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1912年04月 | ARCHIVE-SELECT | 1912年06月

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編年史料 目次

天文六(1537)年
天文十五(1546)年
天文二十三(1554)年
永禄四(1561)年




永禄十二(1569)年
元亀四・天正元(1573)年
天正二(1574)年

天正十(1582)年
天正十一(1583)年

慶長五(1600)年
慶長六(1601)年
慶長七(1602)年
慶長八(1603)年
慶長九(1604)年
慶長十(1605)年
慶長十一(1606)年
慶長十二(1607)年
慶長十三(1608)年
慶長十四(1609)年
慶長十五(1610)年
慶長十六(1611)年
慶長十七(1612)年
慶長十八(1613)年
慶長十九(1614)年
慶長二十・元和元(1615)年

元和二(1616)年
元和三(1617)年
元和四(1618)年
元和五(1619)年
元和六(1620)年
元和七(1621)年
元和八(1622)年
元和九(1623)年
元和十・寛永元(1624)年
寛永三(1626)年
寛永四(1627)年
寛永五(1628)年
寛永六(1629)年
寛永七(1630)年
寛永八(1631)年
寛永九(1632)年
寛永十三(1636)年
寛永十六(1639)年
寛永十九(1642)年
正保三(1646)年
正保四(1647)年
慶安四(1651)年
明暦四・万治元(1658)年
寛文五(1665)年
寛文六(1666)年
寛文九(1669)年
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1537/天文六年

天文六(1537)年 丁酉

二月

六日
後の豊臣秀吉、生まれる。
〔関白任官記、桜井文書、当代記、豊国大明神臨時御祭礼記録、豊鑑(桑田忠親『桑田忠親著作集 第五巻 豊臣秀吉』)〕



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1546/天文十五年

天文十五(1546)年

二月

二十四日
茶々姫祖母(浅井長政母)阿古(「阿子御料 浅井新九郎〔久政〕之御内」)、浅井家の菩提寺、清水谷徳昌寺の住職(茂道か)によって戒を受ける。 〔徳勝寺授戒帳〕



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1554/天文二十三年

天文二十三(1554)年 甲寅

十一月

一日(晴)
茶々姫祖母(浅井長政母)阿古(「兵衛尉殿〔久政〕御内」)、浅井家の菩提寺清水谷徳昌寺の住職雄山(亮政息)によって戒を受け、「惠芳」の戒名を授かる。 〔徳勝寺授戒帳〕



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1561/永禄四年

永禄四(1561)年

二月

二十一日
前年十二月に起こった新保と菅浦との間で闘争事件について、 茶々姫祖母(浅井長政母)阿古(「うへさま」)が新保側の謝罪に口ぞえする。 これにより長政(「ひセんとの」)は新保側を赦したことを、阿古の乳母民部卿局(「うは ミんふ卿」)がこれを五郎兵衛(「五郎ひやうへとの」)という人物に対し書状にて伝える。〔菅浦文書(「民部卿局書状」)〕



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1569/永禄十二年

永禄十二(1569)年

この年

茶々姫、浅井長政を父に、市(織田信長妹)を母に生まれる。

・市の出生
但し、「織田系図」では市の父を織田與康であり、信長にとって市は従兄弟の娘にあたるとし、「以貴小伝」では北庄城において市の身近に仕えたという渓心院という女房の話として、実は市は信長の従妹であったのを養妹として長政に嫁がせたとする。

・茶々姫の生年
茶々姫の生年について、「井伊年譜」や「大坂御陣覚書」ではの茶々姫の享年を三十九歳としているため、逆算して生年は天正五(1577)年となる。父浅井長政は天正元年に戦死しているため、これは成り立たない。 また『翁草』では享年を三十九歳、四十歳、四十五歳、四十九歳と四つの説をあげており、それぞれ逆算すると生年は天正五(1577)年、天正四(1578)年、天正二(1574)年、永禄十(1567)年となる。 永禄十年説以外は前者と同様に、父長政の死後となるため、整合性のとれる永禄十年説が長らく使われてきた。 現在も『翁草』を根拠とした永禄十年説(但し、同書は他に3つの説も提示している)は根強いが、井上安代氏が「星座から推定した淀殿の年齢」(『豊臣秀頼』)において、茶々姫の「有気」に関する『義演准后日記』の記録と、市の永禄十~十一年輿入れ説によりこの年を茶々姫の生まれた年と推定された。現在はこの説が多く受け入れられている。

・茶々姫の生年についての一考察
私も永禄十二年説に賛同します。永禄十二年誕生だと北庄落城時点で数えで十五歳で、それ以前の誕生だと信長の生前に茶々姫はすでに結婚適齢期をとうに迎えていることになります。市が信長による婚姻話を拒んだのではという方もいらっしゃいますが、私はたとえ市が拒んだとしても信長の意思に逆らえなかったと考えるほうが自然だと思いますし、市自身も茶々姫の将来を考えなかったはずはなかったと思うのです。 となると、信長変死→北庄落城の動乱期に適齢期を迎えている永禄十二年説が最も受け入れやすいのではないでしょうか。 近年、妹である江と佐治一成の婚姻が信長の意思だったのでは、という説もありますので、信長が三姉妹の嫁ぎ先を考えていたのは十分に考えられることです。 ひょっとすると茶々姫にも信長の決めた許嫁があったかもしれませんが、動乱によって輿入れを迎えることなく本能寺の変を迎えたのではないでしょうか。


(参考)
井上安代『豊臣秀頼』、翁草、井伊年譜、大坂御陣覚書、小和田哲男『近江浅井氏の研究』





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1573/元亀四・天正元年

元亀四・天正元(1573)年

五月〔小谷城(大広間御殿か)〕

この月

浅井長政末子万菊丸(万寿丸・幾丸・虎千代丸とも。後の伝法院正芸)生まれる。守役として中島左近・小川伝四郎を付け近江福田寺(安相寺とも)にあずけ密かに育てさせるという。

・万菊丸の母 お弁の方

その母について、湖北町上山田では当地出身の長政女房衆「おべん(弁)の方」と伝わり、彼女の屋敷跡や最期の地が山田山に「おべんが谷」という小字で残っている。
このお弁の方という女性について、同地では絶世の美女とされ、浅井滅亡の後も華美な生活をやめず、更に手癖の悪さから村人によって石子詰めにされ殺されたと伝わっている。 お弁は最期に「この村には以降美人は生まれないだろう」と言い置いて死んだという。
事の顛末を全て鵜呑みにすることは難しいが、村が存続するためには浅井家に強く連なる女性を持て余したであろうことは想像に難くない。


・万菊丸の守役 中島左近

万菊丸の守役の一人中島左近のご子孫は同町にて現在も存続し、福田寺寺伝と同様の家伝が語り継がれている(『丁野誌』より)。 浅井三代記・『丁野誌』・『上山田の歴史と文化』



八月〔小谷城→実宰院?→羽柴秀吉陣営→清洲城?伊勢上野城?〕

二十六日

浅井長政(「浅井備前」)、市(「御女房」)や茶々姫ら娘(「女子ども」)を小谷山から出し、羽柴秀吉に託す。 これに従い、茶々姫ら姉妹(「御子等」)、市(「御妹御様」)、付き添いの老女(「御付き添いの老女」/大蔵卿局らか?)とともに小谷城を退去し、羽柴秀吉(「羽柴筑前様」)の陣へ降る。 母娘手に手をとって裸足で小谷山を降り、羽柴陣営に入った後はひたすら念仏を唱え続けていたという。
(※ お市母子脱出の様子にはいくつもの異説がある)

なおこの記事には、落ち延びた市ら母子について、「母子共に御三方まことに…」という一節がある。落ち延びたのは市・茶々姫・初・督(江)の四人とされているが、 督(江)が生まれていなかったのか、督が赤子のため勘定に入っていないのか、誰かが別行動していたのかはわからない。
〔武功夜話〕(但し、『武功夜話』は偽書説もあるので注意)


二十八日

浅井長政(「備州長政」)、三人の娘(「三人の女子」)をなんとかして助けようと、藤掛三河守に木村小四郎という者を輿添につけ、この日の夜、市(「内室」)に三人の娘を信長(「信長公」)のもとへ送り届けさせるという。
その後、しばらくの間信包(「上野介信包」)に預け置かれ、その後尾張清州城に移され、信長の扶持で養育されるという。
〔総見記〕 (但し、総見記は元禄年間の成立のため、全て真実とはいえないので注意が必要)


九月〔伊勢上野城?清洲城?〕

十九日

茶々姫祖母(浅井長政母)阿古(浅井家霊簿「小の〔小野〕様」)、 織田信長の命により十指を数日に渡り切られる拷問を受けた末に刑死する。
〔島記録・高野山浅井家霊簿〕


十月〔実宰院?、伊勢上野城?、清洲城?〕

十七日
茶々姫の兄万福丸(当代「万福」、信長公記「浅井備前十歳の嫡男」)、織田方の手に掛かり関ヶ原に刑死する。
〔信長公記・当代記・浅井三代記・高野山浅井家霊簿〕


・万福丸に関する記述

当代記: 越前へ人質として赴くも朝倉氏滅亡の後逃れて加賀国へ。そのとき盲人となる。お市(「母」)・信長母土田御前(「祖母公 信長御袋」)を頼るが、近江木之本にて信長により刑死される。

信長公記: 最期の場所は関ヶ原。磔の末に刑死。

浅井三代記: 木村喜内之介を付けられ敦賀に匿される。しかし信長に欺かれ探し出され木之本にて串刺の刑に散る。(その日は九月三日とされるが、これは誤り。また、浅井三代記自体信憑性に乏しい記述が多々見えるため注意が必要)

総見記: 今年十歳になる長政庶子(「備州下腹の男子」)を秀吉が探し出し、信長に差し出したところ、すぐに処刑するよう命じられる。(ただし、総見記は元禄年間の成立のため、注意が必要)






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1574/天正二年

天正二(1574)年

九月

二十八日

佐治為興、伊勢長嶋で戦死する。妻の織田犬(「阿犬」、「大野姫」、「大野殿」)、その後織田家に帰り、細川昭元に嫁ぐまで茶々姫(「秀吉公夫人淀殿」)の養育にあたるという。〔大雲山誌稿〕




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1582/天正十年

天正十(1582)年
※ []内は茶々姫の居場所

六月末~九月
市、岐阜城にて柴田勝家と婚礼を挙げる。〔細川忠興軍功記〕
茶々姫、母と妹たちとともに岐阜城から〔太閤記〕越前北庄城へ移る。〔細川忠興軍功記〕


六月[尾張清洲城?美濃岐阜城?]

二日(晴)
この日の夜明け頃(「卯刻」)、先月二十九日に上洛した織田信長(「前右府」)が宿所本能寺にて明智光秀(「明智日向守」)の謀反により討死する。 嫡男信忠(「三位中将」)・村井貞勝(「村井春長軒」)もまた二条御所(「下御所」/誠仁親王御所)にて討死。〔言経卿記〕

十三日
織田信孝(「織田三七殿」)・羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)、山崎にて明智光秀(「惟任日向守」)を合戦でやぶる。 伊勢貞興が討死し、光秀方によって二条御所(「二条屋敷」、下御所のこと)が放火される。〔言経卿記〕


九月[越前北庄城]

十一日(晴)
市(「大日本国越之前州居住大功徳主某信女」)、妙心寺にて織田信長(「天徳院殿」)の百日忌供養を営む。〔月航和尚語録〕


十月[越前北庄城]

十五日(晴)
この日、前日居城丹波亀山城より上洛した羽柴秀勝(「織田御次」/信長四男次丸。秀吉の養子)を喪主として葬儀が行われる。
棺には木造を納め長坂に葬る。先触れは秀吉の猶子である滝川氏が勤めたとの記載あり(「サキヲハ羽柴筑前守猶子、瀧川子、也」)。 秀吉は大刀を掲げる役を担う。
供養は十一日から十七日まで続けられ、十三日には禁中・誠仁親王(「宮御方」)・邦房親王(「伏見殿」)からも贈経があった。
葬儀の後、秀勝(「織田御次」)は亀山へ、秀吉(「羽柴筑前守」)は山崎城へ帰還。〔言経卿記〕




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1583/天正十一年

天正十一(1583)年

四月(越前北庄城→一乗谷?/越前大野辺?→安土城?)

二十一日
柴田勝家、合戦より北庄へ帰還。〔賤岳合戦記〕
落城を前にし、中村文荷斎または徳庵に命じて信長より拝領した天下の名物の道具を広間から書院にまで飾り立てる。〔賤嶽合戦記・柴田勝家始末記〕

二十三日
午前、攻鼓を止め、前日夜、山中にて「御子息権六殿」、「玄蕃允」を生け捕られたことを聞き、城中静まる。柴田方、城門を守るが打って出ず。〔太閤記〕
勝家は市に対し、城を出るように打診するが、市はこれを拒む。〔賤嶽合戦記・太閤記〕 また、茶々・初・江を城から出すことを勝家に相談し、勝家もこれを了承する。〔賤嶽合戦記・太閤記〕 夜、酒宴が行われる。〔賤岳合戦記・太閤記〕勝家と市、天守(「殿守」)に上がり、夜明けまでまどろむ。 〔太閤記・賤嶽合戦記〕

二十四日
柴田勝家、越前北庄城にて妻など数人を刺殺し、天守に火を掛けた後切腹して果てる。

〔兼見卿記、太閤記、賤嶽合戦記、川角太閤記、東印度会社遣日使節見聞録、日本耶蘇会年報、日本西教史、毛利家文書、秀吉事記、渓心院文、新撰豊臣実録、続本朝通鑑、遊佐落合覚書、祖父物語、武家事記、北畠物語、小早川家文書、村井重頼覚書、増補筒井家記、柴田勝家始末記、多聞院日記、豊鑑、江州余呉庄合戦覚書、可観小説、寛政重修諸家譜、十竹斎筆記、以貴小伝、柳営婦女伝系、玉輿記〕

早朝、まず勝家は死骸を敵に発見されないように、家臣(小島若狭守、中村文荷斎〔太閤記〕)に命じて城に火を掛けさせる準備をする。『賤嶽合戦記』では戸障子を集めて焼草とした、『太閤記』では天守の下に草を敷いたとも、『川角太閤記』では天守に火薬を積ませた、「日本耶蘇会年報」では各室に乾燥した藁を大量に積んだ、「東印度会社遣日使節見聞録」では、宴会をした部屋に多くの材木を運び入れたという。
その後勝家は家臣に、自らの遺骸を火にかけた後、秀吉と講和し生き延びるように言ったが、家臣らはこれを拒み勝家に殉じることを誓った〔日本耶蘇会年報・日本西教史〕。 そして市(わずか数カ月前に娶った〔日本耶蘇会年報〕)を介錯し、そののち子女や侍女を介錯した〔賤嶽合戦記・太閤記・毛利家文書〕。市のほか、十二人の妾、三千(十)人の女房とするのは『秀吉事記』、二、三人とするのは『渓心院文』。
その後、城に火を掛けさせ、自刃した。「日本耶蘇会年報」は市や侍女たちを介錯した短刀で自身の腹を十文字に掻き切ったとし、「秀吉事記」では中村文荷斎に介錯させたとする。
家臣はその後天守(五重〔太閤記・新撰豊臣実録・続本朝通鑑〕/九重〔毛利家文書・遊佐落合覚書〕にのぼり、勝家に殉じた。その数は三十余人〔太閤さま軍記のうち・太閤記〕:申の刻に殉じる)、また八十人とも〔毛利家文書・遊佐落合覚書・祖父物語・新撰豊臣実録・続本朝通観〕
勝家らの死骸は灰となり見つけられなかった。〔賤嶽合戦記〕


・勝家の年齢
「既に六十歳となりし」〔日本耶蘇会年報〕、「六十二歳」〔新撰豊臣実録〕、五十七歳〔続本朝通鑑・武家事記〕、五十八歳〔北畠物語〕

(様々な異説)
・天守に詰めさせた火薬に引火して天守がが爆発し、瓦が秀吉の本陣から十町の場所まで飛んできた。〔川角太閤記〕
・「小早川家文書」では勝家の自刃を辰下刻とし、「毛利家文書」では寅刻に羽柴軍が城攻めに取り掛かり、午刻に城へ乗り込み、悉く城兵の首をはねたとする。
・勝家は自刃の前に、七度討って出、天守へ登ると敵勢に向い、自分の切腹を見て後学にされよというと、まず妻子や一類を刺し、申下刻八十余名(七、八十名〔遊佐))と共にが切腹した。〔毛利家文書・遊佐落合覚書・祖父物語〕
・前田利家が講和を斡旋し、秀吉の了解を取り付けた後、本陣愛宕山から北庄城へ向かうときに北庄城に火が掛かり、勝家の死を知った。〔村井重頼覚書〕
・筒井順慶が旧交のよしみにより勝家へ降伏を進めた。中村文荷斎・太田徳庵に会い、勝家が上京して剃髪し、佐久間盛政が皆に変わり切腹すれば、権六郎勝久に和泉か伊賀一国を与える旨の約束を秀吉に取り付けたことを話す。勝家、これを聞き一笑に付し聞き入れなかった。〔増補筒井家記〕
・佐久間盛政が、柴田勝豊と共に秀吉方へ翻意する。〔柴田勝家始末記〕
・佐々成政(「サヽ蔵介」)離反(「帰忠」)によって二十三日に柴田勝家が死すとの噂が流れる。〔多聞院日記〕
・徳庵という法師が城内を調えて後、勝家に従い自刃する。〔豊鑑〕
・二十八日牛刻に勝家は城内に火を掛け切腹する。〔江州余呉庄合戦覚書・可観小説〕
・『寛政重修諸家譜』では勝家の自害を二十一日。
・太田徳庵が市を介錯する。〔増補筒井家記〕
・中村文荷斎が勝家・市ともに介錯する。〔祖父物語〕
・切腹の場所を広間とする。市は勝家の自害を見届け、続いて自害した。〔柴田勝家始末記〕
・秀吉に市を奪おうという意図があったという俗説を乗せるのは「祖父物語」、「十竹斎筆記」。

①市について
・勝家の妻(「北の方」)は、信長の妹で市(「いち」)という。信長が市を娘分として浅井長政に嫁がせ、五人の子を産んだ。男子は信長に殺され、市と三姉妹は信長のもとに送られた。その後市が三姉妹と共に勝家のもとに嫁いだ折、天下一のお生れ付きだったので、みな色めきたったという。〔賤嶽合戦記〕
・「増補筒井家記」に、市の供養碑(「石碑」)が養源院内にあることが記されている。

②勝家の退城勧告に対する市の返答(意訳)
・「小谷落城で浅井から織田に落ち延びたからこのような憂き目を見るのです。また生き延びれば人々の笑い草になりましょう」〔賤嶽合戦記〕
・「去秋の終わりに岐阜より参り、こうなるのも前世よりの宿業ですので今更驚くことではありません。城を出ることは考えてもおりません。しかし、三人の娘は城から出してください。父の菩提を弔わせ、また自らの菩提を弔ってもらうためです。」〔太閤記〕
「かつて長政と死を共にしなかったから、今またこのような目にあうのです。今また命を惜しめば、また名を汚すでしょう。しかし、三人の娘は菩提を弔わせるために助けてください。」〔新撰豊臣実録〕
・「かつて恥を忍んで小谷から落ち延びました。今また同じ辱めを受けるなら命を発ちます。ただ、三人の娘はまだ幼く、生きて夫(「長政」)の菩提を弔わせたいと思います」〔続本朝通鑑〕

③市と三姉妹の別れ
・市が三姉妹だけで城から出るようにいうと、茶々(「姉君」)は「いやです、母と死出の道を共にします」と泣くのを、中村文荷斎が無理やり引っ張って三人を城より出した。〔太閤記〕

④秀吉への言付
・勝家が富永新六郎という侍を付けて三姉妹を秀吉の陣所に送り届けた際、秀吉に宛てて、三姉妹が自らの子ではなく長政の「愛子」であり、また信長の血縁=「主筋」であるのでよろしく取り計らうようにと伝える。秀吉はこれに対して、主筋の姫を疎かにはしないので安心してほしい、と勝家に返答した。〔賤嶽合戦記〕
・市が信長に厚恩のある秀吉ならば、三姉妹を悪くは扱わないだろうと自筆の書状を添え、三人を一つの輿に乗せて秀吉方へ送り届けた。〔渓心院文・以貴小伝〕

⑤三姉妹の北庄退城
・柴田勝家の妻は信長の妹で浅井長政の後家だが、浅井長政の娘は二人(この二人は茶々〔「大坂秀頼ノ御袋」〕と江〔「江戸将軍ノ御台所」〕を指すが、三人の誤りだろう)あり、乳母の才覚によって無事に城を出ることが出来たという。〔当代記〕
・市が信長に厚恩のある秀吉ならば、三姉妹を悪くは扱わないだろうと自筆の書状を添え、三人を一つの輿に乗せて秀吉方へ送り届けた。侍女たちも残らず伴をさせ、自らも御三の間まで見送った。その時の市は実年齢(三十七歳)にも関わらず、二十二、三ほどの若々しさに見えたという。市が姿を見せると、敵軍も道をあけ、姉妹を載せる輿と女中を通した。〔渓心院文・以貴小伝〕
・勝家、三姉妹に富永新六郎をつける〔賤嶽合戦記〕
・三姉妹に家臣富永新六、奥村金次郎を添えて秀吉に送ると、秀吉は粗略には致しませんと返答した。〔柴田勝家始末記〕
・中村文荷斎に命じ、上村六左衛門を伴にさせて、末森殿(勝家姉)と共に三姉妹を逃がす。「乱」の後、越前大野に逃れていた三姉妹を秀吉がを迎える。〔新撰豊臣実録〕
・中村文荷斎の計らいで、三姉妹を一乗谷へ逃がす。秀吉、これを聞いて急いで三姉妹を迎え、安土城に送り届ける。〔柳営婦女伝系〕
・中村文荷斎により城を出され、遥の谷へ逃す。秀吉、これを聞き急いで三姉妹を安土城へ送る。〔玉輿記〕
・中村文荷斎が三姉妹を城外へ逃がした。〔続本朝通鑑〕

※『太閤記』では上村六座衛門は姉末森殿と娘に伴し、二人と共に命を絶ったたとあるので、三姉妹は中村文荷斎の計らいで、富永新六郎に伴され逃れたと思われる。

⑥勝家の親族
・上村六左衛門に伴わせて姉末森殿、その娘(『柴田勝家始末記』では佐野の方と娘蝶〔末森殿〕)を逃がす。その後、北庄落城を知り、逃亡先で二人の自害を助け、六左衛門も自刃する。〔太閤記・新撰豊臣実録・続本朝通観・柴田勝家始末記〕
・中村文荷斎に命じ、上村六左衛門を伴にさせて、末森殿(勝家姉)と共に三姉妹を逃がす。〔新撰豊臣実録〕
・『柴田勝家始末記』では、末森殿を勝家と佐野の方(佐野六郎女)の娘で名は「蝶」、勝家の養子勝豊の妻とする。また、佐野の方との間に六之助、作次郎、某の三人の子があったとする。勝豊と蝶の子国丸(天正十年二月三日卒)は西光寺に葬られているとする。
・『武家事記』では、佐久間盛政とともに捕らえられた権六を「嫡子」とする。
・『賤嶽合戦記』では「おくに」を十六歳になる勝家の子とし、盛政と共に捕らえられた子息とする。

⑦生き残った語り部
・身分が高く、弁舌さわやかな老女一人が語り部として生き残り、目撃した顛末を詳細に羽柴方で語った。〔日本耶蘇会年報〕
・落城時、数人が気後れして火を逃れ脱出したが、この者が後にこの時のことを語った。〔日本西教史〕



二十五日
秀吉、焦土と化した城内を検めさせる。〔太閤記〕
但し、『川角太閤記』、「老人雑和」では、前田利家が秀吉に勝家が逃亡していないかどうか確認することを勧めたが、秀吉は勝家が必ず自害しただろうと、遺骸を検めず、その足で加賀を平定しに向かったとする。



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