査中)
・海津殿(栖松院殿香甫宗因大禅定尼、~慶長七年二月十七日、海津局【光源院】の母カ、田屋式部少輔【喜左衛門】妻?)
「栖松院殿香甫宗因大禅定尼/施主江州高嶋郡田屋又助殿/為海津殿建之/慶長七年二月十七日逝去」 〔江州浅井家霊簿〕
「裞屋宗槃禅定門霊位/江州高島の郡□之住人/田屋式部少輔為慈父立之/慶長十年八月十三日」〔浅井家過去帳〕
田屋又助の項に「早世」とあり〔南部家蔵『浅井系図』〕
→田屋式部は夫、又助は息子か
「春月道光禅定門 霊位/大坂田屋喜左衛門殿タメニ/慶長十七年十月廿日」=田屋式部?〔三好家過去帳〕
「妙圓禅定門 逆襲/慶長十七年十月朔日」田屋式部妻=海津殿?〔三好家過去帳〕
・磯野某(佐和山城主)室の〔浅井系図(浅井合戦日記付属)〕?

姪?:
海津局(光源院、浅井政高妻、三好直政母)
「そ(三好左馬助直政)の生母は 御台所の従弟たればとて。これも召出さる」〔徳川実紀〕

夫?、子?:
饗庭備後守(清雲院前備州太守透活宗徹禅定門、慶長17年9月23日没)
・「清雲院前備州太守透活宗徹禅定門霊位/大坂御上様之御内アイバ殿立之也/慶長十七季九月廿三日命日」〔三好家過去帳〕
慶長十六年の時点で千石を食む〔慶長十六年禁裏御普請帳〕
兄(義兄?)田屋又助とともに秀頼の小姓(お伽衆?)だったという。なぜか兄弟で刃傷沙汰を起こして一方は殺され、一方は切腹という事態に…
(なお、慶長14(1609)年の時点で大仏の費用を賄った奉行の一人として饗庭民部という人物も登場する〔徳川実紀〕が饗庭局の関係者か否か不明)

出身地:生国江州高嶋〔三好家過去帳〕


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大津城講和


▽ 大津城跡(大津市)
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饗庭局の業績において特に目立つのは関ヶ原合戦、そして大坂の陣における使者としての役割です。

慶長五(1600)年、関ヶ原合戦を前に大津城では激しい攻防戦が繰り広げられておりました。
城の中には城主京極高次はもちろん、姉の松の丸殿(龍子)、そして高次の妻はお初の方でした。
松の丸殿の身を案じていたお寧は腹心の孝蔵主を遣わし交渉に当たっていましたが、高次がこれに応じることはありませんでした。

茶々姫も当然、縁の深い彼女たちを救いたい願っていたでしょう。 しかし茶々姫は当時真っ先に使者を送れる状況ではありませんでした。
こういう時に率先して使者として立っていた大蔵卿局が、息子(大野治長)が徳川方として参戦していたため、高次を西軍に降伏させるという使者には立てなかったのです。

そんなとき、茶々姫のもとに寧から共に交渉にあたってほしいという要請がきました。
暗礁に乗り上げた交渉を成立させるために、お寧は茶々姫がもつ高次・お初・松の丸殿との血のゆかりの深さに期待を寄せたのです。
結果、大蔵卿局不在のなか、使者として大津城に赴いたのは饗庭局(一部の資料では、「海津尼」)でした。
これは、お寧が血縁のもたらす効果に期待していることを知った茶々姫が、饗庭局を選んだのではないでしょうか。
饗庭局は見事、孝蔵主や高野山からの使者木食上人と協力し和睦を成立させ、松の丸殿を大津から京都西洞院邸まで送り届けました。



三十二義士



そして、また饗庭局の役割で注目されるのは大坂の陣です。
慶長十九(1614)年、方向寺鐘銘事件勃発の際には、相変わらず多忙を極める大蔵卿局とともに、駿府へ下向し、徳川家康へ弁解に赴いています。
冬の陣における講和の際には、徳川家康へ再度の血判を求めるため、常高院・二位局とともに饗庭局が使者に立ちます。
常高院は、茶々姫の意向を受けた饗庭局が戦火の大津城から救い出したお初その人です。
お初もまた、茶々姫や秀頼、そして侍女たちを救うために戦火の大坂城に入っていたのです。

しかし鐘銘事件の交渉では結果離間の計にかかり、そして冬の陣の講和すら罠でした。
度重なる罠に、大蔵卿局も饗庭局も、そもそも戦いは避けられぬよう仕掛けられたものであったことを悟ったかもしれませんが、それでも彼女たちは最期まで茶々姫の傍を離れませんでした。
もしかすると、最期まで浅井の縁にこだわり、守ろうとしていた茶々姫ですので、饗庭局も城を退くことを耳打ちされていたかもしれません。
それでも、饗庭局の名は三十二義士の一人として確かに刻まれています。
大蔵卿局とともに、いままでそうしてきたのと同じように、茶々姫の傍を守ってその自害を見届け、茶々姫の後に従いました。



略年表



・天正元年(1573)年
9月1日、浅井長政が小谷城赤尾屋敷で自害し、浅井本家が滅亡する。

・慶長3(1598)年
3月15日、醍醐の花見。
「今日ここに人ともみゆきの山桜 あかず千年の春を重ねむ あい者」
八月十八日、豊臣秀吉没。

・慶長5(1600)年
9月14日、寧の要請により寧の侍女孝蔵主とともに茶々姫の使者として大津城講和を実現させ、松の丸殿を救出する。

・慶長19(1614)年

8月、方広寺の鐘銘問題に際し、大蔵卿局らとともに駿府へ下向する。
12月、大坂冬の陣の講和の際、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院や二位局とともに使者に立つ。

・慶長20(1615)年
5月、大坂夏の陣がおこる。
8日、大坂城山里曲輪糒櫓(異説あり)にて茶々姫に殉じて自害する。



〔ひとりごと〕
饗庭局は父母、姉とされる人物も夫とされる人物も複数説があったり、存在すらはっきりしていません。
どこかで彼女の存在に目をとめてくださる方が増えて、それこそ“本当”の饗庭局の姿が少しでも明らかになりますように。


参考:「井関家重と井関家の人びと 7」http://innaimae6z2.blogspot.jp/2014/09/blog-post_8.html(「西濱村字院内前陸零貳番邉り」)


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伊茶局

生年: 不詳
没年: 慶長20(1615)年5月8日?(この頃40代前後か)

称:
「いちや」、「いちや局」、「いちや方」〔義演准后日記〕
「伊茶局」〔難波戦記〕
「御いちや」〔輝資卿記、北川遺書記〕
「御いちゃの御方」〔資勝卿記〕

肩書:
慶長三年「大蔵卿局内いちや」〔義演准后日記〕

子:矢野五左衛門

伊茶局の出自は詳しくは分かりません。
しかし天和4(1684)年に書かれたいちやの曾孫五左衛門による書状にその一部が残されています。〔譜牒余録後編(三十八 処士之下 矢野五左衛門条)〕
曰く、伊茶局は五左衛門の祖父五左衛門の母だといいます。
伊茶局の息子、矢野五左衛門は大坂城で秀頼の勘定頭を務め、知行千石と与力十騎、足軽五十人を賜りました。
片桐且元が大坂を退去する際、その知行や金銀米銭諸道具一切を受け取った勘定頭である五左衛門でした。

『義演准后日記』の慶長9年6月5日条・同年9月15日条には五左衛門が伊茶局の息子として義演から進物を受けとっています。 また、慶長13年3月19日には浅野長晟の使者として、秀頼の病(疱瘡)平癒のための大神楽奏請のため奔走していることからこの時期には浅野家に仕えていたようです。

大坂落城後の元和元年(「慶長二十年」)十月、板倉勝重に駿府へ登城するよう命じられます。
駿府で勝重の次男重昌は伊丹康勝に命じて五左衛門が管轄していた大坂城の資産について尋問をしました。
その答えを家康から労われ、以後秀忠に出仕するよう命を受けます。
その後家康の放鷹に同行した際、重昌に上方に残っている(それまで人質になっていたか)妻子の行方を尋ねられ、このときに許されたといいます。

翌年(元和2年)また五左衛門は重昌によって駿府に呼び出されましたが、その時期は家康の死去と重なります。
そのごたごたで重昌の用向きは後日ということになりましたが、五左衛門はその夏に同地で謎の頓死を遂げています。

跡を継いだ五左衛門の息子弥平次は脚気を患い歩けず、若死にしたといいます。
その子が書状を書いたいちやには曾孫にあたる五左衛門です(年齢はこの手紙の日付から推定しました)。



大蔵卿局の側近


伊茶局の名は、『義演准后日記』では慶長三年四月七日条、『北野社家日記』では慶長四年七月八日が初出です。
以降、大蔵卿局の取次ぎとして義演や松梅院禅昌の記録に頻出しています。

阿古御局(阿古)の幼名が菊というように、伊茶局が彼女の幼名とは限らないですが、 おそらく幼名のまま候名としていることから、公的な女官としてではなく豊臣家の私的な侍女でしょう。
五左衛門の手紙によると、大蔵卿局と同様年寄分の女中であったといいます。
大蔵卿局付きの侍女であったようですが、公的にも中臈女官の扱いであったようです。



大坂の陣とその最期


先に紹介した曾孫五左衛門の手紙によると、方広寺鐘銘の件で大蔵卿局が駿府へ弁明に行く際、伊茶局も同行していたようです。
そこで半年ほど留められられたことが記されています。
伊茶局の子五左衛門は家康に褒美を賜る際、母の件を持ち出して辞退したそうです。

その後、大坂の陣で子五左衛門はどういった経緯でか大坂の陣を生き残りましたが伊茶局は茶々姫に殉じたものと思われます。
「難波戦記」(「伊茶局」)、「北川遺書記」(「御いちや」/※女房たち数十人自害との記載)の二書から確認できる他、 いちやの名を記していない史料でも「駿府記」には三十二人、「大坂御陣覚書」には三十余人、「舜旧記」には二十人ほどが自害したとの記載があります。
大概の記録には高級侍女の名しか記されていないものの、自害した侍女の中にいちやがいたことは間違いないと思われます。

というわけで、いちやもまた茶々姫と共に自害した「三十二義士」の一人でしょう。



略年表



・慶長3(1598)年
3月15日、醍醐の花見に参加?
「もろ人のおなし心もうちとけて ながむる花も幾千世かへん いちやこ」
(楠戸義昭氏『醍醐寺の謎』では伊茶局としているが同一人物?)
4月1日、大蔵卿局の取次ぎとして義演を初応対。
8月18日、秀吉病没。

・慶長4(1599)年
7月8日、大蔵卿局の取次ぎとして松梅院を初対応。

・慶長12(1607)年
12月28日、駿府城火災の見舞いのため秀頼に命じられ駿府へ赴く。

・慶長19(1614)年
8月29日、茶々姫の使者として大蔵卿局に従い駿府に赴く。

・慶長20年(1615)年
5月8日早朝、秀頼・茶々姫・大蔵卿局らに殉ずる。

・天和4年(1684)年
2月、矢野五左衛門、祖父五左衛門・父弥平次・曾祖母伊茶局について書状を認める。

〔ひとりごと〕
秀吉歿後の姫を追いかけるのに、毎月秀頼の祈祷に来ていた義演准后の記録は見逃せないのですが、 その中にちょくちょくこの「いちや」さんが登場して、一体何者だろうかととても疑問でした。
彼女の正体を知る唯一の記録が、彼女の曾孫五左衛門の残した書状です(『大日本史料』に収録)。

そもそも、いちやさんの息子とその孫が共に五左衛門という同じ通称を名乗っているのでややこしいですね。
そしてどうやってか大坂の陣を生き残り、大坂城の金銭について聞かれた後突然出先で亡くなっているいちやさんの息子も謎です。

矢野家の史料にせめて戒名だけでも残っていないか調査を続けたいと思います。


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織田犬

生年: 不詳
没年: 天正十(1582)年九月八日 〔大雲山誌稿〕

名: 犬〔大雲山誌稿〕、いぬ〔犬宛信長書状/龍安寺文書〕
称: 大野殿、大野姫 〔大雲山誌稿〕
戒名: 霊光院殿契庵倩公大禅定尼〔細川信良室織田氏画像、月航和尚語録、織田家雑録〕

位牌: 龍安寺霊光院

父: 織田信秀

夫: 佐治為興(信方、八郎) 〔寛政重修諸家譜〕

継夫: 細川昭元(信良、讃岐守)〔寛政重修諸家譜、織田家譜、諸家系図纂〕

子:
・一成(与九郎、寛永十一年九月二十六日に没し、霊光院に葬られる) 〔大雲山誌稿〕
・中川秀休(織田熊之丞、功岩全忠禅門)
・円光院(秋田実季〔城介〕妻、実季妹〔姉?〕秋田局は江の侍女、父は細川昭元) 〔諸家系図纂〕
・慶光院(徳川子々侍女、父は細川昭元) 〔諸家系図纂〕
・元勝(侍従、讃岐守、父は細川昭元) 〔諸家系図纂〕

乳母:
浄智院殿安栖寿心尼大姉(浄智院殿安福寿心尼大姉〔佛眼禅師語録〕、犬の没後、霊光院を建てて犬の菩提を弔う。慶長十三年一月二十四日没)〔大雲山誌稿、月航和尚語録〕



「秀吉夫人淀殿介抱之」


『大雲山誌稿』が伝えるところによると、天正二(1574)年九月二十八日、長嶋合戦で犬の夫為興が戦死したため、織田家に帰っていた間に、茶々姫の養育にあたっていたエピソードが記されています。その後(天正五〔1577〕年)、秀吉の采配で細川昭元に再嫁したといいます。〔翠竹院道三之書簡/宮本義己『誰も知らなかった江』〕


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各務兵庫女

生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)



各務家


父:各務兵庫助元正 (各務氏は五女)

「武功雑記」によると、各務氏の実家は森家の筆頭家老の家柄でした。 父「各務兵庫」こと各務兵庫助元正も長可・忠政の代の家老で美濃岩村城の城代です。 元正の時代に行われた改築・検地は有名なようです。 「鬼兵庫」と呼ばれ、蒲生氏郷からの再三のラブコールもはねつけたとか。

兄:
四郎兵衛 …1608年に自害
藤兵衛 …妻は名護屋山三郎の妹

姉:
紀伊(箭室妙智信尼)…森重政(伊豆守)妻。1633年に死去。
竹光伊豆妻 …夫は大坂衆。大坂落城後、枚方にて切腹。
田中七郎兵衛妻 …七郎兵衛は丹後の人
各務勝太夫妻 …勝太夫は美作の人


夫:京極高知

子:
満吉(幼名:辰千代、称:源三郎、三左衛門、官職:式部、田中姓を称す 〔寛政重修諸家譜』〕)
澤良政(図書)妻〔武功雑記、寛政重修諸家譜〕



茶々姫の侍女


各務氏は茶々姫の侍女としてほとんど知られていません。 今のところ唯一各務氏の足跡が見える「武功雑記」から彼女の逸話を拾ってみましょう。
茶々姫の侍女であった各務氏は大坂の陣前のある日、茶々姫に呼び出されます。 そこで姫は各務氏に対し、あたら若い命を散らすことを不憫に思い、大坂を去るように命じました。 しかし各務氏はその申し出を固辞し、小脇差を腰に差して覚悟の程を示し、茶々姫に仕え続けたといいます。

さすが「鬼兵庫」の娘らしい各務氏の勇敢さは言うまでもなく、侍女に優しかったという茶々姫を裏付けるような逸話です。
その出自はもとよりこの逸話から、各務氏は茶々姫から直々に対面を許される高い地位にあったことも分かります。



大坂の陣の後


上記のように、大坂の陣に際しても退去しない意思を示した各務氏ですが、 実際は大坂落城後に京極高知の側室となったといいます(武功)。
京極家は大坂の陣において豊臣家と相対せざるをえない立場でしたが、 高知の姉は秀吉の妻松の丸殿(龍)、義姉は茶々姫の妹初(常高院)という深い間柄でした。 しかも秀頼の息子国松丸の養育は京極家で引き受け、大坂の陣に大坂衆として参戦した茶々姫や初姫の弟喜八郎(作庵) もまた京極家で引き受け面倒を引き受けています。
また、同じ侍女の間柄である菊(山口氏)も大坂落城後松の丸殿を頼ったという記録を「おきく物語(浪華城菊物語)」に残しています。

残念ながら時勢には逆らえず、京極家で育てた国松丸を京極家の手で捕らえる結果となりましたが、 大坂城から国松丸を落とす際に、茶々姫は各務氏に託すという形をとって京極家に逃がしたのかもしれません。 ただ逃げろ、というだけでは逃げなかった各務氏の勇敢さを買う形で京極家の龍や初のもとに逃がし、 その元にいるうちに高知と知り合い、娘を儲けたという流れだったかもしれません。
国松丸との関わりは私の想像ですが、忠義の固い各務氏が結果的に大坂落城後も生き延びたという流れと周囲の事情を鑑みるとこの考えはあながち間違っていないように思うのです。



略年表



・慶長5(1600)年
父各務元正死去。

・慶長13(1608)年
10月5日、兄四郎兵衛自害。

・慶長19(1614)年ごろ
茶々姫に退去を命じられるが固辞。

・慶長20年(1615)年以降
大坂の陣終結。
その後、京極家に縁付き高知の側室となる。

〔ひとりごと〕
『大日本史料』を読んでいてこの史料に出会ったときに鳥肌が立ちました。 各務氏の忠義ももちろんですが、姫の真実の一端に触れたような気がしました。
原文では『淀殿不便ヲ加ヘ退カシメント…』という記事なので、現代文風に解釈すると逆の解釈をしがちですが、 「不便を加える」は「不憫に思う」という解釈になります。


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小督

生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)

名: 小督
「醍醐花見和歌短冊」に「ご五う」という女性が見えるが、年代的に別人か

戒名: 妙源院〔葉隠〕

父: 藤本太郎右衛門

主: 松平忠明

子: 牟利〔鍋島家​譜​ ​(​肥​前​蓮​池​)〕または利〔龍​造​寺​並鍋島家​譜〕
鍋島忠直妻のち鍋島直澄妻、鍋島光茂及び一女の母
元和三年十一月十五日大坂で誕生、正保二年一月二十七日江戸麻布屋敷で没
恵照院殿心月妙泉大姉〔龍​造​寺​並鍋島家​譜〕、慧照院心月妙泉〔鍋島家​譜​ ​(​肥​前​蓮​池​)〕
肥前慶誾寺に葬られ、のちに蓮池宗眼寺に改装される。



もう一人の“小督”


「鍋島勝茂譜考補」という史料に眠る女性です。
幼いころより侍女として大坂城でつかえていたが、後に千(「秀頼公ノ北ノ方」)に仕えた、とあります。
はっきりとは書いてありませんが、千が嫁いできたのちに おそらく茶々姫が千姫と年の近い小督に目をとめて、千の侍女としたのでしょう。

政略的に考えれば、このようにもともと豊臣家に仕えていた侍女を千付きにするということは、 千の周りを守る徳川家からの侍女たちをけん制する意図もあったのでしょう。
しかし、あえて年若い小督を選んだのは、やはり見知らぬ土地にきて怯えているだろう可愛い姪を思っての人選であったと思われます。
特に、千の母であるお江(「小督」とも書く)と同じ名前を持つ彼女だったというところに何か感じるところがありますね。

彼女のその後は、 千脱出の際数名の侍女がこれに従い(大堀に隠れた、という描写があります)、松平忠明(「松平下総守」)に匿われたとあります。
そして、これを喜んだ家康に、忠明への褒美として小督が下げ渡されたようです。
家康の声掛かりで忠明の妾となった小督は、やがて娘(牟利)を産み、その血は鍋島家に繋がってゆきました。

千姫脱出の描写は他の史料と食い違う部分があるものの、千姫退城につき従い大坂の陣を生き延びたというところは間違いなさそうです。

なお、醍醐の花見に参加した侍女のなかに、未だ出自の明らかにされていない「ご五う」という侍女は彼女のことではないでしょうか。


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正栄尼

生年: 不詳
没年: 慶長二十(1615)年五月七日

名: なか
「正永ハ御中ト云シ女ナリ内蔵介母也」〔武功雑記〕

称: おなかの御方(おなあの御方)?→正栄尼(夫の死去後、落飾し尼となり、「正栄」と号す)

・「正ゑいさま」(『本光国師日記』)
・「庄栄」、「正栄 渡邊内蔵助母」(『土屋知貞私記』)
・「正永」〔浅井一政自記、豊内記〕
・「正栄殿」(『続撰清正記』)
・「永原正栄尼」(『難波戦記』)
・「渡邊正栄様」(『清涼史論』)
・「正栄尼 渡邊内蔵助母」、「渡邊内蔵助母 正永尼」(『駿府記』)
「永原之正栄尼」、「衣原正栄尼」(『元寛日記』)
・「正栄尼」(『慶元記』)
・「正永」(『慶長見聞録』)
・「少栄」(『北川遺書記』)
・「正栄尼」(『駿府政事録』)
・「正栄尼」(『編年大略』)
・「正栄」(『落穂集』)
・「正栄」(「大坂物語」)
・「中原常永」、「渡邊内蔵介母正永」〔個人蔵大坂夏の陣図(江戸時代後期)〕

肩書:「大坂奥方女臈頭云随一」〔天正記聞〕



祖父: 永原仁左衛門〔天正記聞〕

母: 「永誉寿慶大姉 渡辺正栄並永原福左衛門母 西暢真光妻」〔清凉寺過去帳〕
・明智光秀前妻〔天正記聞〕

実父:
・明智光秀〔天正記聞〕

正栄尼の素性


「天正記聞」

光秀公前妻者、江州永原之城主永原大炊助嫡永原仁左衛門娘也、此腹生女子、母子共帰故郷、此女子成長而、秀吉家臣嫁渡部宮内少輔、生渡部内蔵助、宮内少輔死後、内蔵助母成尼、号渡部正栄、大坂奥方女臈頭云随一、内蔵助儀於大坂冬夏之御軍法砌、御相談之席、軍術槍達人有武功、大坂落城之節、出城外戦、見掛城火、急帰城中、正栄妻子共入千畳敷、然處正栄云、武士之最後者、後世之評判先祖為面目間、内蔵助自害之體見届度由、内蔵助聞之悦、即席子共刺殺、腹十文字切、正栄大感介錯、内蔵助者、山城国一来寺城主、八万石、渡部出雲守孫、同宮内少嫡子也、正栄向娵云、其方者田丸城主之息女、我身者天下取之娘、於最後何掛人手乎、尤領掌而、両人共令自害、飛入焔中、傍人視之、雖為女身、勇将之子孫者、末後異常人、可為諸人之手本、甚感之、内蔵助妻者勢州田丸城主四万五千石、牧村兵部大輔娘也、正栄亦有娘、ツルト云フ、



明智光秀の前妻は、近江永原城主大炊助の嫡男仁左衛門の女である。
光秀とこの女の間に女子がいた。母子共に帰郷して女子は母の故郷で成長した。
その後、秀吉の家臣である渡部宮内少輔(渡辺昌)に嫁ぎ、渡部内蔵助(渡辺糺)を産んだ。夫の死後、糺の母は尼となり正栄と号し、茶々姫(「大坂奥方」)の一番の女房頭であったという。
糺は大坂の陣において秀頼の相談相手であり、また軍術や槍の達人であり、武功を重ねた。大坂落城時には、城を出て戦ったが、城に火がついたことを見ると急ぎ城へ帰った。
千畳敷には正栄と糺の妻子がおり、正栄はが糺に向かって、「武士の最期は後世の評判、先祖の面目となる。わたしが糺の自害の様子を見届けましょう」といった。これを聞いて糺は悦び、子どもたちを刺したのち自ら腹を十文字に掻き切った。正栄は大変感じ入り、糺を介錯した。
糺は山城国の一来寺(一乗寺)城八万石の城主であった。渡辺出雲守の孫で、その子昌の嫡男にあたる。
正栄は糺の妻にむかって、「あなたは田丸城主の娘、わたしは天下取り(光秀)の娘。最期は他人の手にかかることはあってはならない」と言った。妻は納得し、手を合わせると二人ともに城を焼く焔に身を投じて自害した。
そばで見ていた者は、「女とは言ってもさすが勇将の子孫、最期も普通の人とは違う。皆は彼女たちを手本にすべきだ。」と大変感じ入ったという。
糺の妻は伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘である。
正栄にはまた娘もおり、彼女の名をツルと言った。



「牧村兵部大輔」こと牧村利貞は春日局の側近祖心尼の父に当たる人ですが、田丸城主ではないそうです。(http://www.murocho.com/aji/koboku/koboku4.html)「田丸城主」が正しいならば、糺の妻は稲葉道通の娘ということになります。

まとめてみました。

青字は『清涼寺過去帳 より』)
永原大炊助 ━━ 仁左衛門 ━━ 明智光秀前妻 ━━ 正栄尼(往相院西誉正栄大姉

渡辺出雲守 ━━ 宮内少輔(昌/源誉道把居士/妻:正栄尼〔往相院西誉正栄大姉〕) ━━ 内蔵助(糺)、正心院殿宝樹水庵大姉(ツル?)、永誉寿慶大姉

糺(妻:牧村利貞or稲葉道通女)━━ 守、量寿栄薫信尼雲龍童子
                                     

某書で、正栄尼が浅井長政の娘であると受け取れる文章に悩んで数年…
正栄尼がまさか明智光秀の娘だとは思いもよりませんでした。

他の史料に見えないのは、やはり光秀の娘という経歴を当時はおおっぴらにはしていなかったのでしょうね。とはいえ、さすがに主である茶々姫がこれを知らなかったということはありえません。
当時の世情を考えると、さすがに光秀の娘であると出自を偽称するということはないと思いますが…

鐘銘事件の際、茶々姫の乳母である大蔵卿局、徳川家配下に家族のいる二位局とともに駿府へ使者として下ったのは、この血縁によるものもあったのでしょう。

細川忠興の妻玉(ガラシャ)は、自分は光秀の娘であることを憚って(正栄尼の異母妹ということになりますね)、大名夫人たちが茶々姫に面会する際に遠慮したという史料もありますが、茶々姫が明智光秀の縁者を遠ざけていたということはなかったことがわかります。
同時に、茶々姫のそばで育った江が福(春日局)を明智光秀の血縁だからと言って疎んでいたというのもまた事実ではないこともわかります。



養父?:
「西暢真光信士 江州永原住渡辺正栄並永原福左衛門父 石塔有之」〔清凉寺過去帳〕
清涼寺墓地に墓地があったようですが現在は不明。


「永原福左衛門」〔清凉寺過去帳〕




夫: 渡邊宮内少輔

渡邊宮内少輔「昌」(渡邊出雲守告の次男)。もとは山城国田中の人。出雲守は松永久秀に仕え、宮内少輔は秀吉に仕えたという。〔寛政重修諸家譜〕
渡邊宮内少輔「登」〔本朝武芸小伝〕
渡邊「民部少輔」、摂津の人〔続武家閑談〕
「源誉道抱禅定門 渡邊宮内 内蔵助父」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕
「源誉道把居士 渡辺宮内正栄夫(二十日)」〔清涼寺過去帳〕

▽ 清凉寺 渡辺宮内墓所
※但し、没日など早崎兵庫〔「蓮池院源叟休把居士」〕と混同が見られる
渡邊宮内少輔墓


子:
・渡辺糺
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」(『清凉寺過去帳』)
秀頼の槍術師範〔本朝武芸小伝〕
正栄尼が介錯した
近江へ逃れたという説がある〔続武家閑談〕

▽ 清凉寺 渡辺糺墓所
渡邊糺墓

糺の妻
・くう「徳芳妙寿禅定尼 慶長十四年二月一日/渡辺権之助内クウ」
・伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘〔天正記聞〕
・祖心尼?(稲葉家の記録)

孫(糺の子):
・守(権兵衛)
…大坂落城時、乳母に助けられ、南禅寺の僧侶となる。後に還俗して徳川綱重に仕える〔続武家閑談、寛政重修諸家譜〕
・量寿栄薫信尼〔清涼寺過去帳〕
・雲龍童子〔清涼寺過去帳〕


・ツル
「正心院殿宝樹水庵大姉 万治四年二月(二十一日)/往相院女道三玄鑑室」〔清涼寺過去帳〕
「正栄亦有娘、ツルト云フ、」〔天正記聞〕

娘婿・今大路玄鑑
「前道三亀渓玄鑑法印 寛永三年九月十九日」〔清凉寺過去帳〕
・親純 兵部大輔。江が和子を産む際、その難産を助けた。江の臨終の際にも病を押して駆けつけようとするも、寛永三年九月十九日、道中で病死。享年五十歳。〔寛永諸家系図伝〕
子に祐智(愛宕教学院)、道三玄鎮(親昌)、および女子四人あり〔寛永諸家系図伝〕

▽ 清凉寺 今大路玄鑑、ツル夫妻墓地
渡邊ツル夫妻墓

娘②
・祐清
「以春軒和渓宗仲禅者 慶長十一年九月(八日)/浦野祐清夫渡辺正栄一門也」
「廓雲了性童子 丙午年(慶長十一年?)八月(十九日)/浦野祐清息往想院ノ孫」

娘③
・永誉寿慶大姉(慶長十六年六月没)〔清涼寺過去帳〕



彼女が正栄尼という名前で登場する最も早い史料は、一次史料ではありませんが『続撰清正記』で、慶長十六年四月二日に登場しています。

その後の活躍の割には、それ以前に名前が全く見えないため、この辺りが夫の死と正栄尼の出家の時期なのではないだろうか…と推測しています。

正栄尼は大坂の陣の最中糺とともに戦火に歿しますが、孫(渡辺守/「陽春院徳林徹居士 元禄三年正月四日 渡辺内蔵助権兵衛正栄孫」〔清凉寺過去帳〕)が乳母の機転で生還したこともあって、大坂方の戦没者の中ではかなり手厚く供養されています。



戒名:
「往想院西誉正栄 永原氏 渡邊宮内室 内蔵助等母 五月七日自殺於大坂城」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕
「渡邊内蔵助源尚 宮内少輔某男、元和元年五月七日、於大坂戦死、源太静間
 源尚母 同日自殺、往想院西誉正栄」〔諸寺過去帳〕
「往相院西誉正栄大姉 慶長廿年五月七日大坂討死 渡辺内蔵助母 宮内妻 祠堂有之」〔清涼寺過去帳〕
「往想院西誉正栄大姉」〔清涼史論、伝渡辺正栄尼画像〕

・清凉寺位牌
(表面)「往想院西誉正栄大姉/岳樹清光(永原忠左衛門)/源太静閑(渡辺糺)/量寿栄薫(糺女) 各位」
(裏面)「慶長廿年五月七日/大阪討死/当寺大旦那」

▽ 清凉寺 正栄尼墓所
正栄尼墓



正栄尼の周りには、実家である永原の一族が集っていたようで、渡邊氏だけではなく永原氏も少なくない人が正栄尼に殉じています。

渡邊氏:
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」、「量寿栄薫信尼 内蔵助女」、「雲龍童子 同上息」〔清涼寺過去帳〕
「雲龍童子 渡邊内蔵助子息 五月八日」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕

永原氏:
「獄樹清光信士 永原忠左衛門」、「棄大良雲信尼 忠左衛門妻」、「永宏常有信士 忠左衛門息忠兵衛」、「隆巌秀知信尼 忠兵衛妻」、「性翁高月信士 永原福太郎」



略年表

・慶長3年
3月15日、醍醐の花見。
「桜花かかるみゆきに相生の 松も千歳を君にひかれて   なか」
「君か代にあふうれしさをみゆき山 花やいろ香にいでてみすらむ   なか」
8月18日、豊臣秀吉没。

・慶長19(1614)年
8月、方広寺の鐘銘問題に際し、大蔵卿局らとともに駿府へ下向する。
12月、大坂冬の陣の講和の際、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院や二位局とともに使者に立つ。

・慶長20、元和元(1615)年
大坂夏の陣がおこる。
5月7日、糺を介錯し自害する。
某日、清涼寺にて葬式が営まれる〔清涼史略〕

・元和3(1618)年
5月7日、三回忌法要が栖霞寺で営まれる〔清涼史略〕

・元和7(1622)年
5月7日、七回忌法要が清涼寺で営まれる〔清涼史略〕


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高橋古屋

生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)

名: 古也〔高橋家系図〕

「醍醐花見短冊」に「こやや」という女性が見えるが、同一人物?
「我が君はちよもみゆきの山桜 花もめぐみに相生の松」

肩書: 「秀頼公ノ乳母也」〔高橋家系図〕

父: 高橋家勝
弟: 家平(妻は大谷吉継の姉)

甥姪(家平の子たち):
・嘉胤(大谷吉継の養子、大坂の陣で秀頼と最期を共にした)
・長女(眞田信繁の妻)
・家春(木下山城守、頼継?):木下家定の養子、妻は石田三成の妹、慶長10年6月17日没)
・次女(「松平飛騨守」(奥平忠政?忠隆?)の「妻室」)
・春長(加右衛門、馬渕氏の養子、「前田加賀守」に仕える)
・「黒柳」(木村七兵衛【木村重成の弟】の妻、大坂落城後は近江坂本へ移住の後黒柳と改める)
…木村重成の妻青柳は、大坂の陣の当時身重だったため、近江馬渕の親戚を頼って大坂城を後にしたと伝わりますが、この黒柳との関連は不明
・吉家(三郎四郎、秀頼の乳母であった古也の縁で加藤清正に客人待遇で迎えられるが、加藤家滅亡後出家する。寛文5年2月11日没)

夫: 下妻式部 …秀頼逝去後本願寺に嫁す



「高橋系図」に伝わる乳母高橋氏とその一族


以上に挙げた甥や姪だけでなく、叔父二人は本能寺の変に巻き込まれ家春(虎松)は本能寺で信長に従って戦死、弟勝春(藤丸)は二条御所で信忠に従って戦死するなど、錚々たる顔ぶれです。



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織田昌澄母

生没年: 不詳

名: 不詳
肩書: 「そ(織田主水昌澄)の母は大坂の北方(千)につかえたりとぞ」〔徳川実紀〕

父: 明智光秀〔明智系図、織田系図、系図纂要〕
母:

子:
・昌澄(信重、主水、大坂の陣で大坂方につく)〔寛政重修諸家譜、徳川実紀〕
(以下、史料上生母不詳の信澄の子)
・元信(織田信雄のち豊臣秀頼に仕える)〔寛永諸家系図伝〕
・京極高知妻(早世)〔寛政重修諸家譜〕


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