fc2ブログ

茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

RSS     Archives
 

1601/慶長六年

 
慶長六(1601)年
※ []内は茶々姫の居場所

正月[大坂城本丸奥御殿]


一日
大坂城にてこの日秀頼へ諸大名による年始の礼が行われる。最初の挨拶は徳川秀忠(「江戸中納言」)が務める。上洛しない大名が例年になく多かったという。〔義演准后日記(同月五日条)〕

四日(天晴/立春)
秀頼(「秀頼様」)、豊国社へ名代として羽柴秀俊(小早川秀秋/「羽柴侍従」)を遣わし、百貫を奉幣、神人らに進物する。 茶々姫(「秀頼御母」)、金子一枚を奉納する。
またこの日、寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、百五十を奉納する。〔舜旧記〕

九日(雨)
義演、秀頼と茶々姫(「御袋」)へ年始の進物と祈祷巻数を贈る。〔義演准后日記(同月八日条)〕

十日(大雨終日降、先日雪消)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ折・台物・樽を進上し、毎月の秀頼祈祷(大般若経転読)について尋ねる。〔義演准后日記〕

十三日(晴)
秀頼祈祷(大般若経転読)について大坂へ使者(久兵衛)を遣わす。〔義演准后日記〕

十四日(霽)
前田玄以より義演へ秀頼祈祷について、十五日に来坂すべき旨が伝わる。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて秀頼祈祷のための大般若経転読が執り行われる。〔義演准后日記〕

十七日(霽)
秀頼(言経「大坂中納言」、義演「秀頼」)名代として池田輝政(言経「池田三郎左衛門」、義演「池田三左衛門」)上洛、参内し、太刀・馬代として銀子五十枚を献上する。〔言経卿記・義演准后日記(同日十九日条)〕

十八日(晴)
秀頼の名で八幡山に建設中の堂宇が関ヶ原合戦によって中絶の記録。〔義演准后日記〕

十九日(晴)
来る二十四、二十五日に大坂城にて秀頼・家康への新年の総礼が行われる旨の触れが出される。〔義演准后日記〕

二十三日
大坂城総礼が延期される。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
義演、秀頼祈祷のために京にて一人で大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

二十六日(晴陰)
勧修寺光豊?(「勧修寺右大丞」)より、二十九日に秀頼(「大坂中納言」)へ総礼のため、大坂へ下向するよう触れが出される。〔孝亮宿禰記〕

二十九日(晴)
秀頼(義演「秀頼卿」、言経「秀頼」)、大坂城にて公家・門跡・諸大名に新年の礼を受ける。その後一部の者に対面し盃を授ける。孝亮は秀頼へ太刀を進上。〔義演准后日記・孝亮宿禰記・言経卿記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(雨風吹)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十九日(晴)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ桜一枝と樽を贈り、茶阿局母の死去を聞く。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(晴)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)の母死去につき、理趣経一巻・裹帋 金銀を柳盤に乗せ、香典三百疋を贈る。ただし茶阿局方、香典遠慮につき香典を義演方へ返す。〔義演准后日記〕

三日
秀頼(「豊臣中納言秀頼」)、大坂城西の丸(「大坂城の西城」)へ赴き、徳川家康・秀忠親子(「御父子」)を迎え、申楽を催す。そののち、二の丸(「西城二丸」)へと赴き、家康・秀忠の来臨を謝す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

四日(晩大雨)
後陽成天皇(「当今」)、政仁親王(「女御〔近衛前子〕腹皇子 当年五歳、旧冬親王宣下」)へ譲位の意ありという。これまで秀吉(「大閤」)の意思として、中山親子(中山大納言〔親綱〕女)腹の十四歳の第一皇子良仁親王(「親王」)が東宮同然に扱われていた。しかし、「当今(後陽成天皇)の意思」として五歳の政仁親王立太子のために良仁親王を仁和寺の御室とし、既に仁和寺の御室として入寺していた良仁親王の同母弟幸勝親王を改めて梶井宮最胤の弟子として三千院に入る事態となる。〔義演准后日記〕

五日(晴)
良仁親王(「親王」)、仁和寺に入室。ただしこの日良仁親王は食事もせず、そのために入室延期となりそうになったらしい。〔義演准后日記〕

十二日(天晴)
寧(「政所」)、神官らと花見のため豊国社へ参詣すし、神官らに進物する。〔舜旧記〕

十三日(雨降)
細川忠興(「長岡越中」)より梵舜を通して東殿息女こや(「御コヤ」/大谷吉継の妹)へ菓子折が送られる。〔舜旧記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十六日(天晴)
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣し、太刀折紙を奉納する。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
大蔵卿局(「大蔵卿殿」)、この日の夕暮れに社参し、銀子二枚・鳥目十七貫を奉納する。
またこの日、寧(「政所」)、豊国社へ参詣し銀子五枚、神楽銭として銀子二枚をを奉納する。また湯立を奉納し、別当跡継ぎの慶鶴丸に大麻を贈る。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
(※この日は豊国社正遷宮の日)
秀頼(「秀頼」)、豊国社へ名代として片桐且元(「堅切市正」)を遣わし、百貫を奉納する。 また茶々姫(「秀頼御母」)の祈祷のために神楽を奉納する。
この日、勅使として広橋兼勝(「広橋中納言兼勝」)が豊国社へ社参し、束帯・太刀・折紙を奉納する。〔舜旧記〕

三日
秀頼(「秀頼」)、秀忠とともに大納言に昇進する。(「一説に廿八日につくる。」との注記あり)〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

二十八日(晴)
義演、二条昭実と共に寧(「北政所」)の再建した三井寺へ参拝する。〔義演准后日記〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(小雨)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ今月の秀頼祈祷(大般若経転読)について尋ねる。〔義演准后日記〕

八日
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ今月の祈祷巻数と蒸竹の子を、茶々姫(「御袋」)へも祈祷巻数を贈る。
家康、上洛。〔義演准后日記〕

九日(晴)
家康、京で邸宅を建設するという。〔義演准后日記〕

十日(陰)
来る十六日に今月の大般若経転読が行われる旨が伝わる。〔義演准后日記〕

十一日
家康、参内する。〔義演准后日記〕

十五日(朝雨、辰刻晴)
義演、大坂へ下り、まず大蔵卿局に会う。その後片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出幡州」)に会い。帷を一重遣わす。〔義演准后日記〕

十六日(卯刻より雨、巳刻晴)
義演、辰刻より出仕し、大般若経を転読する。大蔵卿局より樽を多量に賜う。
義演、秀頼(「秀頼卿」)が書した豊国大明神の神号と天神の神号を賜り、その書に驚く。〔義演准后日記〕

十八日(雨降)
寧、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ覆盆二十籠を進上し、片桐且元(「片桐市正」)と小出秀政(「小出幡广守」)へ札を遣わす。また、醍醐寺門跡作事料についての使者として大坂へ下向中の茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女?)へも杉原を三束送る。〔義演准后日記〕

二十四日(霽)
秀頼(「秀頼卿」)の祈祷のため、明後日二十六日、金剛輪院にて大般若経を転読する旨を触れる。豊臣家、醍醐寺門跡作事料について承知の旨、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)が手紙で義演に知らせる。〔義演准后日記〕

二十六日(陰)
金剛輪院において義演を導師として十三人で秀頼(「秀頼卿」)祈祷の大般若経転読が執り行われる。
秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、毎月一日より三日に至るまで(三日が秀頼の誕生日のため)不動経を修する触が発せられる。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴、朝夕立)
この月から山上山下各七座によって秀頼の誕生日祈祷が始まる。各々住房において不動経を修す。札を進上する者もあり。〔義演准后日記〕

二十八日(霽)
前日から家康(「内府」)病気平癒祈祷が禁中より命じられ、この日より翌月三日に至るまで執り行われる。〔義演准后日記〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
義演、今月の秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、不動経を修す。〔義演准后日記〕

七日(天晴)
大蔵卿局(「大蔵卿」)、豊国社へ参拝し祈祷のために銀子二枚を奉納する。
この日、寧(「政所」)より豊国社神官たちへ進物あり。奉行は孝蔵主(「カウ蔵主」)。
徳川家康妻(「内府家中之女中衆」)、豊国社に湯立を奉納し、家康のために祈祷立願する。〔舜旧記〕

十六日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社神供とともに梵舜へ蓮飯を送る。〔舜旧記〕

十八日(雨風吹)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演服喪中のため、山上拝殿において秀頼(「秀頼卿」)誕生日(「正誕生日」)のための祈祷として大般若経転読が行われる。〔義演准后日記〕

四日(晴)
義演、大坂へ前日の祈祷札を進上する。〔義演准后日記〕

五日(晴)
大坂方より義演へ、杉原などを賜う。〔義演准后日記〕

十七日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、金子一枚・神楽銭十二貫(鳥目にて)を奉納する。また神官たちに進物などあり。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
秀頼、秀吉年忌につき豊国社へ小出秀政(「小出播磨守」)を遣わし、衣冠百貫を奉納する。 また秀頼の祈祷のため金子一枚にて湯立を奉納する。大蔵卿局(「大蔵卿」)、これを見物する。
勅使万里小路充房(「万里小路中納言充房」)、豊国社へ参詣し、束帯太刀折紙などを奉納する。また充房、個人的にも太刀折紙を奉納する。〔舜旧記〕

十九日(天晴)
豊国社にて申楽能が興行される。八条宮智仁親王(「八条殿」)、お忍びで観覧に来る。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(天晴)
茶々姫(「秀頼御母」)、豊国社斎場を造営する。〔舜旧記〕

十四日
義演、秀頼(「秀頼卿」)祈祷の為の札を十五枚書く。〔義演准后日記〕

札の内容
「奉 転読大般若経御武運長久所 御息災安穏 御願円満 消除不祥 増長福寿 諸人快楽 国土安全 攘災与楽 除災与楽増福延命 御息災延命 除病延命 御寿命延長 消除災難 攘災招福」

十五日(大雨)
義演、大坂へ下向し、大蔵卿局に杉原十帖・帯一包と手紙を送る。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経転読が執り行われる。その後義演以下、秀頼(「秀頼卿」)と対面し盃を頂く。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し湯立二釜を奉納する。〔舜旧記〕
晦日 徳川秀忠女珠(「珠君」/母は江)、加賀の前田利常(「猿千代利常(後中納言)」)に嫁す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(天晴)
茶々姫(「秀頼公御母 御年三十余」/1569年生まれだとこの年数えで三十三歳)、病のため曲直瀬道三の診察・処方(「快気湯、木香飲也」)を受ける。症状は気鬱と拒食、眩暈など。〔玄朔道三配剤録〕

六日(自朝陰)
徳川家康(「内府君」)、暇乞いのため大坂へ下向するとの知らせが有節瑞保に届く。九日に家康と面会する旨使者を送る。五日に妙心寺の焉侍者が家康と会っていた旨聞く。〔鹿苑日録〕
片桐貞隆(「片主」)、この日伏見に滞在の記録。午刻に伏見を発ち、寧(「政所様」)を詣でる旨有節瑞保に伝える。〔鹿苑日録〕

七日(自朝陰)
申刻、伏見において、徳川家康(「内府君」)諸大名(「各々大明衆」)の礼を受ける。〔鹿苑日録〕

十二日(天晴)
徳川家康(「内府家康」)、関東へ下向する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

閏十一月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(晴時々雪)
秀頼(「大坂中納言(大納言の誤り)」)家臣太田牛一(「太田和泉守」)により関ヶ原合戦記が記され、家康(「内府」)に献上される。〔言経卿記〕

十五日(天晴/節分)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。
豊国社において理趣三昧法楽が行われる。〔舜旧記〕

二十四日(陰)
大坂へ秀頼(「秀頼様」)祈祷の巻数と折を贈る。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
言経、勧修寺光豊(「右大弁宰相」)より秀頼(「大坂大納言」)の元日衣文奉仕のため大坂下向を仰せ付けられるが、難色を示す。翌日、高倉永孝(「藤宰相」)がこれに代わる。〔言経卿記(同日・二十八日条)〕



編年史料 目次
 

1602/慶長七年

 
慶長七(1602)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


大坂方、安芸安国寺へ寺領三百石を与える。〔東福寺誌(東福寺記)〕

一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕

三日(天晴)
秀頼(「秀頼」)、豊国社へ名代として小出秀政(「小出播磨守」)を遣わし、装束・太刀・折紙・馬代万疋を奉納し、巫女八人に板物一人当たり一端を遣わす。 続いて茶々姫(「御母」)も金子一枚を奉納する。また宇喜多秀家(「備前中納言」)も名代として参詣、十貫・神楽十二貫を奉納し、神官衆などへ進物する。〔舜旧記〕

七日(晴)
義演、新年の礼として秀頼(「秀頼様」・「秀様」)へ太刀・馬代三百疋、茶々姫(「御袋様」)へ杉原十帖・帯一包、 大蔵卿局へ帯を贈る。〔義演准后日記〕
梵舜、寧(「政所」)邸へ礼参し、寧へ杉原十帖・筆十封、孝蔵主(「カウ蔵主」)へ三十疋、客人局(「客人」)へ三十疋、梅久局(「梅久」)へ五本などを進上する。〔舜旧記〕

十三日(晴)
義演ら、秀頼祈祷のために不動経百座を修し、大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
義演、前日に大坂へ下向し、この日大坂城(「秀頼卿御殿」)にて大般若経転読が執り行われる。〔義演准后日記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(雨)
義演、去年より触れられた秀頼(「秀ー卿」)の誕生日祈祷として不動経を修し、武運長久を祈念する。〔義演准后日記〕
午刻、寧(「政所」)が参詣する。大坂より屏風を持参する。御忍びで「大坂様」(茶々姫か)も社参したという。神前庭にて神楽が二庭奉納される。小出秀政(「小出播州」)の采配で上の客殿に幕が張られ、二人はそこに入ったという。〔鹿苑日録〕

六日(天晴)
東殿(寧侍女・大谷吉継母?)、秀頼方(「大坂」)より申しつけあり。「在所家得之」とのこと。〔舜旧記〕

十三日(天晴)
徳川家康(「内府」)、上洛する。〔舜旧記〕

十七日(晴、晩雨)
秀頼(「大坂中納言(大納言の誤り)」)の名代として池田輝政(「池田三左衛門尉」)が参内、儀定所にて天皇に対面を許され、太刀・馬代として銀子五十枚、政仁親王(「親王御方」/後の後水尾天皇)へ銀子三十枚、長橋局(「長橋局」は匂当内侍の意。持明院基孝女、孝子〔後に基子と改名〕)へ五貫文を献上する。〔言経卿記〕

十八日(雨降)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十九日(陰晴)
家康(「内府」)、朝廷より源氏長者の内旨を伝えられるも形式上これを断る。〔言経卿記(同日条、翌二十日条)〕

二十一日(大雨)
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ灌頂院の初桜を一枝進上する。翌日、家康(「内府」)にも進上する。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
十日(雨降)
梵舜、吉田定継(「民部」)と共に寧(「政所様」)を訪問し、進物する。寧、孝蔵主(「カウ蔵主」)を以って礼を述べる。〔舜旧記〕

十五日
東寺金堂釿始が行われる。二十二日より事始。秀頼(「秀頼卿」)より費用の提供あり。〔義演准后日記(同日十九日条)〕

十六日
義演、秀頼(「秀頼様」)へ杜若と竹の子を進上する。〔義演准后日記〕

十八日
豊国社法楽について、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)より大坂へ申入。〔義演准后日記〕
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十日(雨)
二条昭実(義演)・冷泉為満(言経)・四条隆忠(言経)、翌二十一日の秀頼(「大坂中納言(大納言の誤り)」)への総礼の為、大坂へ下向する。〔言経卿記・義演准后日記〕

二十一日(大雨)
諸家による秀頼への年頭総礼が行われる。日野輝資(「日野大納言」)ことごとくみなの後見務める。近衛信尹(「近衛殿」)は出仕せずか。〔言経卿記・義演准后日記(同月二十六日条)〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十七日(天晴)
早朝、寧(「政所」)、木下家定(「肥後守」)・木下延俊(「木下右衛門大夫」)を供につれ、豊国社へ参詣し、銀子五枚・神楽銭二十二貫を奉納する。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
未刻(午後二時頃)、豊国社祭礼につき、秀頼(「秀頼公」)、名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)を遣わし、金子一枚・太刀折紙代百二十貫文を奉納する。神楽・奉幣あり。
この日の巳刻(午前十時頃)、勅使として花山院家雅(「花山院大納言家雅」)が豊国社に参拝し、太刀馬代五貫を奉納する。家雅、個人的にも一貫を奉納する。
また小早川秀詮(「金吾殿」/秀秋)も社参し、十貫を奉納する。〔義演准后日記〕

二十九日
家康、参内する。〔義演准后日記(同年五月一日条)〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(霽、未刻夕立)
義演、秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、愛染護摩を開白し、義照(「義照少僧都」)は不動護摩を開白する。〔義演准后日記〕

二日(辰刻雨)
前日から続く愛染護摩・不動護摩に加えて、諸僧によって大般若経が秀頼のために転読される。〔義演准后日記〕

四日(陰、小雨)
義演、秀頼へ今月の祈祷巻数・樽三荷・菓子折金銀絵・蒸竹の子を贈る。
家康(「内府」)、宮中を下がり伏見へ帰る。〔義演准后日記〕

七日
前田玄以(「徳善院」)関ヶ原合戦の頃より患っていた中風により死去。〔義演准后日記〕

八日(晴)
一日から続けられていた愛染護摩と不動護摩がこの日結願する。〔義演准后日記〕

十二日(大夕立)
大坂大般若経衆へ触が出される。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、前日大坂城に着く。この日、早朝大蔵卿局を訪ね、茶々姫(「御袋」)へ瀑布十端、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ瀑布五端、伊茶局(「いちや」)へ瀑布二端を贈る。後刻、大蔵卿局より樽二荷・両種・外居(「外飯」)一荷が返礼として使者(「甚五」)を通じて贈られる。義演、使者甚五へ帷、及び小出秀政(「小出播州」)へも帷三つを贈る。なお、片桐且元(「片桐市正」)はこの日伏見登城のため留守。〔義演准后日記〕

十六日(晴、少雨灑)
大阪城千畳敷御殿を道場に大般若経転読が義演らによって執り行われる。その後義演たち秀頼(「秀頼卿」)と対面し、盃を頂く。義演、秀頼へ瀑布十端を贈る。 またその後、義演は織田長益(「有楽」、「秀頼卿御親類執事也」)屋敷を訪れ、帷三つを贈る。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、所用により秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十九日(大夕立)
義演、「政所様」(寧)に生帷を、茶阿局(「ちゃ阿」)に生帷一つと糒袋を二つ贈る。〔義演准后日記〕

二十三日(天晴)
家康母大(「内府公御母儀」)、豊国社へ参詣し、九十貫を奉納する。神官巫女たちに進物あり。〔舜旧記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
某日
寧(「故太閤北政所」)、慶長元年の地震により傾いていた東福寺仏殿を修繕する。〔東福寺誌(仏殿再興梁文)〕

仏殿再興梁文
「恭願 丕図祝闘蛇齢帰者如岐阜之衆再造施修鳳(風)乎 巍然似霊光之存。   故太閤北政所 重修
 慶長七年壬寅六月 日   住持 永哲敬白」

一日
秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、今月も愛染護摩が開白される。〔義演准后日記〕

十一日
秀頼(「内府」)の名で豊国神社極楽門(向唐門か)が竹生島へ寄進するための解体が始まる。豊国神社には新しく神門(平唐門か)が造られるとのこと。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十二日(自朝晴天)
秀頼(「大坂秀頼公」)、大蔵卿局と内藤四郎を遣わし、若宮の祝儀として十荷七種、若宮へ金子十枚、御局へ「生白帷子(生絹帷子か)」二重、書状を献上する。〔鹿苑日録〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣する。奉納・進物あり。〔舜旧記〕

十二日(天晴)
前田利長(「前田肥前守」)、俄に豊国社へ参詣し、二十貫文奉納する。〔舜旧記〕

十五日(天晴)
梵舜、誓願寺に参詣の記事あり。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十四日(雨降)
徳川家康(「内府」)、豊国社社領より二百石を智積院領とする。
「昨年寄進した一万石の社領につき、修理料千石余の内二百石を祈祷料として智積院へ渡すように」との片桐且元(「片市正且元」)・加藤正次(「加喜左正次」)・板倉勝重(「板四郎右勝重」)連名の書状を吉田兼見(「吉田二位殿」)宛・智積院方に届けられ、 梵舜これを一読する。〔舜旧記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕

三日(晴)
秀頼誕生日祈祷のため、義演らによって大般若経が転読される。〔時慶記〕

六日(晴)
義演、大坂より布施として黄金一枚を賜る。〔義演准后日記〕

十七日(天晴)
巳刻(午前十時頃)、お寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、湯立奉納を見物する。金子一枚奉納あり。 八条宮智仁親王(「八条殿」)、この日の早朝に豊国社へ社参し、奉納あり。〔舜旧記〕

十八日(早天雨降)
豊国祭につき、秀頼(「秀頼」)、名代として小出秀政(「小出播磨守」)を豊国社へ遣わす。秀政、卯刻(午前六時頃)参詣し、百貫を奉納する。また個人的にも三貫文を奉納する。
次に、勅使として正親町季秀(「正親町中納言季秀」)が参詣し、束帯・太刀折紙を奉納し、奉幣する。
梵舜、この日の奉納日記を申し付けられるも、秀頼方(大坂)の意向か徳川家康(「伏見」)の意向かは分からず。〔舜旧記・義演准后日記〕

十九日(天晴)
豊国社申楽能あり。寧(「政所」)の御座所の簾五枚を新たに申しつく。〔舜旧記〕

二十一日(雨降)
茶々姫(「大坂秀頼御母義」)より豊国社へ黄金一枚奉納あり。〔舜旧記〕

二十九日
秀頼(「秀頼卿」)の名で建立されている東寺金堂、来月三日に棟上の知らせ。〔義演准后日記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
茶々姫(「秀頼御母儀」)祈祷のため、豊国社にて湯立奉納三釜あり。〔舜旧記〕
義演、東寺金堂の棟札を書す。

棟札の内容
「       本願高野山文殊院勢誉
 大檀那権大納言豊臣朝臣秀頼卿御建立
        慶長七 歳次壬寅 年九月三日
 裏書、法務准三宮義演判」

二日
秀頼(「秀頼公」)の名で秀吉(「大相国」)供養のために再建された(奉行は木食応其〔「興山上人」〕)東寺金堂にこの日棟札が打たれる。(東寺金堂は慶長大地震によって倒壊。)〔義演准后日記〕

三日(晴)
この日、秀頼(「秀頼公」)の名で再建された東寺金堂が棟上される。〔義演准后日記(慶長十年四月二十一日条)〕
秀頼祈祷のための大般若経転読衆の人事が治定される。〔義演准后日記〕

四日(雨)
義演、大坂に祈祷札・木綿一折を贈る。〔義演准后日記〕

六日(晴)
大坂より使者が帰り、義演へ大坂よりの返礼の杉原を届ける。〔義演准后日記〕

八日
孝蔵主、大坂へ下向中の記事。〔時慶記〕

十二日
大坂城大般若経転読衆に触れが出される。大覚寺理性院は今回免除される。〔義演准后日記〕

十四日
義演、翌日の大坂下向に向け、木札を用意する。紙札は二十枚送る。〔義演准后日記〕

木札の内容
奉転読大般若経六百軸御武運長久所 奉転読大般若経全部息災御安穏所

十五日(小雨灑)
義演、翌日の大般若経転読のため大坂へ下る。まず大蔵卿局に会い、その後片桐且元(「片桐市正」)と小出秀政(「小出播广守」)に会う。〔義演准后日記〕

十六日(雨)
大坂城にて義演を導師として大般若経転読が執り行われる。その後秀頼(「秀頼卿」)と対面、各々盃を賜る。〔義演准后日記〕
徳川家康生母大(「内府母義」)死去につき、後陽成天皇(「禁裏」)より触穢の儀が申し伝えられる。〔舜旧記〕

十六日(雨)
大坂城にて義演を導師として大般若経転読が執り行われる。その後秀頼(「秀頼卿」)と対面、各々盃を賜る。〔義演准后日記〕

十八日(天晴) 寧(「政所」)、触穢につき秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十三日(雨) 義演、大坂の片桐且元(「片桐市正」)へ石山寺供養の札を送る。〔義演准后日記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(晴)
秀頼の名で東寺金堂本尊の新造が命じられる。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。備前岡山城にて小早川秀詮(「金吾殿」/秀秋)死去故という。「同月ニ兄弟三人病死也、諸人不思義申了」とのコメントあり。〔舜旧記〕

二十三日(快晴)
秀頼(「豊臣朝臣秀ー卿」)を施主として再建された清涼寺釈迦堂の落慶供養が行われる。
孝蔵主、江戸へ下向準備で多忙。〔時慶記〕

二十四日
時慶室(「内儀」/孝蔵主妹?)、小早川秀秋(「岡山中納言」)の件でお寧(「北政所殿」)へ見舞う。〔時慶記〕

二十五日 孝蔵主、江戸へ下向。〔時慶記〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「豊臣朝臣秀頼卿」)、河内枚岡神社再興につき擬宝珠を奉納する(奉行は桑山重正〔「桑山市右衛門重正」〕)。〔河内枚岡神社神橋擬宝珠銘〕

二日
孝蔵主、未だ江戸にて息災の記録。〔時慶記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
四日(晴)
方広寺大仏殿・照高院などが大火により焼失する。秀頼の寄進で家康の指示により再建中の本尊大仏も焼失。 妙法院・豊国社は難を逃れる。〔義演准后日記〕

九日(大雪)
時慶、秀秋(「岡山黄門」)追悼文をお寧(「北政所殿」)へ届ける。〔時慶記〕
方広寺大仏殿焼失の火災はこの日も消えず。〔義演准后日記〕

十三日
孝蔵主、江戸より帰洛し、伏見・大坂へ遣いへ赴く。〔時慶記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕
孝蔵主、伏見に来る家康(「内府」)を迎えに石部(「石辺」)へ赴く。〔時慶記〕

二十四日(雪)
吉田斎場所正遷宮につき、秀頼(「秀頼」)、名代として大野治長(「大野修理」)を遣わす。
また勅使烏丸光広(「烏丸頭弁」)参詣し、束帯を奉納する。〔舜旧記〕

二十五日(晴)
家康(「内府」)上洛。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
義演、立春節分の祈祷巻数を秀頼(「秀頼卿」)へ贈る。〔義演准后日記〕

二十八日(晴)
義演、片桐且元より方広寺が再々建されると聞く。〔義演准后日記〕

三十日(雪)
秀頼(「秀頼卿」)に関白宣下を受け、秀忠(「江戸大納言」)が将軍宣下を受けるという噂が流れる。
「秀頼卿関白宣下之事被仰出云々、珍重々々、江戸大納言ハ将軍宣下云々、」〔義演准后日記〕



編年史料 目次
 

1603/慶長八年

 
慶長八(1603)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


茶々姫(「黄門秀頼卿御母儀、浅井備前守息女」)、寂光院を再興する。(「二世」とはこの時代は子女という意味はなく、「現世と来世」のこととのこと。)
「寂光院御再興、黄門秀頼卿御母儀、浅井備前守息女為二世安楽也」〔寂光院本堂額銘〕

秀頼の名で摂津白山神社を再建する〔白山神社由緒略記〕

一月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(天晴)
秀頼(「秀頼様」)、豊国社へ名代として小出秀政(「小出播磨守」)を遣わし奉納する。また神官たちへ進物あり。
小出秀政自身、福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・藤堂高虎(「藤堂佐渡守」)・浅野幸長(「浅野左京大夫」)からも奉納あり。
梵舜、吉田兼見(「二位卿」)を通じて祓札上書を依頼される。
〔舜旧記〕

三日(晴)
大蔵卿局(「大蔵卿殿」)、豊国社へ参詣し奉納あり。また新たな巫女を遣わす。 更に秀頼方(「大坂」)からとして吉田兼見(「二位卿」/梵舜兄)・慶鶴丸(豊国神社社務、兼見の孫)・吉田兼治(「左兵衛督」/兼見子、慶鶴丸父)らに進物を届ける。 舜旧記
義演ら(堯演〔「松橋法印」〕・憲応「報恩院法眼」・演賀・堯政・演快・演俊・演超)、秀頼(「秀頼卿」)の誕生日祈祷につき大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

六日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を訪問。寧・孝蔵主(「康蔵主」)・客人局(「御隔人」)・梅久・如潘へ進物あり。/td> 舜旧記
七日 義演、年頭の進物に井内経紹(「大蔵卿法橋」)を使者として遣わし、秀頼(「秀頼卿」)へ太刀一腰・馬代三百疋、 茶々姫(「御袋様」)へも杉原十帖・紅帯一包、また取次の大蔵卿局以下へ巻数二合を進上する。
また、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ樽を一荷・両種・天供団を遣わす。〔義演准后日記〕

九日(天晴)
お寧(「政所」)、豊国社へ参詣する。吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・梵舜らへ進物あり。慶鶴丸のために大麻(幣)も用意する。 また木下家定(「肥後殿」/お寧兄)・「おごや」からも奉納あり。〔舜旧記〕

十五日(晴)
義演、翌十六日の大坂城大般若経転読のため大坂へ下向。大蔵卿局へ文にて案内を請い、三百疋を贈る。 また取次の伊茶局(「いちや局」)へも二結を遣わす。大蔵卿局、早々の下向を喜び、また返礼として折と樽を義演に贈る。
また義演、片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出幡州」)・片桐貞隆(「片桐修善」)へも進物する。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて十五人の経衆によって大般若経転読が行われる。布施等の記録はあるものの、秀頼出座などの記録はなし。
また、この日伏見城にて公家衆による家康への総礼が行われる。〔義演准后日記(当日・翌十七日条)〕

十七日(霽)
伏見城にて門跡らにより家康への総礼が行われる。ただし、奈良の諸門(「南都門跡」)は不参。「進物ハ大閤之御時ノコトク欤」と記録。〔義演准后日記〕

十八日(陰)
大般若経衆へ二十日に秀頼(「秀頼卿」)祈祷のために大般若経を転読し、また論義を興行する旨の触が出される。〔義演准后日記〕

二十日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため大般若経転読が行われる。経衆は十六人。〔義演准后日記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
十二日
徳川家康、伏見城にて征夷大将軍の宣旨を受ける。〔徳川実紀〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国神社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十日
この日、秀頼へ年頭の総礼あり。諸公家、大坂へ下向する。〔慶長日件録(同月十九日条)〕

二十一日
文殊院勢誉(「文殊院」)、十九日に家康(「将軍」)へ礼参し、この日秀頼(「秀頼卿」)へ礼参するという。〔義演准后日記(同月二十六日条)〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(大雨)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日祈祷として、義演を導師として仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

六日
加藤清正、この日(『清正行状奇』では七日)熊本を発つ。大阪に着いた後、秀頼(「秀頼公」)に謁見し、利家へ参候し、そののち浅野幸長と共に家康(「家康公」)に将軍宣下を祝うために関東へ赴く。〔清正記・清正行状奇〕

十六日
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ竹子・藤・杜若を贈る。
また茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)が病のため、巻数を遣わす。〔義演准后日記〕

十八日(雨降)
寧(「政所」)、この月は秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十一日(天晴)
徳川家康(「内府家康」)上洛し、二条城(「京新城」)に初めて入る。〔舜旧記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(雨降)
寧(「政所」)、この日にわかに豊国社参詣・奉納あり。御内衆(女房衆?)・木下家定(「木下肥後守」)も奉納あり。〔舜旧記〕

十六日(天晴)
徳川家康(「内府家康」)、伏見城へ帰る。〔舜旧記〕

十七日(雨降)
寧(「政所」)、豊国社参詣あり。養母ふく(「七マカリ殿」/七曲殿)病平癒祈祷のため。〔舜旧記〕

十八日(雨降)
秀頼(「大坂」)、豊国社正遷宮の日(豊国社祭)につき、片桐貞隆(「片桐主膳正」)を名代としてこの日の巳刻に豊国社へ遣わす。 金子一枚・馬代百貫を奉納し、慶鶴丸に奉幣する。神楽奉納あり。 また吉田兼見(「二位卿」)・兼治(「左兵衛督」)・慶鶴丸へそれぞれ銀子五枚が貞隆を通じて贈られる。
同日午刻、勅旨大炊御門経頼(「大炊御門大納言経頼」)が束帯にて豊国社参詣・奉納あり。〔舜旧記〕

十九日(晴)
山科言経、中原師生(「大外記師生」)と秀頼の内大臣宣下について談合する。〔言経卿記〕
豊国社能が興行され、細川藤孝(「幽斎」)がこれを見物する。〔舜旧記〕

二十日
筆者、宇治への道中、伏見にて勧修寺光豊(「藤宰相」)に会う。光豊は大坂への道中で、二十二日に勅使として訪問することを聞く。筆者、これを聞いて秀頼への関白宣下の勅使だと思う。〔鹿苑日録〕

二十二日(晴)
秀頼(言経「大坂大納言秀頼卿」、実紀「豊臣大納言秀頼卿」)、正二位内大臣宣下を受ける。広橋兼勝(実紀「広橋大納言兼勝卿」)・勧修寺光豊(実紀「勧修寺宰相光豊卿」)、大坂へ下向あり。家康、江戸より青山忠成(「青山常陸介忠成」)を大坂に遣わし、これを賀す(実紀)。〔言経卿記・徳川実紀〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
茶々姫(「内大臣秀頼公御母」)、病のため曲直瀬道三の診察・処方(「回春痞満養胃湯、術苓貴半各一匁、莎宿木実白冠霍朴各七分、甘姜棗、二十余日之後、以右剤為丸、久用之効」)を受ける。症状は気鬱と胸の苦しみと痛み、全く食事が取れず、頭痛もあるとのこと。〔玄朔道三配剤録〕
秀頼、玉祖神社を再興し、山手銭(二十三貫九百六十文)・山手米(八斗)を寄付する。これについて片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出播磨守」)、連名で玉祖神社寺社中へ書状を送る。〔玉祖神社文書〕

二日
翌三日、秀頼(「秀頼卿」)誕生日祈祷について山上・山下に祈祷の触が出される。〔義演准后日記〕

三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日のため、義演を導師として十四人の経衆によって(「金剛王院〔実融〕故障也」)大般若経が転読される。〔義演准后日記〕

十日(大雨)
大蔵卿局、茶々姫の末妹督(江/「江戸大納殿〔徳川秀忠〕女中」)の上洛につき、迎えるために近江へ下る。義演、大蔵卿局に樽を送る。〔義演准后日記〕

十一日(大雨)
義演、近江土山にて滞在中の大蔵卿局へ音信を遣わす。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、秀頼祈祷のために大坂へ下向。大蔵卿局は江の伏見上洛につき伏見に滞在の記録。伊茶局(「いちや」)へ曝二端・樽を進上。また小出秀政(「小出播广」)・片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「片桐修善」)へも進物。
千、母江とともに秀頼へ輿入れのため、江戸城より伏見城へ上洛する。〔義演准后日記〕
『徳川実紀』によると、江(「大納言殿の北方(崇源院殿の御事。)」)と千(「千姫君」)は秀忠(「大納言殿」)に伴われまず青山忠成(「青山常陸介忠成」)邸へ入り、一泊した後に江戸を発ち、伏見城に付いた後、徳川家康と対面があったという。また当時江が身重であったことにも触れ、千の身を案じてまげて伏見まで同行し、婚礼の準備を調えたとされている。〔徳川実紀・(『浅井三姉妹の真実』)〕

十六日(大雨)
卯刻より大坂城にて秀頼祈祷のための大般若経が転読される。経衆十五人(堯演〔「松橋法印」・俊典・実融〔「金剛王院法印」・俊長・演照・演賀・憲応〔「報恩院法眼」〕・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・宋倩〔「宗倩」〕・演超・演眞〔「今度初、弥勒院也」〕)。
祈祷の後、義演ら経衆、秀頼(「秀頼卿」)と対面し盃を賜る。〔義演准后日記〕

六月[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「内大臣豊臣朝臣秀頼卿」)、竹生島弁才天堂を再興する(奉行は片桐且元〔「片桐東市正且元」〕)。〔近江竹生島弁才天堂棟札〕

十二日
江(「江戸大納言女中」)、義演へ返礼として単物一ツ・生帷一ツを進上する。〔義演准后日記〕

十三日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を見舞のため訪問し、飴粽二百折を進物する。寧、梵舜に帷を青白の二つ返礼として贈る。〔舜旧記〕

十七日(非夕立大雨)
義演、江(「江戸女中」)へ返礼として揚梅一折を、督の侍女(「局」/京殿?)へ札を遣わす。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、この月は養母七曲殿(浅野長勝妻ふく)の服喪中につき月忌の参詣はなし。〔舜旧記〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
八日
徳川家康、大坂より孝蔵主(「孝蔵主尼」)を始めとする女房衆を二条城に招き、猿楽を催し饗応する。孝蔵主・長野局等はそのまま一泊する。この会合は千の入輿・婚礼について話し合い・接待であったという。〔徳川実紀〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、養母七曲殿(浅野長勝妻ふく)の服喪中につき月忌の参詣はなし。 福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・加藤清正(「主計頭」)参詣する。〔舜旧記〕

二十八日(慶長:雨、舜:天晴→晩雨振)
この日、千(慶長「江戸大納言御息女」、舜「江戸大納言御娘」、実紀「千姫君」)、伏見より大坂へ船にて秀頼(慶長・実紀「内大臣秀頼公」、舜「秀頼」)に入輿する。道中は諸侯によって警護されたという(舜「路次中之警固歴々也」)。舟橋秀賢、この話を中原師生(「掃〔「部」脱か〕正」)より聞く。

『徳川実紀』に見る千の入輿の様子
千姫を守る御供の船は千艘に及び、堤の東方では西の諸大名がとりどりに警備し、西方では前田利長(「加賀中納言利長卿」)が大ぜいを引き連れて警護していた。細川忠興(「細川越中守忠興」)は備前島辺を警護し、黒田長政(「黒田甲斐守長政」)は弓鉄砲隊を三百人動員、堀尾忠氏(「堀尾信濃守忠氏」)もまた歩兵三百人を動員して警戒にあたった。入輿の日に先んじて水路を整備していたため、船は滞ることなく、大橋までたどり着いた。大坂城では大久保忠隣(「大久保相模守忠隣」)が輿を渡し、浅野行長(「浅野紀伊守幸長」)がこれを受け取った。城中には大手門より玄関まであらかじめ畳を敷き、そのうえに白綾をしいていた。片桐且元はこれを聞いて、家康は質素倹約を好み華美を嫌うのに、これはその意に背くのでは、と制したという。また、江原金全’「江原与右衛門金全」)が千の執事に命じられた。
これにより、家康による秀頼の後見は盤石のものとされ、天下泰平の雰囲気となったが、一方でこの婚礼で示された徳川の権威に、誰ひとり逆うまいという血判を捧げたという。〔慶長日件録・舜旧記・徳川実紀〕

この月
江(「大納言殿北方」)、伏見城において初(「初姫君」)を産む。督の姉初(「故京極宰相高次が後室常高院尼」)、この娘を引き取り育てて、嫡子忠高(「若狭守忠高」)に娶せる。〔徳川実紀〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日につき、十三人の経衆によって大般若経が転読される。 義演、大坂へ井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、秀頼へ札・馬・太刀、茶々姫(「御上様」)へ葡萄一折、大蔵卿局へ杉原十帖、伊茶局(「いちや」)へ百疋を贈る。〔義演准后日記〕

八日(雨)
秀頼と(「秀頼卿」)千の祝言について、公家衆の礼参は十二日に予定される。門跡衆の礼参は未だ日程決まらず。〔義演准后日記〕

九日(雨)
茶々姫、秀頼のために舟橋秀賢へ貞永式目仮名注の執筆を依頼し、この日出来上がる。〔慶長日件録〕

十一日(晴)
秀頼(言経「内府秀頼公」、慶長「秀頼卿」)と千の婚儀のため、公家衆(冷泉為満・山科言緒・四条隆昌・舟橋秀賢など)が大坂に赴く。〔言経卿記・慶長日件録〕

十二日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)、大坂城秀頼邸にて婚儀の祝いを受ける。始めに摂関家の礼と振舞、続いて清華家の礼と振舞。つづいて一献・太刀の進上あり。〔慶長日件録〕

十三日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片桐市正」)を訪る。且元同道で大坂城へ登り、茶々姫(「萱堂」)より依頼の貞永式目仮名抄(上下二冊)を進上する。 秀賢、茶々姫より且元を通じて帷一重・袷一・銀子五枚を拝領する。秀賢、秀頼・茶々姫へ錫酒鍋三ツを進上する。酉刻退出の後、茶々姫より改めて見事な出来を感謝する旨の返事が来り、帷一種・袷一・銀子五枚を拝領する。〔慶長日件録〕

十五日(大雨)
秀頼の婚儀につき、門跡衆(常胤〔「妙法院二品宮」〕・道澄〔「聖護院二品宮」〕・義演・最胤〔「梶井無品」〕・尊勢〔「一乗院准后」〕・良恕〔竹内無品〕・ 義尊〔実相寺【院】〕)が祝賀のために登城する。
その振る舞いにつき、義演、「大閤御所御威光未相残了、珍重/\」と記載。
義演、秀頼(「秀頼御所」)に馬・太刀・馬代三百疋、茶々姫(「御袋」)に樽代千疋、千(「姫君」)に杉原十帖・段子一巻を進上する。〔義演准后日記〕

十六日(天晴)
暮、秀頼(「秀頼様」)、有節瑞保に綾の単物、袷、帷子一つずつを贈る。〔鹿苑日録(同月十七日条)〕
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十七日(晴天)
有節瑞保、秀頼(「秀頼様」)へ昨日の謝辞を述べるために大坂城に赴く。〔鹿苑日録〕

十八日(天晴)
豊国祭。
秀頼(「秀頼」)の名代として片桐且元(「片桐市正」)が装束にて参詣、金子一枚・鳥目百貫文を馬代として奉納する。且元退出後の午後、吉田兼見(「二位卿」)兼治・慶鶴丸へ銀子五枚・帷袷を贈る。
また勅旨として中山慶親(「中山中納言慶親」)が束帯にて参詣奉納する。
寧(「政所」)は、東山阿弥陀ヶ峰の秀吉廟所(「山上之廟所」)へ参拝し、豊国社へは孝蔵主(「カウ蔵主」)を遣わし銀子十枚を奉納する。また、吉田兼見(「二位」)・兼治・慶鶴丸など神官らへ進物する。梵舜、慶鶴丸の叙爵について、西笑承兌(「兌長老」)より権少副を兼する旨を聞く。〔舜旧記〕

十九日(雨降)
豊国社にて能興行あり。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
秀頼誕生日の祈祷として、義演を導師として山上・山下衆によって大般若経が転読される。〔義演准后日記〕

十五日(陰)
義演、翌十六日の秀頼祈祷のために大坂へ下向する。大蔵卿局・片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出播广」)に音信を贈り、案内を請う。〔義演准后日記〕

十六日(雨降)
大坂城にて、秀頼祈祷のために大般若経が転読される。義演を導師として、他の経衆は「理性院法印公秀」・堯演(「松橋法印一雅」)・実融(「金剛王院法院盛融」)・俊典・俊長・演賀・憲応(「報恩院法眼憲応」)・堯政・亮済・演快・演照・宋倩・演超・演眞。
転読の後、義演ら秀頼(「秀頼卿」)に対面し、布施を賜る。またこの日、千(「江戸姫君」)からも賜物あり。義演は銀を十枚、杉原を五十帖賜る。
※ 後日〔同月二十三日参照〕義演が千にこの日の返礼を贈るが、その取次に大蔵卿局の名前が挙がっていることから、この進物は茶々姫の世話によると思われる。〔義演准后日記〕

二十三日
義演、十六日の千(「江戸姫君」)からの進物に対する返礼として柿を一折、大蔵卿局へも同じ件で柿籠を進上する。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
加藤清正(「主計」)の伏見屋敷が焼失する。〔義演准后日記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日の祈祷として義演を導師として仁王講が行われる。〔義演准后日記〕
寧(「北のまん所」)、長橋局よりの女房奉書を使いの後陽成天皇乳母(「大御ちの人」)より賜り、高台院(「かうたいゐん」)の院号を朝廷より賜る。寧、直ちに返礼し、新上東門院勧修寺晴子(「女ゐんの御所」)へ白銀二十枚・とんす五巻、女御近衛前子(「女御の御かた」)へ白銀二十枚・とんす五巻、長橋局(「なかハし」)へ白銀十枚・小袖一重、天皇乳母(「大御ちの人」)へ白銀十枚・小袖一重を贈る。〔お湯殿の上の日記・高台寺文書〕

女房奉書(高台寺文書)

北のまん所殿ゐんかうの御事、かうたい院との御事、ちよつきよにておはしまし候よし、心候て申候へくそうろう、かしく、
     たれにてもの
          人々
             申給へ

六日(晴)
義演、秀頼(「大坂」)へ紅葉枝ならびに柿籠を進上する。
江(「江戸ノ女中」)、先日義演から贈られた巻数の礼として杉原を五十帖進上する。〔義演准后日記〕

九日(晴)
本願寺准如(光昭)の妻(顕尊〔佐超〕の長女)の乳母「太田」、江(「江戸大納言殿〔秀忠〕女中」)に仕えるべく伏見城へ下向する。〔言経卿記〕

二十日(晴)
大野治長(「大野修理大夫」)、義演に植木の柏・樅(もみ)の木を所望する。〔義演准后日記〕

二十五日(晴)
義演、大野治長(「大野修理大夫」)へ所望された柏木を十二本贈る。〔義演准后日記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日につき祈祷の為に仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

二十二日(晴)
義演、大坂へ「三河」を遣わし、秀頼(「秀頼卿」)へ巻数・折・絵、茶々姫(「御袋」)へ巻数、千(「姫公」)へ巻数・折・絵、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ折・文、伊茶局(「いちや」)へ百疋、片桐且元(「片桐市正」)へ折を贈る。〔義演准后日記〕



編年史料 目次
 

1604/慶長九年

 
慶長九(1604)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


秀頼の名で摂津呉服神社(現在の大阪府池田市)の社殿を修復する。〔(調査中)〕

一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
豊国社元旦神事につき、寧(「政所様」)、人を遣わし、吉田兼見(「二位卿」)・慶鶴丸ら神官へ進物あり。〔舜旧記〕

三日(晴)
未刻、秀頼(「秀頼様」)の名代として小出秀政(「小出播磨守」)は装束にて豊国社へ参詣する。神前へ太刀折紙(白紙)・金子一枚を奉納する。 また吉田兼見(「二位卿」)へ小袖一綾一、兼治(「左兵衛督」・「左兵衛佐」)・慶鶴丸へ小袖二・惣神官へ百貫・神楽巫女へ杉原十帖・銀子一枚を贈る。
小出秀政自身、福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・藤堂高虎(「藤堂佐渡守」)・浅野幸長(「浅野左京大夫」)からも奉納あり。〔舜旧記〕
秀頼の誕生日祈祷が延引される。〔義演准后日記〕

六日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を新年の礼に訪問し、杉原十帖・水引五十把を贈る。また錫・盃二あり。 また、客人局(「客人」)・古茶局(「おこちゃ」)・木下家定(「肥後殿」)・慶円・彦三郎・梅久局(「梅久」)へも進物など有。〔舜旧記〕

十日
淀川の堤の修繕がこの日より行われる。徳川方より板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)が、大坂方より片桐且元(「片桐市正且元」)がこれを監督する。〔徳川実紀〕

十五日
義演、辰刻(午前八時頃)大坂に着き、大蔵卿局へ三百疋、取次伊茶局(「いちや」)へ二百疋を贈る。 また小出秀政(「小出播州」)・片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「同主膳」)へ各馬代三百疋・太刀を贈る。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。導師は義演、経衆は演俊・演超など。転読・布施の後、秀頼(「秀頼公」)と対面し、盃を賜る。〔義演准后日記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
秀頼の誕生日祈祷のため仁王講が行われる。ただし、義演は眼疾のため参加できず。
義演、醍醐寺二王門建立について昨月晦日に片桐且元(「片桐市正」)へ使者を送り伺いを立てたが、その返事がこの日来る。 曰く、二王門建立の願いは内々に申し入れられたい、とのこと。よって義演、豊臣家老女であった茶阿局(「ちゃ阿」)を通じて申し入れるべきか思案する。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
義演、秀吉の月命日に付き豊国神社(「豊国大明神」)へ参拝・奉幣し、理趣経を講じる。また秀頼(「秀頼卿」)へ桜枝を進上する。〔義演准后日記〕

二十九日
大蔵卿局、義演へ来月十一日に大坂城にて大般若経を真読する旨を伝える。義演、経衆を二日に渡り各二十五人、計五十人を召す由返答する。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
義演、大蔵卿局へ十一日の大坂城大般若経真読について文を遣わす。〔義演准后日記〕

四日
義演、東寺へ十一日の大坂城大般若経真読の参勤を触れる。光明院堯瑜・宝厳院空盛・宝菩提院禅源・金勝院宗深・実相寺恵純の五人が参勤するという。〔義演准后日記〕

六日(晴)
山科言経、秀頼(「大坂秀頼公」)家臣白江善左衛門尉に快気散・愛洲薬を遣わす。〔言経卿記〕

十日(丑刻降雨)
義演、この日大坂へ着き、茶々姫(「御袋様」)へ樽代千疋、大蔵卿局へ五百疋、伊茶局(「いちや」)へ三百疋を贈る。即日、返礼として茶々姫(「御袋」)より三荷・三種、大蔵卿局より同樽が届く。また、片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「同名主膳」)・織田長益(「有楽」)へも進物する。〔義演准后日記〕

十一日(屬晴)
大坂城にて大般若経真読が行われる。経衆は「菩提山僧正」・理性院公秀・松橋堯演・ 俊典・光明院堯瑜・宝厳院空盛・西林院慶順・俊長・演賀・宝菩提院禅源・報恩院憲応・堯政・金剛王院実融・源朝・亮済・石山世尊院景祐・演快・演俊・澄然・宋倩・演超・山田長運(「宰相」/空盛弟子)・右衛門督・実相寺恵純・金勝院宗深の二十五人。
この日の夕刻秀頼に対面し、盃を賜る。〔義演准后日記〕

十二日(晴)
大坂城大般若経真読二日目。後半の十巻が真読される。転読の後、加持祈祷を行う。
この日も祈祷の後秀頼(「秀頼」)の出座あり、倍膳の大名衆の集う中で対面を許され、盃を賜る。
二日にわたる真読に大量の布施が贈られ、義演は「過分ノ布施也」と記載する。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
秀頼(「秀頼卿」/実際は茶々姫か)、舟橋秀賢に職原抄外題の執筆を依頼する。〔慶長日件録〕

二十七日
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ真読布施の返礼として匂袋二十袋を進上。また大蔵卿局へも五袋、取次(伊茶局ヵ)に三袋、片桐且元(「片桐市正」)へ五袋、片桐貞隆(「同主膳」)へ五袋を贈る。 今回初めて山田長運(「宰相」)を使者とする。〔義演准后日記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
この月(十八日?)
丹後国の大名・京極高知(「羽柴修理大夫」、「高知」/茶々姫の従弟)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

三日(晴)
秀頼誕生日に付き、大般若経が転読される。経衆は理性院公秀・演賀・亮済・演快・堯政・演俊・演超。〔義演准后日記〕

五日(晴)
義演、先月の大坂城大般若経真読につき持ち出した大般若経六十合を報恩院経蔵へ返納する。〔義演准后日記〕
細川忠興(「長岡宰相」)・京極高次(「京極宰相」)・池田輝政(「池田三左衛門尉」)・福島正則(「福嶋左衛門大夫」)ら上方大名・及び公家衆、伏見の家康(「大樹」)へ賀礼へ参ずる。〔言経卿記〕

六日(晴)
秀頼(「大坂内府」)、片桐且元(「片桐市正」)を伏見に遣わし、家康(「大樹」)へ金子十枚などを贈る。またこの日、織田信包(「織田上野介入道」)も伏見へ礼参する。〔言経卿記〕

九日(微雨、陰晴)
舟橋秀賢、この日、秀頼(「秀頼」/実際は茶々姫か)より執筆を依頼された三略(中国の兵法書。)に表紙を附す。〔慶長日件録〕

十四日(晴)
舟橋秀賢、秀頼(「秀頼様」)へ参礼のため、高尾僧正性院・木食応其とともに大坂へ赴く。平野長治(「平野己雲斎」)邸に滞在する。〔慶長日件録〕

十五日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片桐市正」)を訪れ、秀頼(「秀頼卿」)への謁見を申し入れる。且元曰く、明日対面ありとのこと。〔慶長日件録〕

十六日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片桐市正」・「片市正」・「市正」)に伴われ登城し、秀頼(「秀頼様」)に対面する。秀賢、秀頼より手ずから熨斗鮑を賜る。また秀賢、秀頼に太刀一腰・三略を進上する。秀頼、喜んですぐに披見し、秀賢をねぎらう。秀賢、続いて茶々姫(「秀頼様御母堂様」)へ杉原一束・箔ノ帯二筋裁・を帯一筋の上に置いて進上する。また千(「秀頼様政所様 此時御姫様称之」)へ錫五封を贈る。
また、高尾僧正性院もこの日秀頼に礼参するという。〔慶長日件録〕

二十二日(陰、夜雨)
秀頼(「秀頼公」)、言経へ短冊を十枚遣わし、古歌の書写を依頼する。〔言経卿記〕

二十三日(晴)
言経、秀頼(「秀頼公」)の依頼に古今和歌集より十歌を認め、伏見の片桐且元(「片桐市正」)を通して献上する。〔言経卿記〕

年の内に春は来にけり一とせを 去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ /在原元方
見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける /素性法師
夏の夜のふすかとすれば郭公 鳴く一声(ひとこゑ)に明くる東雲(しののめ) /紀貫之
我が背子が衣の裾を吹返し うらめつらしき秋の初風 /読人不知
白雲に羽撃ち交はし飛ぶ雁の 数さへ見ゆる秋の夜の月 /読人不知
朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪 /坂上是則
亀の尾の山の岩根をとめて落つる瀧の白玉 千世の数かも /紀惟岳
見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめ暮らさむ /在原業平
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして/在原業平
風吹けば沖つ白浪たつた山 夜半にや君がひとりこゆらむ /読人不知

五月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼誕生日に付き、大般若経を転読する。義演を導師として、経衆は理性院公秀・松橋堯演など十五人。
その後、井内経紹(「大蔵卿」)を使者として祈念札及び蒸竹子を秀頼(「大坂」)へ贈る。〔義演准后日記(当日・翌四日条)〕

十五日(寅刻雨降)
義演、巳刻大坂に着き、大蔵卿局へ文を送り案内を請う。また、大蔵卿局へ樽代三百疋を贈る。 取次の伊茶局(「いちや方」)へも二百疋を遣わす。すぐに返礼として樽が贈られ、いつものように早朝から祈祷を始めたいとの返答あり。〔義演准后日記〕

十六日(屬晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。義演を導師とし、経衆は理性院公秀・松橋堯演・金剛王院実融・俊典・演照・演賀・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・澄然・宋倩・演超。転読の後、加持祈祷を行う。
その後布施を賜る。秀頼よりは義演に導師分として銀二十枚・綾ノ単物三ツ、千(「姫君」)よりは導師分として帷単物以下三ツ、経衆分として銀二枚ずつなど。
その後秀頼と対面があり、それぞれ盃を賜る。まず義演が秀頼より盃を賜り、続いて義演より秀頼(「秀頼卿」)へ返盃する。〔義演准后日記〕

二十八日(雨降)
大蔵卿局・三位局が上臈たちへ書状を認め、来月三日に九条忠栄(「九条殿」)と完子の婚礼の祝言が行われるためその出席を上臈たちに請う。 慶長日件録
義演、「九条殿」(九条兼孝)の息子忠栄と茶々姫の養女(後の完子)の婚礼祝儀が来月三日に行われる知らせを聞く。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(雨)
舟橋秀賢、九条亭を訪れる。九条家、完子(「岐阜之小吉息女」)を迎える準備で大童の様子。〔慶長日件録〕

二日
大徳寺にて織田信長の二十三回忌法要が行われる。施主は茶々姫(「大日本国摂州居住奉三宝弟子豊氏大夫人」)。〔半泥稿〕

三日(晴)
この日の夜、茶々姫(慶長「秀頼卿母堂」)、養女の完子(慶長「三好小吉息女」・時慶「岐阜中納言」/羽柴小吉秀勝と江の娘)のため、九条忠栄(義演「九条御方御所」、慶長「九条殿中納言」/後の幸家)への輿入れを世話する。 その世話は路地行粧撫物に至るまで細部に及び、それらは人々の目を驚かすほどの立派さだったという。

『慶長日件録』の完子に関する記載
「其身三好小吉息女也、小吉死後、秀頼卿母堂為猶子養育也、今度秀頼卿母堂、悉皆御造作也、」
「岐阜中納言ノ女中、引違テノ儀ト也」〔時〕
阿古(准如妻/顕尊〔佐超〕長女)・准如娘・西御方(顕尊後室冷泉為益女。誠仁親王元典侍)・万(「御姫御方」/顕尊〔佐超〕次女)・准尊(顕尊跡継)・古満(准尊妻。宍戸元秀女で毛利輝元養女。始め小早川秀秋の妻)ら、この輿入れを見物する。〔言〕
〔慶長日件録・言経卿記・義演准后日記・時慶記〕
秀頼誕生日に付き、大般若経が転読される。経衆は九人。〔義演准后日記〕

四日
この日の夜、「姫君ノ乳母人」が自害する。時慶、「前代未聞」と驚愕し非難する。〔時慶記(同月十三日条)〕
義演、完子(「九条殿御内儀」/※ 史料纂集版では兼孝妻・高倉熙子と解釈するも如何)より婚礼祝儀の返礼として銀子三十枚・生帷三重を賜る。 義演、使いの侍に帷を一重遣わす。〔義演准后日記〕

五日(晴)
義演、婚礼の祝儀として九条忠栄(「九条殿」/※ 史料纂集版では九条兼孝と解釈)へ晒布百端・杉原二百帖・樽五荷・肴五種を進上する。 また「同局」へ杉原五十帖を送る。大坂へは大蔵卿局へ晒十端・樽三荷・肴三種、伊茶局(「同いちや」)へ晒五端・伊茶の息子(「同子」)矢野五左衛門(「五左衛門」)へ晒三端、「江戸ノ局」へ樽三荷・肴三種を送る。〔義演准后日記〕

六日(晴)
義演、婚礼の祝儀に九条亭へ赴き、九条忠栄(「御方御所」)へ太刀折帋・馬代三百疋、九条兼孝(「大御所」)へ樽三荷・肴三種を進上し、三献を賜る。二条昭実(「二条殿」)・鷹司信尚(「鷹司御方」)・随心院増孝も同道。〔義演准后日記〕

七日(晴)
舟橋秀賢、九条亭へ婚礼の祝いに訪れる。九条忠栄の父兼孝(「関白様」)に樽を二荷・肴三種(くま引五・昆布三束・するめ十寸)、忠栄(「殿中納言殿」)へ樽三荷・肴三種(昆布五束・くま引十枚・するめ十寸)、完子姫(「同御簾中」)へ樽三荷・肴三種(昆布五束・鯛二十枚・するめ十寸)を贈る。
返礼として秀賢、忠栄(「中納言殿」)より帷一ツ、完子(「御簾中」)より帷二ツを賜る。〔慶長日件録〕

八日(晴)
舟橋国賢(「家君」)、九条亭へ婚礼の祝いに訪れ、九条忠栄(「御方御所」)と対面する。〔慶長日件録〕

九日(晴)
大蔵卿局(「秀頼公御母堂之乳母大蔵卿」)、完子婚礼整えるべく、舟橋秀賢の隣屋敷に滞在の記録。
この日、舟橋秀賢夫人(「女房衆」)、が隣家の大蔵卿局に見舞い、杉原十帖・一包(糒袋ヵ?)を贈る。その午後に大蔵卿局、秀賢夫人へ返礼として十帖(杉原ヵ)と一巻(単物ヵ)を贈る。
その夜、秀賢夫人、完子(「九条殿若御上様」)を訪れ、樽三荷・肴三種を進上する。〔慶長日件録〕

十日
徳川家康(義演「将軍」、慶長「大樹」)、近日参内のため(「当年初」)伏見城より二条城へ上洛。〔義演准后日記、慶長日件録〕

十一日(晴)
この日の朝、九条忠栄(「九条殿、殿中納言殿」)、服部忠兵衛を使者に遣わし、婚礼祝の返礼として秀賢夫妻に唐島単衣一・帷子二ツを贈る。〔慶長日件録〕

十八日
大田美作守(「美濃守」の誤?/梶原政景?)・伊藤長親(「伊藤石見守長親」)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)、片桐貞隆(「片桐主膳」)を奉行として比叡山横山中堂を造営するにより、義演「三河」を見舞に遣わす。〔義演准后日記(同月九日条)〕

三日
秀頼誕生日につき、義演を導師として仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

九日
秀頼(「秀頼卿」)、片桐貞隆(「片桐主膳」)を奉行として比叡山横山中堂を造営するにより、義演「三河」を見舞に遣わす。〔義演准后日記〕

十七日
徳川秀忠の子(後の徳川家光/「若君」、「大猷院殿」)が生まれる。母は江(「右大将殿の北方」)。男児誕生に上下歓喜するという。稲葉正成(「稲葉内匠正成」)妻福が乳母に任じられる(後の春日局)。〔徳川実紀〕

二十一日
江戸より安藤正次(「安藤次右衛門正次」)が伏見の徳川家康へ遣いし、後の家光誕生を報告する。家康大いに喜んで、男児を竹千代(「竹千代君」)と命名する。同じく伏見にいた秀忠の同母弟忠吉は清州城へ帰り、異母兄秀康は伏見邸にて大名を招き猿楽を催す。〔徳川実紀〕

二十四日 茶々姫(「大さか」)、慶光院より大坂へ訪問したてい首座に慶光院四世周陽上人に宛てた手紙を預ける。内容は、宇治橋の架け替えに関するものdr、自分の体調不良により作業が遅くなった不手際があったことを詫び、稲葉道通(「いなは蔵人」)・古田重勝(「ふるたひやうふ(古田兵部)」)を作事奉行とし、客殿は稲葉道通に、庫裏と弁才天の塔は古田に担当させること、現地でこの文を二人に見せ念入りに作業させること、大坂においても慶光院の宿を建てさせるようにそれぞれ片桐且元(「いちのかミ(市正)」)に命じたと報告してる。また、秀頼(「秀頼」)の息災を伝え、慶光院の祈祷のおかげであると謝している。

二十六日
茶々姫(福田説「よ(ど)」、桑田説「あ(こ)」)、慶光院に上臈三位局を遣わし、周陽上人に宛てた手紙を預ける。内容は、宇治橋の架け替えに関して秀頼(「秀頼」)の発願として行うこと、奉行を片桐且元から命じること、架け替えは遷宮より前にできるよう命じたこと、詳細は三位局より伝えることをつつぇている。またこの手紙で、自身(「ここほど」)と秀頼の息災を伝え、家光(「わもじ」:若君の意)誕生を喜んでいる。

八月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
(十八日?)寺沢広高(「寺沢志摩守」)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

二日(早天雨降)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣あり。湯釜二十七釜を奉納する。 内訳は、一番が寧で五釜、二番が龍(「松丸殿」)で五釜、三番が「備前様」(豪?)で三釜、万里小路内義(摩阿)が三釜・木下家定(「木下法印」)が一釜・長慶院(寧の姉、医師三雪〔三雲とも〕の妻、「くま」とも)が一釜、「中納言殿」が二釜、「奥殿」が一釜、客人局(「客人」)が一釜、「松女房衆」(龍侍女?)が三釜、「中納言殿局」が二釜。湯釜奉納ののち金子一枚奉納、また吉田兼見(「二位卿」)・慶鶴丸・兼治(「左兵衛佐」)・梵舜(「神龍院」)そのほか神官・巫女らに進物あり。〔舜旧記〕

三日(大雨)
秀頼(「秀頼卿」)正誕生日につき、義演を導師として大般若経が転読される。経衆は山上・山下・良家衆十五人。〔義演准后日記〕

四日(雨)
義演、山田長運(「宰相」)を使者として、秀頼(「大坂」)へ大般若札・糒袋五十を進上(昨日は大雨により延期していたという注記あり)。〔義演准后日記〕
梵舜、豊国社臨時祭について伏見城(「伏見御城」)を訪問する。 徳川家康は日取りについて十三日にすべき由を伝える。 板倉勝重(「板倉伊州」)・片桐且元(「片桐市正」)・梵舜の三人で奥の間にて談合を重ねる。〔舜旧記〕

七日(天晴)
豊国社臨時祭準備のため、板倉勝重(「板倉伊州」)・片桐且元(「片桐市正」)が豊国社に来る。神供所・兼見(「二位殿」)宅で振舞あり。〔舜旧記〕

八日
豊国社臨時祭のための衣装が梵舜に届く。〔舜旧記〕

十日(天晴)
豊国社臨時祭のための榊が用意される。また、梵舜が伏見城に赴き、板倉勝重(「板倉伊賀守」)・片桐且元(「片桐市正殿」)とともに楽人について相談する。〔舜旧記〕

十一日(雨降)
豊国社臨時祭のため、片桐且元が豊国社を訪れ、上賀茂騎馬装束百人前・内楽人十五人の衣装が用意される。〔舜旧記〕

十三日(降雨)
豊国社臨時祭、雨により延期となる。〔舜旧記、義演准后日記〕

十四日(屬晴)
秀吉の七回忌にあたり、洛中で豊国社臨時祭が盛大に催される。奉行は片桐且元(「片桐市正且元」)。 臨時祭につき、秀頼(「大坂」)は能一座に二百貫ずつ、計八百貫を遣わす。
臨時祭は目を驚かすほどの行粧美麗で、見物人が貴賎問わず群集したという。〔舜旧記、義演准后日記、言経卿記〕

『舜旧記』に記された臨時祭の様子
臨時之御祭、一番御幣左立、御榊メツキ高七尺、葉六百枚、右立、同狩衣指貫ニテ是ヲ両人シテ左右持、次供衆百人浄衣風折、二番騎馬二百騎、豊国之神官六十二人、吉田神人三十八人、合百騎、上賀茂神官八十五人、楽人十五人、合百騎、都合二百騎、建仁寺門前ヨリ二行立、馬乗也、豊国大鳥居ヨリ清閑寺之大路ヲ西ヘ出、照高院殿(道澄)前ニ而乗下也、 三番田楽三十人、四番申楽四座、新儀能一番ツヽ、金春橘、観世武王、宝生太子、金剛□、次能二番過ニ大坂ヨリ八百貫被下也、一座ニ百官〔貫〕ツヽ、被下也、此儀式豊国大門ニテ執行、次二位兼見(吉田兼見)・慶鶴丸・左兵衛佐(吉田兼治)出頭也、

十五日(屬晴)
豊国社臨時祭二日目。京の人々豊国踊りに狂うという。 この日方広寺にて施行あり。この日の為に新たに作られた四座の能が催される。
また、この日寧(「北政所 明神ノ御妻也」)も楼門の北方にある桟敷にて見物。
義演、臨時祭興行を祝い、秀頼(「大坂」)へ葡萄一折を進上する。〔舜旧記、義演准后日記、言経卿記〕

十六日(天晴)
梵舜、豊国社臨時祭の奉行片桐且元(「片桐市正」)とともに伏見城へ赴き徳川家康(「将軍家康」)へ豊国社臨時祭に報告する。また梵舜、板倉勝重(「板倉伊州」)・片桐且元の両人へも礼参する。
後陽成天皇(「禁裏」)、烏丸光広(「烏丸弁」)を勅旨として遣わし、豊国社へ神楽を奉納する(役者:藪藤園・持明院)。〔舜旧記〕

十七日
義演、眼を患う中、秀吉七周忌法楽のための結縁灌頂記を書く。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
秀吉七周忌につき豊国大明神法楽が行われる。 秀頼、名代として片桐貞隆(「片桐主膳」)を遣わし、金子一枚・馬代百二十貫文・太刀折紙を奉納する。拝殿において理趣三昧が行われ、演賀が供養法・演俊が讃・演光が調声を担当する。義演も出座し、良家衆も出仕する。公卿・諸大名(福島正則〔「福嶋左衛門大夫」〕・織田長益〔「有楽」〕・加藤清正〔「加藤肥後守」〕・浅野長政〔「浅野弾正」〕・京極高知〔「京極修理」・京極高次〔「同宰相」〕・浅野幸長〔「浅野(紀)伊守」〕・「鍋島」〔直茂?勝茂?〕など)も参詣する。〔舜旧記、義演准后日記〕
大野治長(「大野修理大夫 治長」)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

十九日(天晴)
豊国社申楽能が延引される。〔舜旧記〕

二十日(天晴)
秀頼(「大坂秀頼公」)へ臨時祭御礼につき、吉田兼従(慶鶴丸/「権少副」)・梵舜、大坂城へ赴く。秀頼に対し、兼従は太刀折紙・三百疋、梵舜は太刀折紙・馬代三百疋を進上する。 また梵舜、茶々姫(「秀頼公御母義」)・千(「御姫様」)へ杉原十帖・扇三本、大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へ足袋三足、宮内卿局(「宮内卿殿」)・二位局(「二位殿」)へ足袋二足、三位局(「三位殿」)へ百疋、「両人女房衆」へ二百疋、片桐且元へ単物一つを贈る。〔舜旧記〕

二十一日(天晴)
吉田兼従・梵舜、秀頼(「秀頼公」)へ礼参する。〔舜旧記〕

二十九日
江戸城築城のために大石運搬の銘が諸大名に下される。片桐且元(「片桐市正且元」)・古田重勝(「古田兵部少輔重勝」)らもこれに従事する。〔徳川実紀〕

閏八月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼誕生日に付き、義演を導師とし、五人の経衆によって仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

二十二日
秀頼(「秀頼卿」)、建設中の大坂城二階に千畳敷の部屋にこの日移徙する。〔義演准后日記〕

二十五日
大坂城二階に千畳敷の部屋が完成する。
義演、完子(「九条殿内儀」/※ 史料纂集版では兼孝妻・高倉熙子と解釈するも如何)へ木練一折を進上する。〔義演准后日記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
秀頼(「秀頼卿」)誕生日に付き、義演を導師とし、良家以下十四人の経衆によって大般若経が転読される。 義演、その晩に井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、秀頼(「大坂」)・千(「姫君」)へ各札・木練一折を送る。〔義演准后日記〕

五日(晴)
井内経紹(「大蔵卿」)が大坂より帰り、来る十六日に大坂城にて祈祷が行われる旨を義演に伝える。〔義演准后日記〕
梵舜、大坂へ下向し片桐且元(「片桐市正」)へ「御倉之礎」について申し入れ、受諾される。〔舜旧記〕

六日(雨降)
片桐且元、梵舜へへ木綿五十を贈り、朝食を振舞。また灯篭以下のことについて相談する。〔舜旧記〕

十二日(時雨)
義演、秀頼祈祷のために紙札を二百枚書す(翌十三日に札の内容あり)。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、この日大坂へ到着し、片桐且元へ杉原三束を送り案内を請う。
茶々姫(「御袋」)へ杉原五束・かいき一反、千(「姫君」)へ杉原五束、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ杉原三束、伊茶局(「いちや」)へ二百疋を贈る。
また片桐貞隆(「片桐主膳」)へ諸白樽一荷・柿一折、織田長益(「有楽」)へ柿一折、矢野五左衛門(伊茶局の息子)へ諸白樽一荷、 茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女。このとき大坂にいたらしい)へ杉原二束を贈る。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。 経衆は理性院公秀・松橋堯演・俊典・俊長・演照・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・澄然・宋倩・演眞。 今回は演超(「式部」)・金剛王院実融は不参との記。
義演、布施として秀頼よりは銀子二十枚・小袖一重、千(「姫君」)より小袖一重・鵝眼三十疋・八木二石を賜る。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
秀頼(「大坂」/秀頼名義だが茶々姫の意思か)、養姉完子の嫁ぎ先である九条家屋敷を新造する。義演、それに伴い自らの居間(「易間」)を九条家へ貸すことがこの日決められる。〔義演准后日記〕
九条邸にて、僧正拝任御礼に参内した本願寺光昭(准如)の振舞有。舟橋秀賢も参加。 光昭帰寺後も宴会は続き、完子の女房(「九条大納言殿御簾中御局」)らも顔を出す。秀賢ら、大いに酔い正体をなくす。〔慶長日件録〕
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣、銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「秀頼卿」)の名で吉野山安禅寺蔵王堂が再建される。〔『西国三十三所図会』、(金峯山古今雑記)〕

三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日に付き、義演を導師とし仁王講が行われる。経衆は演照・演賀・堯政・演快・演俊。〔義演准后日記〕

五日(晴)
山科言経、江(「江戸大将〔秀忠〕御女中」)の内々の要請に答え、江とその侍女「京殿」・「太田」(准如妻阿古の乳母)へ愛洲薬・茶調散・快気散などを献上する。(この記事で江の在京が分かる)〔言経卿記〕

十二日(雨)
秀頼(「秀頼卿」、ただし後日「卿」が「公」に訂正されている※)の名で東寺南大門が立柱される。
※ 「卿」は三位以上・参議以上大納言以下の敬称。「公」は大臣以上の敬称。秀頼は前年四月十二日に内大臣宣下を受けているため。〔義演准后日記(同月十三日条)〕
完子(「九条殿御内儀」/※ 史料纂集版では兼孝妻・高倉熙子と解釈するも如何)、義演に樽三荷・外飯(「居ヵ」)一荷を贈る。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。「三位女房衆」(三位局?)豊国社を参詣する。〔舜旧記〕

二十九日
この日の夜、舟橋秀賢、新築の九条亭を見物に訪れ、その綺麗に驚く。客殿・台所・小台所・風呂・女房局など数十に渡る部屋数を記録する。〔慶長日件録〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「豊富 朝臣 秀頼卿」)、蔵王堂建立につき擬宝珠を奉納する(奉行は建部寿徳〔「建部 内匠 頭光重」〕、大工は三条国次〔「三条 藤原朝臣 宗兵衛尉 国次」〕)。〔大和蔵王堂匂欄擬宝珠銘〕

五日(晴)
舟橋秀賢、完子の女房(「九条大納言御簾中ノ御局」)を夕食に招き、また板物を一端贈る。〔慶長日件録〕

八日(晴)
八条宮智仁親王妃(「八條宮御簾中」/九条兼孝女〔「九条関白御息女」〕)、昨月二十四日より患った末にこの日の暁死去。享年二十二歳。「眼口耳下■以外下血云々、中毒歟如何」との記載あり。〔慶長日件録〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日に付き、義演を導師とし九人の経衆によって大般若経が転読される。
義演、その後札を秀頼(「大坂」)のもとへ送り、醍醐寺二王門建立の儀について訴える。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
義演、秀吉月忌につき神供する。 この日の日記に秀頼の宿星について記載あり。曰く、「秀頼公御星、金曜星一体 御十三歳、開眼供養了、」(秀頼公の記載の右に「× 卿」と補記※)。
※ 「卿」は三位以上・参議以上大納言以下の敬称。「公」は大臣以上の敬称。秀頼は前年四月十二日に内大臣宣下を受けているため。〔言経卿記〕

十九日(立春)
義演、秀頼(「大坂」)へ節分祈念の巻数を送り、千(「姫君」)より銀子を二枚賜る(返礼ヵ)。〔義演准后日記〕
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子十二貫分を奉納する。寧御内衆は神楽銭十二貫を奉納する。 また寧、吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・祝・祢宣・巫女・下神人らに進物する。〔舜旧記〕

二十七日(晴)
舟橋秀賢、九条忠栄(「九条大納言殿」)へ年筮・筆二封、完子(「同女房衆」)へも筆二封を贈る。〔慶長日件録〕



編年史料 目次
 

1605/慶長十年

 
慶長十(1605)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


秀頼、金戒光明寺阿弥陀堂を再建する。〔(史料綜覧)〕
「秀頼 巳御年、御十三、八月三日御誕生」の記載あり。〔義演准后日記〕

正月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「内大臣豊臣朝臣秀頼公」)、河内金剛寺水分神社再興につき、社殿擬宝珠を寄進する(奉行は片桐且元〔片桐東市正〕)。〔河内金剛寺水分大明神社擬宝珠銘〕

一日(天快晴)
秀頼(「秀頼公」)、大坂城にて越年。諸大名各々国許にて越年。義演、「新年の礼に及ばず」の沙汰ありかとの推測。〔義演准后日記〕

三日(天晴)
茶々姫(「御袋様」)、豊国社へ大蔵卿局(「大蔵卿殿」)を遣わし、金子一枚を奉納し、巫女八人に一人当たり杉原十帖・銀子一枚を贈る。 続いて大蔵卿局、神官たち(「祝十人」)に鳥目一貫ずつを贈る。
寧(「政所」)、豊国社を参詣し、湯立一釜・銀子五枚などを奉納。また吉田兼見(「兼見」)・慶鶴丸・兼治(「左兵衛督」)ら神官・巫女たちに進物。〔舜旧記〕

五日(大雪)
秀頼、豊国社へ名代として片桐且元を遣わし、百二十貫を奉納する。また神楽衆に百貫(一人当たり五百文)を贈る。 舜旧記
梵舜、寧(「政所様」)・その女房衆ら(孝蔵主〔「カウ蔵主」〕・客人局〔「客人」〕・「ヲ茶御方」へ進物。そのほか諸武家公家へも進物あり。
義演ら、秀頼(「秀頼公」)のために大般若経を転読する。導師は義演、経衆は理性院公秀・松橋堯演・俊典・俊長・演照・演賀・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・澄然・宋倩・演超・演眞の十六人。〔義演准后日記〕

七日(晴)
義演、大坂へ井内経紹(「大蔵卿法橋」)を遣わし、年賀の進物として秀頼(「秀頼公」)に馬代三百疋折帋・太刀一腰、茶々姫(「御上様」)へ杉原(「杦原」)二十帖・帯一包・大般若経転読の札、千(「姫君」)へ杉原(「杦原」)二十帖・帯一包・巻数、大蔵卿局へ帯一包、伊茶局(「いちや」)へ帯一包、片桐且元(「片桐市正」)へ杉原(「杦原」)三十帖を贈る。〔義演准后日記〕

十日(屬晴)
義演、昨年冬に新造された(秀頼〔「秀頼公」〕の命による新造と記録。)九条亭(「九条殿亭」)を初めて訪れる。座敷内外に惜しみなく金を使われた豪華さやその広大さに驚愕する。〔義演准后日記〕

十二日(天晴)
梵舜、前日に大坂へ下り、この日の午刻に秀頼(「内府秀頼公」)と対面する。 秀頼へ(杉原)十帖・扇子一本、茶々姫(「御袋様」)・大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へ十帖・水引二十把・取次を務めた片桐貞隆(「片桐主膳正」)を進上する。 対面の後、盃事あり。秀頼方より返礼として十帖・一巻を拝領する。〔舜旧記〕

十五日(天快晴)
義演、大坂へ下向し秀頼(「秀頼様」)へ杉原(「杦原」)五束・「トンス」一巻(「但是ハ十六日御祈祷已後披露也」の注記あり)、茶々姫(「御袋様」)へ杉原(「杦原」)五束・金扇五本、千(「姫君様」)へ香呂盆蒔檜、大蔵卿局へ杉原(「杦原」)三十帖、刑部卿局?(「姫君ノ御局」)へ杉原(「杦原」)二十帖、伊茶局(「いちや局」)へ鵝眼二百疋、片桐且元(「執事片桐市正」)へ樽二荷・折一合、片桐貞隆(「同主膳」)へ樽二荷・折一合を贈る。
明日の祈祷のために城へ遣わした井内経紹(「大蔵卿法橋」)・「宰相寺主」に各々返礼あり。〔義演准后日記〕

十六日
大坂城にて巳刻より大般若経が転読される。 導師は義演。経衆は理性院公秀・松橋堯演・俊典・俊長・宗俊(「東寺宝輪院初参」)・演照・演賀・報恩院憲応(「水本法眼」)・堯政・亮済・演快・演俊・宋倩(「兵部卿」)・演超・演眞。転読の後、加持祈祷が行われる。布施として導師義演へ秀頼より銀子二十枚・綾小袖一重、千(「姫君」)より綾小袖一重、経衆には銀子三十四枚が贈られる。 また、祈祷料として三貫、人夫料として二石が義演らに贈られる。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

十九日(天晴)
梵舜、伏見にて徳川家康(「伏見将軍」)へ年頭の挨拶に赴く。〔舜旧記〕

二十一日
義演、明日より秀頼(「秀頼公」)の息災祈願のため単独で大般若経を転読するため、大坂城へ撫物を取りに使者を使わす。その使者の知らせで、義演は大坂城にて千(「姫君」)が疱瘡を煩っていることを知り、三河寺忠為(「三河」)を遣わし、祈祷巻数と守を贈る。〔義演准后日記〕

二十二日
義演、秀頼のためにこの日大般若経を二百四十巻を転読する。〔義演准后日記〕

二十三日
義演、昨日に引き続き秀頼のために大般若経を三十巻転読し、この日二百七十巻の転読が終わる。
また義演、この日秀頼(「秀頼公」)息災の報を聞き安堵する。I〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
勧修寺光豊(「勧修寺」)、秀頼(「大坂」)へ賀礼のため、大坂に赴く旨を公家衆に触れる。〔言経卿記〕
宗俊(「東寺宝輪院」)、今月十六日に行われた大坂城大般若経転読に加列の件につき、義演に礼参する。〔義演准后日記〕

二十八日(晴)
この日の早朝、冷泉為満(言経「冷泉」)・舟橋秀賢、秀頼(言経「大坂内府」、慶長「秀頼公」)への賀礼のため大坂へ出発する。〔言経卿記、慶長日件録〕

二十九日
この日の午刻、秀頼、公家衆に年始の礼を受ける。 摂関家・門跡、秀頼と三献、清華家は一献あり。舟橋秀賢・冷泉為満、この総礼に出席する。〔慶長日件録〕

三十日(晴)
冷泉為満(「冷泉」)、大坂で賀礼を終え帰京する。〔言経卿記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら大般若経を百三十巻転読する。〔義演准后日記〕

十日(雨陰)
秀頼(「秀頼公」)、舟橋秀賢に短冊五十枚を送り、花山院定煕(「花山院大納言」)・勧修寺光豊(「勧修寺中納言」)・冷泉為満(「冷泉中将」)・中院通村(「中院侍従」)・舟橋秀賢の五人にそれぞれ十枚ずつ和歌の詠進を依頼する。〔慶長日件録〕

十七日
孝蔵主(「尼孝蔵主」)、上洛する徳川家康を迎えるに参じる。〔徳川実紀〕

十八日(雨)
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

十九日(辰刻屬晴)
徳川家康(将軍)、上洛し伏見城へ入る。〔義演准后日記〕

二十五日(快晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)へ伊勢桜一枝・初蕨を贈る(家康ら徳川方には上洛に際し贈済)。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
二十九日(晴)
徳川秀忠(「右大将殿」)参内し、武家・公家衆が供奉する。後陽成天皇・政仁親王(後の後水尾天皇)出座する。〔言経卿記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天快晴)
義演、秀頼(「大坂」)に撫物と札を進上する。〔義演准后日記〕

三日(陰)
義演、秀頼(「内府」)の誕生日祈祷のため大般若経転読の札を大坂へ贈る。また、大蔵卿局へ竹子を贈る。〔義演准后日記〕

八日
徳川家康(「将軍」)、上洛。〔義演准后日記〕

九日(晴)
義演、秀頼のために護摩祈祷を始める。〔義演准后日記(同月二十一日条)〕
徳川家康(「大樹」)、明くる十日に参内し、また近日中に将軍職を秀忠(「右大将殿」)に譲る旨の知らせが義演の耳に届く。〔義演准后日記(同月二十一日条)〕

十二日
秀頼(「豊臣内大臣秀頼公」)、右大臣宣下を受ける。〔徳川実紀〕

十六日
徳川秀忠(「右大将殿」)、二条城に勅使を迎え、征夷大将軍・正二位内大臣の宣旨を受け、淳和奨学両院別当源氏長者に任じられる。〔徳川実紀〕

十八日(天晴)
豊国社祭につき、秀頼、名代として装束姿で片桐且元(「片桐市正」)を遣わし、太刀馬代として万疋を奉納する。 茶々姫(「御母儀」)も金子一枚を奉納する。 また、吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・兼治(「左兵衛督」)に銀子五枚ずつを贈る。
この日、勅使として東坊城盛長(「東坊城大納言」)が束帯にて参詣・奉納。福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・増田長盛(「増左兵門督」)・浅野長政(「浅野弾正」)・加藤清正(「加藤肥後守」)も参詣する。〔舜旧記〕

二十一日(大雨)
義演、東寺南大門の棟札の銘文を書く。〔義演准后日記(同月十八日条)〕

東寺南大門棟札(表):
「         本願高野山文殊院勢誉
  大檀那内相府豊臣朝臣秀頼公御建立
          慶長十年乙巳四月二十一日」
(裏書):「当寺南大門者、建久之昔、依頼朝卿財施重複〔復〕、文覚上人成風於旧基、慶長之今、為秀頼公御願再造、 勢誉法印萃構於古跡、今之所跂、昔之所耻也、然者檀越殿下済川之水久澄、伽藍之月鎮朗、     東寺沙門義演記之、」

二十二日(天晴)
徳川秀忠(「右大将殿」)、伏見より上洛。〔舜旧記〕

二十四日(天晴)
徳川秀忠(「当将軍」)、二条城(「京御城」)にて吉田慶鶴丸の礼参を受ける。〔舜旧記〕

二十六日(天晴)
徳川秀忠(「将軍秀忠」)初めて参内する。諸国の大名、乗輿にて同道する。その後、伏見城へ帰る。〔舜旧記〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(大雨)
義演、秀頼(「秀頼公」)・院中のために単身大般若経を転読する。
義演、寧(「北政所」)の所望に応じ蒸竹子を一折送り、その返礼としてお寧の使いを通じて帷を賜る。
この日、将軍職を継いだ徳川秀忠(「新将軍」)へ諸大名が総礼を行う。〔義演准后日記〕

三日(晴)
この日義演を導師として、上下諸衆により秀頼(「秀頼公」)の誕生日祈祷のための大般若経が転読される。 義演、祈祷の後に山田長運(「宰相」)を遣わし、秀頼方(「大坂」)へ祈祷の札と竹の子(「笋」)を進上する。〔義演准后日記〕

四日(晴)
秀頼(「大坂」)、前日の返礼として義演に袷・帷子を贈る。〔義演准后日記〕

六日(晴)
義演、秀頼のために単身大般若経の転読を開始する。 まだこの日は結願しなかったが、とりあえず山田長運(「宰相」)を遣わし秀頼(「大坂」)へ木札を進上する。〔義演准后日記〕

八日(晴)
寧(当代「大政所 是ハ太閤の北所ナリ」、実紀「高台院(故太閤秀吉政所)」)、徳川家康(「右府家康公」)の意向を受け内々で大坂城に来り、秀頼(当代「秀頼公」、実紀「右府秀頼公」)に礼参のために上洛することを伺うという。 茶々姫(当代「秀頼公母台」、実紀「秀頼の生母大虞院(世に淀殿と称せし是なり。)」)、これを良しとせず。大坂の町はこの騒動に、きっと戦になるだろう騒然としたという。
徳川方の史料である『当代記』、では、このとき茶々姫がどうしても秀頼を上洛させるというなら親子ともども自害する覚悟であると表明したことが記されている。 これは、福島正則・加藤清正ら上方大名(実紀「太閤恩顧の輩」)が秀頼の身に不慮が起こることを恐れ、茶々姫に上京を制止するよう告げたという話も記されている。 京洛の農民や商人たちはこの噂を聞き、伏見と大坂の間で戦が近いと恐れ、騒ぎになったとされる。
寧の来坂も太閤恩顧の家臣による助言も「内々のこと」とあるため、実際に一連のできごとがあったかどうかは断じることはできない。あくまで噂であった可能性もあるが、寧がこの件で大坂に出向いたこと、結果的に秀頼の上洛が無かったことは確かである。
(同様の話が記されている『徳川実紀』、「慶長見聞録案紙」や「武徳編年集成」は『当代記』をベースに後年編纂されたものと思われる) なお、茶々姫と寧との不仲・決裂を表すエピソードとして取り上げられることの多いこの一件ですが、跡部信氏は論文「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』34)でこの一件を流動的、俯瞰的にとらえ、大変興味深い見解を記されています。 すなわち、この一件は確かにこの時点での方向性の違いを示しているものの、必ずしも以降の決裂を示すものではないという説です。是非ご一読をおすすめします。〔当代記、徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

この日、大般若経が結願する。〔義演准后日記〕

徳川秀忠江戸へ下向につき諸衆、暇乞に参賀する。直接礼参した公家衆のは一条内基(「一条殿」)・二条昭実(「二条殿」)・ 近衛信尹(「近衛殿」)・鷹司信房(「鷹司殿」)・九条忠栄(「九条殿」)。邦房親王(「伏見宮」)・智仁親王(「八条宮」)は名代にて礼参。 門跡衆は常胤(「妙法院宮」)・興意(「聖護院宮」)・義演・承快(「梶井新宮」)が礼参し秀忠を見送る。
鹿苑寺に大坂で騒動があった噂が届く。〔鹿苑日録〕

九日(雨)
義演、秀頼祈祷のために日護摩を開白し、大坂へ護摩巻数・蒸竹子を贈る。大蔵卿局より山本与三衛門(大野一族?)が使者に遣わされる。また義演、片桐且元(「片桐市正」)糒袋二十を遣わし、今月十六日の祈祷について聞く。〔義演准后日記〕

十日(雨)
大坂より使者の井内経紹(「大蔵卿」)が帰り、義演、千(「姫君」)より賜った袷と曝帷一を受け取る。〔義演准后日記〕

十一日(自朝陰)
徳川秀忠(義演「将軍」、当代「新将軍」)の名代として弟の松平忠輝(義演「御舎弟」、当代「竹〔「辰」の誤か、実紀「上総介忠輝朝臣」〕主 右府末子、十四歳」)が大坂に来る。 秀頼(実紀「右府秀頼公」)、忠輝を厚く持て成し、秀頼ら快気するという。〔義演准后日記(同月十日条)、当代記、徳川実紀〕
寿林、住吉より上洛し、大坂の騒動が無事解決したことを報じる。〔鹿苑日録〕

十五日(雨)
義演、大坂へ下向。着後、大蔵卿局へ案内を請う。また掛香を茶々姫(「御袋」)へ十、千(「姫君」)へも十、大蔵卿局へ五、「御局」(右京大夫局?刑部卿局?)へ三、 伊茶局(「いちや」)へ三を遣わす。返礼として大蔵卿局(「大蔵卿」)、義演へ尾道名酒二樽・菓子一折を贈る。
徳川秀忠(「大樹」)、江戸へ下向。〔義演准后日記〕

十六日(雨、午刻屬晴)
大坂城にて秀頼のために大般若経が転読される。導師は義演。経衆は理性院公秀・「治部卿」俊典・金剛王院盛融・「民部卿」俊長・勧修寺西林院慶順(「大納言法印」)・「二位」演賀・報恩院憲応・「大夫」堯政・「少将」源朝・「刑部卿」亮済・演快・演俊・宋倩・演超・円真。布施として秀頼(「施主」)より導師分として銀子を二十枚・袷と単物・帷、千(「姫君」)より袷以下三つ、その他経衆分・供衆分・人足料などを賜る。
転読の後、加持祈祷が行われ、秀頼との対面する。義演、秀頼(「施主」)より直接盃を頂、義演より経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

二十二日(雨)
秀頼(「秀頼卿」)、右大臣に補任され、この日勅旨が大坂へ下向する。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
義演のもとへ秀頼立願の大般若経真読を大蔵卿局より依頼される。二十九日に立願と決まる。 養源院一世成伯(「楊源院」)、大坂の使者として経衆に大般若経真読を触れる。〔義演准后日記(当日・同月二十八日条)〕

二十九日(晴)
義演を導師として大般若経真読が開白される。経衆は理性院公秀・俊典・慶順・俊長・演賀・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・宋倩・演超・円真。成伯(「楊源院」)、秀頼名代として秀頼の撫物を持参する。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「秀頼公」)、河内金剛寺大日堂再興につき、片桐且元(「片桐東市正且元」)が社殿擬宝珠を寄進する(奉行は吉田次左衛門保好)。〔河内金剛寺宝塔擬宝珠銘〕

一日(霽)
大般若経真読二日目。〔義演准后日記〕

二日(晴)
大般若経真読三日目。義演、成伯(「楊源院」)へ単物・帷を遣わす。〔義演准后日記〕

三日(晴)
大般若経真読四日目。片桐且元(「片桐市正」)、義演へ蝋燭二百挺を進上する。〔義演准后日記〕

四日(晴)
大般若経真読結願。撫物に対し加持祈祷が行われる。 その後、義演、井内経紹(「大蔵卿」)を大蔵卿局に遣わし、撫物・祈祷木札二枚・紙札百枚・糒袋三十を送る。秀頼の使者成伯(「楊源院」)も井内経紹に同道し大坂へ帰る。
大般若経真読、関ヶ原合戦(「慶長大乱」)より三度目との注記あり。〔義演准后日記〕

五日(晴)
秀頼(「大坂」)、義演の使者井内経紹(「大蔵卿法橋」)を通じて施物百石を義演に送り、また経紹にも帷一重を遣わす。〔義演准后日記〕

九日(晴)
秀頼(「大坂」)、義演方へ大般若経真読の布施として銀子一貫五百(「五十百石の代也」との注記あり)など経衆十五人らに分配する。〔義演准后日記〕

十日(雨なし)
義演、秀頼(「大坂」)へ祈祷札・瓜籠を進上する。〔義演准后日記〕

十三日(雨なし)
この日、義演、九日に来た大坂よりの銀子を分配する。〔義演准后日記〕

十四日(夕立)
昨月二十三日以来始めて雨が降る。〔義演准后日記〕

十六日(雨なし)
義演、秀頼(「秀頼卿」)の祈祷のため、護摩を修す。〔義演准后日記〕

十七日(雨なし)
義演、江(「将軍御台」)へ瓜を二籠進上する。〔義演准后日記〕

十八日(雨なし)
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

二十八日(雨なし)
成伯(「養源院」)、文(おそらく大坂方の誰かのもの)を持って義演の元へ来る。〔義演准后日記〕
寧(時慶「北政所」、「北政所殿」)、既に建立していた寺町の康徳寺を改め、東山に高台寺として改める。〔時慶記、高台寺誌稿〕

三十日(少夕立)
秀頼祈祷の護摩が結願する。義演、北村久兵衛を使者として大坂に遣わし、秀頼方へ撫物・祈祷巻数・錫鉢五を進上する。また取次の大蔵卿局へ茶を六十袋、同じく取次の伊茶局(「いちや」)へ扇を十本遣わす。〔義演准后日記〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(小雨、炎暑〔義〕/晴、辰刻雨沃〔慶〕)
秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、七人の経衆によって大般若経が転読される。〔義演准后日記〕
舟橋秀賢、大坂へ下る。〔慶長日件録〕

四日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片市正」)に書状を認め、登城の許しを伺う。秀賢、まず且元を訪問し、薫衣香五を贈る。続いて秀頼(「秀頼公」)を訪れ、秀頼に薫衣香十・憲法點本を、茶々姫(「御袋様」)に小鷹檀帋五束を進上する。その後、秀頼、秀賢に十七条憲法の講義を依頼し、秀賢これを講義する。講義の後、饗応あり。〔慶長日件録〕
梵舜、大坂へ下向し、片桐且元(「片桐市正」)・貞隆(「同主膳」)へ糒袋十を持参する。〔舜旧記〕

五日(晴)
舟橋秀賢、登城し、秀頼(「秀頼公」)に徳失鏡を講義する。〔慶長日件録〕
吉田定継(「民部」)・梵舜、大坂城にて秀頼(「右府秀頼公」)へ礼参し、賀茂虫籠一ツを進上する。〔舜旧記〕

六日(晴)
舟橋秀賢、登城し、秀頼(「秀頼公」)に呉子二三枚を講義する。講義を終え、秀賢、秀頼より生衣一つ・帷子二つを拝領する。〔慶長日件録〕

十八日
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕
徳川家康(「前将軍」)、伏見城より上洛する。〔舜旧記〕

十九日(雨)
醍醐寺二王門、秀頼(「秀頼公」)により建立される旨の書状が片桐且元より井内経紹(「大蔵卿」)宛てで届く。義演、且元へ礼状を送る。〔義演准后日記〕
徳川家康(「前将軍」)、二条城より下向する。〔舜旧記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
八日(雨降)
梵舜、片桐且元上洛につき見舞いに訪れる。且元に折紙を託し、秀頼方(「大坂」)へ豊国社の法度について談合を申し入れる。〔舜旧記〕

十四日(天晴)
八条宮智仁親王(「八條殿」)、豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十七日(屬晴)
伊茶局(「いちや」)、上洛する。義演、伊茶局へ見舞として仍百疋・茗荷一折を贈る。 義演准后日記
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子十枚を奉納する。孝蔵主(「康蔵主」)は銀子を一枚、御内衆は鳥目十二貫を奉納する。〔舜旧記〕

十八日
豊国大明神正遷宮祭。勧修寺光豊(「勧修寺中納言」)、朝廷の使者となる。〔言経卿記、義演准后日記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「内大臣豊臣朝臣秀頼公」)の名で河内金剛寺水分神社の社殿が再興される。奉行は片桐且元(「片桐東市正且元」)。〔河内金剛地棟札〕

一日
寧、幕府より高台寺の寺領を安堵され、寺地の諸役を免ぜられる。〔(『大日本史料』)〕

三日
秀頼(「秀頼卿」)誕生日につき、山上山下の経衆によって大般若経が転読される。義演、北村久兵衛を遣いとして秀頼方(「大坂」)へ祈祷札と折などを進上する。〔義演准后日記〕

十三日(晴)
大蔵卿局、上洛し伏見に至る。義演、見舞いとして大蔵卿局へ木練を三百贈る。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、大坂へ下向。大蔵卿局・片桐且元(「市正」)は未刻(午後二時ごろ)伏見より帰坂。義演、且元と大蔵卿局へ音信を遣わす。また義演、且元を訪問し、杉原(「杦原」)五十帖を贈る。大蔵卿局(「局」)へは錫鉢五、伊茶局(「いちや」)へ錫鉢三を贈る。その後、大蔵卿局(「局」)、義演へ返礼として樽三荷・三種を送る。義演、さらに茶々姫(「御袋」)へ杉原(「杦原」)三十帖・紅帯二筋、千(「姫君」)へ杉原(「杦原」)三十帖を進上する。〔義演准后日記〕

十六日(霽)
大坂城にて秀頼祈祷のための大般若経転読が行われる。 経衆は理性院公秀・堯円(堯演改め)・俊典・金剛王院盛融・俊長・演賀・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・宋倩・澄然・演超。義演、布施として秀頼より銀子二十枚・小袖一重、千(「姫君」)より小袖一重、佳例として鵝眼三千三百疋、その他人足料などを賜る。 続いて経衆らにも布施等が送られる。
次に饗膳あり。義演ら、秀頼(「亭主」)と対面する。義演、秀頼に杉原(「杦原」)五十帖を進上する。その後盃事あり。義演が秀頼に直接盃を頂き、その後義演が経衆に盃を回す。
また義演、秀頼に二王門再建について礼を申し入れる。奉行は建部高光(寿徳/「建部内匠頭」)という。〔義演准后日記〕

十七日(雨降)
義演、大坂から京への帰路に摂津多田院を参拝する。多田院について、秀頼(「秀頼公」)の名で本堂・中堂・御影堂・両社・拝殿・鐘楼七箇所を再建、南大門を修理されたものとのこと。なお、南大門はもともと秀吉が生前醍醐寺の二王門にうつす予定であったが、秀吉の死で滞っていた。この度秀頼(「秀頼公」)によって二王門が新造されることとなり、義演、その慶びを記す。
その後、義演、箕面の瀧を見る。 箕面の社頭・堂一宇は秀頼(「秀頼公」)の再建。〔義演准后日記〕

十八日(雨少降)
寧(「政所」)、秀吉の月忌につき豊国社へ参詣、銀子百二十目・鳥目二貫七百文を奉納する。〔舜旧記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
義演、大坂の使者と醍醐寺二王門の作事について協議する。〔義演准后日記〕

五日(晴)
舟橋秀賢、大坂へ下る。〔慶長日件録〕

七日(晴)
舟橋秀賢、まず片桐且元(「片市正」)を訪問し、蜜柑百五十を贈る。 続いて且元同行で秀頼(「秀頼公」)を訪れ、秀頼に蜜柑二百五十を進上する。 その後、秀頼、秀賢に呉子の講義を依頼し、秀賢これを講義する。講義の後、饗応あり。〔慶長日件録〕

八日(晴)
この日の午後、舟橋秀賢、登城し秀頼(「秀頼公」)を訪れ、秀頼に呉子を講義する。片桐且元、秀賢に明日夕食を振舞うことを約束する。〔慶長日件録(当日条、同月九日条)〕

九日(辰刻雨降)
舟橋秀賢、午前から登城し秀頼(「秀頼公」)を訪れ、秀頼に呉子を講義する。 講義の後、秀賢、織田長益(「有楽」)・「玄雄」・「鈴庵」らと共に片桐且元宅を訪れ、饗される。〔慶長日件録〕

十日(晴)
舟橋秀賢、巳刻に登城し秀頼(「秀頼公」)に呉子を講義する。 この日、講義最終日につき秀頼から綾小袖一重・道服などを賜る。 また秀頼、秀賢に大学の講義を望む。 その後、東条行長(「東條紀伊守」)・「上野志摩守」・「小林民部少輔」らとともに片桐貞隆邸にて饗を受ける。〔慶長日件録〕

十四日(晴)
舟橋秀賢、父国賢の屋敷(「今出川殿」)を訪れ、大坂の様子を談じる。〔慶長日件録〕

十八日(天晴)
秀頼、相国寺法堂を再建する。〔東福寺誌(相国寺記)〕
寧(「政所」)、大坂へ下向のため秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「豊臣朝臣秀頼公」)の名で石清水八幡宮(「男山八幡宮」)大塔が再興される。奉行は小出吉政(「小出大和守豊臣吉政」/小出秀政嫡男。母は大政所妹)〔男山八幡宮大塔擬宝珠銘〕

二日(屬晴)
醍醐寺西大門、立柱する。秀頼の命により作事。〔義演准后日記〕

三日(霽)
義演、秀頼(「秀頼公」)の誕生日祈祷に仁王講を修す。
醍醐寺二王門の奉行建部高光(寿徳/「建部内匠」)、義演に樽二荷・二種を進上する。義演、思いも寄らぬ贈り物に喜ぶ。
義演、大坂に井内経紹(「大蔵卿法橋」)を遣わし、西大門立柱の礼として秀頼へ樽三荷・三種を、また大蔵卿局に樽二荷・折一ツを、片桐且元(「片桐市正」)に樽二荷・二種を贈る。〔義演准后日記〕

十二日(霽)
千(「大坂秀頼御女房衆」)、豊国社神前にて十七日間の護摩祈祷を行う。〔舜旧記〕
義演、秀頼(「大坂」)へ梅の初花を進上する。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
千(「御姫」)の十七日間祈祷がこの日結願する。 千の名代として執事の江原金全(「工原与右衛門」)が豊国社へ参拝、吉田兼見(「二位」)・貞継(「慶鶴丸」)へ進物、兼見宅にて振舞あり。〔舜旧記、『千姫孝』〕

十九日(天晴)
豊国社頭において、千(「大坂御裏様」/「御裏様」は武家から関白家に嫁いだ夫人の意。)主催の夢想連歌百韻が興行される。 茶々姫(「御袋」)の夢想による。すなわち、十七日護摩祈祷・夢想連歌会はお千ために茶々姫が世話したものと考えられる。
参加者は日野輝資(「日野大納言」)・広橋兼勝(「広橋大納言」)・勧修寺光豊(「勧修寺中納言」)・高倉永孝(「藤宰相」)・西洞院時慶(「西洞院」)・烏丸光広(「烏丸頭弁」)・正親町季康(「正親町少将」)・西洞院時直(「執筆 少納言時直」)・山中長俊(「山中山城守長俊」)・松梅院禅昌・逸見友益・里村昌琢(「昌脈」)・里村昌俔(「景次」)・大蔵大輔元偕。〔舜旧記〕

〔連歌〕
春駒や若草山に立出て     茶々姫(「御夢想」)
おもふ事なき事こそうれしき     茶々姫(「同」)
長閑にもなるや心さそふらん     千(「御願主」)
雪とけけらし軒のたま水     吉田兼見(「吉田二位」)
霞よし鉤簾に光りのさしうつり     日野輝資(「日野大納言」)
袖にまちとる半天の月     広橋兼勝(「広橋大納言」)
暮過る道のかたへの秋すゝし     勧修寺光豊(「勧修寺中納言」)
なひきあひたる霧の村竹     高倉永孝(「藤宰相」)

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(自朝晴天)
有節瑞保、片桐且元(「片市正」)の案内で大坂城に登り、秀頼(「秀頼相公」)へ参礼する。秀頼、有節瑞保へ蜜柑四つを直接渡す。その後大広間で宴会あり。返礼として、十帖・一本を秀頼(「秀頼様」)に、蜜柑二百三十を片桐且元(「片市正殿」)に贈る。〔鹿苑日録〕

十八日
義演、秀吉月忌につき、豊国神社へ参拝する。〔義演准后日記〕
義演、大坂へ北村久兵衛を遣わし、秀頼(「秀頼公」)へ蜜柑二箱、大蔵卿局に一箱、伊茶局(「いちや」)へ一箱、建部高光(寿徳/「建部内匠」)へ一箱送る。門作事の礼も兼ねる。
寧(「政所」)、秀吉月忌につき報告者へ参拝、八貫奉納のうち銀子三枚を神前に奉納する。また吉田家・神官衆へ進物あり。〔舜旧記〕

二十一日(霽)
上醍醐如意輪堂・五大堂・御影堂が火災により焼失する。火災原因は完全に消火しきらないまま放置された灰か。〔義演准后日記〕
成伯(「養源院」)、大坂の使者として大蔵卿局の文と布施黄金三枚を持って到来す。 文の内容は、義演に秀頼(「秀頼公」)のため来年中の日護摩祈祷をするよう依頼するもの。

二十三日(晴)
義演、秀頼(「大坂」)へ上醍醐諸堂焼失を報告する。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
大蔵卿局、義演に火事見舞の文を送り、酉刻義演の手元に届く。〔義演准后日記〕

二十五日(晴)
義演、井内経紹(「大蔵卿法橋」)を大坂へ遣わす。秀頼(「大坂」)へ歳暮として祈祷巻数を送り、来年中の護摩祈祷を承る旨を伝える。また山上の火事について私信をもって報じる。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
大坂より義演のもとへ秀頼・茶々姫・千(「御三御所」)の撫物、三つの袋に入り到来する。
義演、山上火災について片桐且元(「片桐市正」)・伊茶局(「いちや」)より詳細の報告を求められる。義演、今回の詳細が秀頼の耳(「御耳」)に入れるべきかを躊躇う。
伏見城南方で火災あり。大名屋敷・文殊院坊焼失する。〔義演准后日記〕

二十九日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公御星日曜星造立」)および二条昭実のために星開眼供養を行う。節分が晦日になるのは邂逅の例という。〔義演准后日記〕



編年史料 目次
 

1606/慶長十一年

 
慶長十一(1606)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


秀頼(「秀ー」)について、「巳御年   御十四才 八月三日御誕生、」の記載あり。〔義演准后日記(同年七月条)〕

正月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(雨)
秀頼(「秀頼公」)をはじめ、二条昭実一門・池田輝政子息(徳川家康の孫たち)の星供養続く。〔義演准后日記〕
梵舜、千(「御姫様」)より祈祷依頼をうける。〔舜旧記〕

三日(雪降)
寧(「政所」)、豊国社を参詣し、湯立一釜・銀子五枚などを奉納。また吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・兼治(「左兵衛」)ら神官・巫女たちに進物。〔舜旧記〕

四日(雪少降)
片桐且元(「片桐市正」)、秀頼(「大坂」)の名代として豊国社を参詣し、金子一枚・百疋を奉納する。また吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・兼治(「左兵衛」)に小袖二ツのほか、神官・巫女たちにも進物あり。〔舜旧記〕

五日(大雪)
完子(「御女中」/「杦〔杉〕原三束・鵝眼二結」)、夫の九条忠栄(「九条殿」/「三荷・三種」)と共により義演へ年始の祝儀を贈る。〔義演准后日記〕

七日(大雪)
義演、大坂へ山田長運(「宰相上座」)を遣わし、秀頼(「大坂」)へ祈祷巻数・大般若経札・太刀折帋を贈る。〔義演准后日記〕

八日
義演、秀頼(「秀頼公」)立願の日護摩を開白する。この日より毎日一座を修す。近日中に大坂へ使者を送る予定も大雪で延引する。〔義演准后日記〕
梵舜、寧(「政所」)へ年始の挨拶のため訪問する。寧・孝蔵主(「康蔵主」)・客人局(「客人」)・「御台や」・梅休局(「梅体」)・木下家定(「肥後殿」)へ進物のやりとりあり。〔舜旧記〕

十日(晴)
義演、秀頼(「大坂」)より祈祷の礼として巻物三ツ、千(「姫君」)より杉原(「杦原」)三十帖・巻物一を受け取る。〔義演准后日記〕

十一日(霽)
義演、二条・九条・鷹司家へ参賀する。九条家では九条忠栄(「九条殿」/「樽三荷・三種」)及び完子(「内儀」/「同三荷・三種・錫五封」)へ年賀の進物あり。〔義演准后日記〕
梵舜、秀頼への年賀の総礼のために大坂へ赴く。〔舜旧記〕

十二日(天晴)
梵舜、片桐且元(「片桐市正」)・貞隆(「片桐主膳」)に面会し、その後大坂城へ登城する。 秀頼(「秀頼公」)へ礼参、杉原十帖・扇一本を進上し、・盃を頂く。茶々姫(「御袋様」)へ扇三本・二金箔、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ扇三本・片金を贈る。 また祝人・惣神官より茶々姫(「御母様」)へつり柿二百五十・大蔵卿局へ蜜柑百五十を進上される。〔舜旧記〕

十四日(晴)
義演、秀頼のための護摩祈祷を大坂下向のために一旦中断する。〔義演准后日記〕
大坂より義演らへ使者が遣わされ、返礼として杉原十帖・摺巻物一ツが贈られる。〔舜旧記〕

十五日(晴)
義演、大般若経転読のため大坂へ下向。茶々姫(「御袋」)へ杉原(「杦原」)五束、千(「姫君」)へ同五束、 大蔵卿局へ同三束、伊茶局(「いちや」)へ二百疋を贈る。「御下向目出度」との返事あり。片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「同主膳」)より義演へ進物あり。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経の転読が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・堯円・俊典・俊長・盛融・演賀・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・宋倩・澄然・演超。転読の後、加持祈祷が行われる。布施は通例の通り。その後、秀頼との対面・盃事あり。〔義演准后日記〕

二十一日(晴)
広橋兼勝(「広橋」)・勧修寺光豊(「勧修寺」)、二十四日に行われる秀頼(「大坂」)へ賀礼のため、大坂へ赴く旨を公家衆に触れる。〔言経卿記〕

二十三日(晴)
禁中へ翌日より大坂へ礼参する旨が伝えられる。〔言経卿記〕

二十五日(自朝陰雖然雨不降)
公家所門跡、この日秀頼(「秀頼公」)へ礼参する。そのあと片桐且元(「片市」)のもとへ。〔鹿苑日録〕

二十七日(自朝晴天)
有節瑞保、片桐且元(「片市殿」)に伴われ大坂城へ登る。秀頼(「秀頼公」)に一礼。いつも秀頼自ら菓子を手渡しするところが、この日は人数が多かったので、小姓たちが濃州柿を二つそれぞれに渡した。〔鹿苑日録〕

三十日(晴)
冷泉為満(「冷泉」)、大坂で賀礼を終え帰京する。〔言経卿記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆(演賀・堯政・演快・演俊・澄然・演超)と共に大般若経を転読し、加持祈祷を行う。 その後、井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、秀頼方(「大坂」)に祈祷札・巻数・団以下を送る。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
義演、秀頼方(「大坂」)に初桜・初蕨を進上する。〔義演准后日記〕

三十日(雨)
義演、翌三月一日より始める秀頼(「秀様」)の聖天浴油祈祷のため団を用意する。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「内大臣豊臣朝臣秀頼公」、「右大臣豊臣朝臣秀頼公」)、河内金剛寺大日堂再興につき社殿擬宝珠を寄進する(奉行は森島長以〔「森嶋長以」〕)。〔河内金剛寺宝塔擬宝珠銘〕
金剛寺がこの年秀頼(「秀頼」)によって再興されるは、徳川家康(「権現様」)の申し出によるものという。 すなわち、秀頼が疱瘡を患った際、金剛寺を再興すれば病は平癒するだろうという夢想を得て、 片桐且元(「片桐市正」)が家康に伺ったところ、家康は且元を総奉行に、これを再興するように言ったという。 そして、「金剛寺が再興されたのは家康のおかげである…」と文章は続く。
※ ただし、秀頼が疱瘡を患ったのは慶長十三年のことで、この金剛寺再興よりも後年に当たり矛盾が生じるため、一連の説は慎重に扱うべきである。〔河州錦部郡天野山金剛寺古記録〕

一日
義演、秀頼(「秀様」)のため聖天浴油祈祷を開始する。〔義演准后日記(同年二月三十日条)〕
義演、近衛前子(「女御」)・寧(「北政所」)・二条昭実(「二条殿」)・九条忠栄(「九条殿」)に山桜を進上する。〔義演准后日記〕

二日(大雨)
義演、昨年焼失した醍醐寺の山上伽藍再興を訴えるために学侶三人を大坂へ遣わし、片桐且元(「片桐市正」)へ書状を送る。〔義演准后日記(同月四日条)〕

三日(屬晴)
義演、秀頼誕生日につき、自ら導師となり経衆八人(理性院公秀ら)と共に大般若経を転読する。その後、山田長運(「宰相」)を遣わす(札などを進上か)。〔義演准后日記〕

六日(陰)
昨年焼失した醍醐寺の山上伽藍再興につき、大坂から了承の由が義演に伝わる。〔義演准后日記〕

十八日(晴天)
有節瑞保、大坂城千畳敷で接待のため赴くが、秀頼(「秀頼公」)には顔を出さず。〔鹿苑日録〕

二十五日(自朝晴天)
有節瑞保、大坂にて片桐且元(「片正殿」)と会い、一件相談する。〔鹿苑日録〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼誕生日につき、自ら導師となり経衆九人(理性院公秀ら)と共に大般若経を転読する。その後井内経信(「侍従」)を大坂遣わし、秀頼・茶々姫・千(「御三御所」)へ大般若札・団一折六十・巻数三合・杜若・竹子を進上する。〔義演准后日記〕

六日(晴)
徳川家康(「将軍 大御所」)上洛、午後伏見城に入る。〔義演准后日記〕

十三日(天晴)
寧(「政所」)、にわかに豊国社へ参拝し銀子五枚を奉納。また神官らへ進物あり。〔舜旧記〕

十八日(雨降)
この日遷座の月につき、豊国祭が執り行われる。
秀頼の名代として片桐且元(「片桐市正」)が豊国社へ遣わされ、金子一枚・折紙代百貫文を奉納する。また吉田兼見(「二位殿」)・吉田兼治(「左兵衛佐」)・慶鶴丸へ銀子五枚を遣わす。
またこの日勅使三条公綱(「上卿伝法輪三条中納言」)も参詣。
義演も参詣し神供する。〔舜旧記、義演准后日記〕

十九日(雨)
豊国神社にて猿楽あり。〔義演准后日記〕

二十四日
秀頼方より成伯(「養源院」)が大蔵卿局(「大蔵卿御局」)の書状を持って義演の元に来る。秀頼(「秀頼公」)・茶々姫(「御袋様」)の二人について、来月二日より有卦入祈祷を依頼する旨の内容。また祈祷料として金子十両も届く。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
義演、秀頼方(「大坂」)より団を所望される。〔義演准后日記〕
秀頼(「秀頼公」)、存庵を通じ舟橋秀賢へ短冊を送り、中院通勝(「中院入道」)・中御門資胤(「中御門中納言」)・中山慶親(「中山中納言」)・大炊御門経頼?(「大炊御門大納言」)・六条有広(「六條宰相」)・猪隈教利(「猪隈少将」)の六人へそれぞれ十枚ずつ和歌の詠進を依頼する。〔慶長日件録〕

二十八日(晴)
徳川家康(「前大樹」)、勧修寺邸に赴き、武家伝奏広橋兼勝(「廣橋大納言」、「伝奏」)と武家官位について談ず。その後、家康参内し公家衆の相伴をうける。〔慶長日件録〕

三十日
成伯(「養源院」)、大坂の使者として義演に帷子を一折進上する。 義演、秀頼方(「大坂」)所望の団一折・竹子一折を進上する。〔義演准后日記〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、昨月の依頼により、秀頼・茶々姫母子のために聖天供を開白し二座を修し、また愛染護摩を一座修す。〔義演准后日記〕

三日(晴)
義演、秀頼誕生日につき、自ら導師となり経衆と共に大般若経を転読する。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・俊典・俊長・演賀・堯政・亮済・演快・演俊・宋倩・澄然・演超。
次に、秀頼(「秀ー公」)・茶々姫(「同御袋」)母子有卦入につき、祈祷のため護摩・天供などを修す。
その後、大坂へ北村久兵衛を遣わし、秀頼(「秀ー」)へ大般若札・有卦祈念巻数・日護摩巻数・天供団、 茶々姫(「御袋」)へ有卦祈念巻数・日護摩巻数・団・竹子、千(「姫公」)へ日護摩巻数・団、大蔵卿局・伊茶局(「いちや」)へ茶を進上する。〔義演准后日記〕

七日(晴)
義演、礼参の後、九条家が新邸引越を祝いに訪れる。樽二荷・三種を九条忠栄(「九条殿」)と完子(「御内儀」)へそれぞれ進上する。その後九条新邸を見物し瞠目する。
なおこの日は、二条昭実(「二条殿」)・位子女王(「政所」/二条晴良妻、伏見宮貞敦親王女。義演母)も見舞に九条邸を訪れる。
徳川家康(「将軍」/※「前」抜か)へ勅使・義演らによる礼参あり。〔義演准后日記〕

十三日(陰、午刻雨)
片桐且元(「片桐市正」)、義演へ十六日に大坂城にて祈祷の依頼を申し入れる。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、翌十六日の大坂城大般若経転読のために大坂へ下向する。 まず茶々姫(「御内儀」)へ音信を送る。 続いて茶々姫(「御袋」)へ掛香十袋、千(「姫君」)へも掛香十袋、大蔵卿局へ掛香五袋・杉原二束、 伊茶局(「いちや」)へ掛香二袋・杉原一束を贈る。 その返礼として大蔵卿局(「大蔵卿」)は樽三荷・二種、伊茶局(「いちや」)は茶垸十・枇杷一折を義演に贈る。
その後片桐且元(「片桐市正」)より義演へ樽一荷・糒一折進上し、義演、且元へ帷子三ツを返礼として送る。 また義演、片桐貞隆(「片桐主膳」)へ樽を遣わし、その返礼として夕暮時に貞隆が義演の元へ礼参し生帷を三つ進上する。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経が転読される。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・金剛王院実融・俊長・東寺観智院(※ 前年寧により再興)演賀・堯政・亮済・源朝・演快・演俊・宋倩・澄然・演超。
布施として導師義演へ秀頼(「秀ー」)より銀子二十枚、茶々姫(「御袋」)より生単物三ツ、千(「姫君」)より同じく生単物三ツ、 経衆には銀子二枚(但し良家衆は三枚)、賄料として八木二石が贈られる。
その後、秀頼との対面・盃事あり。義演、秀頼へ杉原百帖を進上する。義演が秀頼より直接盃を頂き、義演より経衆に回される。〔義演准后日記〕

十七日(晴)
義演、大坂よりの帰路に岩清水八幡宮に参拝・見物する。 岩清水八幡宮は秀頼(「秀ー公」)の沙汰による造営で、柱以下は悉く薪までもが黒漆塗という。 また大塔は昨年の造営(慶長十年十一月参照)で、その本尊は箔押とのこと。社殿は壮麗広大な様子であったと記録されている。
義演帰寺し、秀頼の新しい撫物を安置する。〔義演准后日記〕

十八日(霽、炎旱)
義演、大坂より拝領の銭を関係者に配る。〔義演准后日記〕
この日の早朝、寧(「政所」)が豊国社に参詣奉納する。〔舜旧記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「右大臣豊臣朝臣秀頼公」)の名で河内金剛寺弘法大師御影堂・三宝院が再興される。奉行は片桐且元(「片桐東市正且元」)。〔河内金剛地棟札〕
秀頼(「右大臣豊臣朝臣秀頼公」)、河内金剛寺大日堂再興につき、片桐且元(「片桐東市正且元」)が社殿擬宝珠を寄進する(奉行は吉田次左衛門保好)。〔河内金剛寺弘法大師堂擬宝珠銘〕

一日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)のため、月恒例の聖天供・護摩・愛染王供を開白する。〔義演准后日記〕
豊国社の神前にて、秀頼(「大坂」)祈祷のために三百六十座の祓が奉納される。〔舜旧記〕
徳川秀忠に男児(医「大樹若君様」、実紀「御所の二郎君」)が生まれる。生母は江。のちに国松と称す。諸大名江戸城に参じ、これを賀す。〔医学天正記、徳川実紀、福田千鶴『江の生涯』〕

三日(霽)
義演、秀頼誕生日につき、自ら導師となり経衆六人と共に大般若経を転読する。 その後三河寺忠為(「三河」)を大坂遣わし、秀頼・茶々姫・千(「御三所」)へ大般若札・日護摩巻数・団を進上する。〔義演准后日記〕

十三日(自朝晴天)
有節瑞保、大坂につき、片桐且元(「片市殿」)・貞隆(片主膳殿)兄弟と面会する。〔鹿苑日録〕

二十四日(晴)
昨年焼失した山上三伽藍再興につき、秀頼(「右大臣殿」)奉行衆建部寿徳(「建部内匠正」)・井藤則長(「井藤左馬」/上醍醐伽藍作事奉行)・西川方盛(「西川八衛門」/如意輪堂奉行)の内衆が山上へ赴き、密教院において談合する。〔義演准后日記〕

二十七日
上醍醐(「山上」)学侶、義演の書状を持って大坂へ下向する。 一通は片桐且元(「片桐市正殿」)宛て、一通は片桐貞隆(「片桐主膳正殿」)宛て、もう一通は大蔵卿局(「大くら卿」)宛て(但しその実は茶々姫〔「御内儀」〕宛て)〔義演准后日記(大蔵卿局宛て義演音信)〕

〔書下〕
御内儀へ予の文、

上のたいこからん御さいこう御ほセいたされ候、さて/\くわふんさ申ハかりも入候ハす候、 てらしゅしも/\まてかたしけなくそんする御事にて候、 そのためまつとりあへす御れいとしてまかりくたり候よりにて候、いよ/\御とりなしたのみいりまいらせ候、 なをかさねて申入候へく候、

   大くら卿殿
       申給へ

〔意訳〕
どうか御内儀(茶々姫)へわたくしの文をお見せくださいませ。

上醍醐伽藍の再興を仰せ下さり、このありがたさは言葉にすることも出来ないほどです。 寺の者も、下々までかたじけなく思っておることでございます。 そのため、とるものもとりあえずお礼を申し上げるために人を遣わしました。 今後もいよいよ秀頼様(茶々姫様)へのおとりなしをよろしくお願いいたしたく、かさねてお願い申し上げることでございます。

   大蔵卿局殿へ
       よろしくご伝言願います

七月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(夕立)
義演、秀頼(「秀頼公」)祈祷のため、歓喜天浴油を開白し、愛染日護摩を修す。
醍醐寺楼門について、秀頼(「秀頼公」)の名で築地造成を下命される。〔義演准后日記〕

三日(夕立)
義演、秀頼誕生日につき、自ら導師となり経衆と共に大般若経を転読する。 経衆は理性院公秀・演賀・堯政・演快・演俊・澄然・演超。大坂へ祈祷札・巻数を進上する。
山上学侶、大坂より帰寺。義演に上醍醐伽藍再興について秀頼の名で行われることが確実になったことを報告する。〔義演准后日記〕

四日(霧雨、如五月雨)
片桐貞隆(「片桐主膳正貞隆」)より、上醍醐伽藍再興について書状が来る(宛名は井内経紹〔「井内大蔵卿殿」〕)。〔義演准后日記〕

五日(晴)
南禅寺法堂、秀頼(「秀頼公」)の名で再興される。この日、供養が行われる。〔義演准后日記、東福寺誌(南禅寺記)〕

六日(晴)
秀頼(「秀頼公」)の名で再興される上醍醐三堂(御影堂・五大堂・如意輪堂)について、大坂に材木が用意される。年内に柱立の予定。〔義演准后日記〕

八日(夕立)
完子(「九条御内儀」)、義演へ樽三荷・三種を贈る。〔義演准后日記〕

十一日(天晴)
秀頼(「大坂秀頼」)祈祷のために、豊国社神前にて吉田定継(「民部」)によって千座祓が行われる。〔舜旧記〕

十二日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)へ見舞のために訪問し進物する。孝蔵主(「カウ蔵主」)が取次ぐ。〔舜旧記〕

十八日
大坂城にて、魂魄の飛行が目撃される。 〔義演准后日記(同月二十日条)〕

二十日(晴)
十八日の大坂城における魂魄飛行について、義演に祈祷が申し入れられ、 秀頼・茶々姫・千の撫物(「撫物三ツ」)、及び布施として銀子十枚が義演の元に送られる。 義演、夕刻より招魂作法を開始する。〔義演准后日記(同月二十日条)〕

二十六日
招魂作法が結願する。義演、秀頼方へ巻数・撫物・松虫を進上する。〔義演准后日記〕

二十七日(晩大夕立)
徳川家康(「将軍」/「前」抜か)、上洛する。〔義演准后日記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
義演、秀頼祈祷のため、歓喜天浴油を開白し、日護摩を修す。〔義演准后日記〕
秀頼(「大坂」)祈祷が豊国社神前にて行われる。〔舜旧記〕

二日(天晴)
寧(「政所」)が二条城(「京之御城」)にて興行された能に出席する。〔舜旧記〕

三日(夕立)
義演、秀頼(「秀ー公」)誕生日につき、自ら導師となり山上山下衆と共に大般若経を転読する。 今月は誕生月につき、特に念を入れて祈祷が行われる。 その後、義演は井内経紹(「大蔵卿」)が大坂へ使わされ、祈祷札・聖天供団・日護摩巻数・葡萄一折を進上する。〔義演准后日記〕

十一日(霧雨、如五月雨)
徳川長福丸(頼宣)、五郎太郎(義直)兄弟、参内し元服するという。〔義演准后日記〕

十三日
秀頼(「大坂」)、片桐且元(「片桐市正」)に命じて先年の豊国社臨時祭の屏風を一双奉納させる。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
この日、十三日に大坂より奉納された豊国社臨時祭屏風を諸人が見物する。
豊国社祭。勅使として高倉永孝(「藤中納言」)が束帯にて参詣し、奉幣奉納する。〔舜旧記〕
「日亜相公」、夏以来秀頼(「秀頼公」)を見舞っていなかったため、大坂に赴くという。〔鹿苑日録〕

十九日(天晴)
豊国社にて申楽能が興行される。〔舜旧記〕

二十五日(晴)
秀頼(義演「秀ー公」/舜「大坂」/鹿苑「秀頼公」)の名で再興された北野社経堂について、落慶供養のために千部法花(舜:万部経)が修される。〔義演准后日記、舜旧記、鹿苑日録〕

二十七日(天晴)
片桐且元(「市正」)、伏見に在り。〔舜旧記〕

二十九日(天晴)
浅野長政(「浅弾」)、関東下向につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
秀頼祈祷のため、聖天供を開白し、日護摩を修す。〔義演准后日記〕

二日
井内経紹(「大蔵卿」)宛てに片桐且元(「片桐市正且元」)より書状が来る。内容は二十一日に行われる東寺金堂供養について、秀頼(「右大臣殿」)より義演へ導師の正式な依頼。〔義演准后日記〕

三日(陰)
義演、秀頼(「秀ー公」)誕生日につき、自ら導師となり山上山下衆と共に大般若経を転読する。 その後、義演は北村久兵衛を大坂へ遣わし、日護摩巻数・団・大般若札を進上する。〔義演准后日記〕

十三日
片桐且元(「片桐市正且元」)、大久保長安(「大久保石見守長安」)、板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)、伏見城へ赴き、豊国社の条約ならびに社頭石燈籠について徳川秀忠の許可を得る。〔舜旧記、徳川実紀〕

十五日(雨)
義演、翌十六日の大坂城大般若経転読のために大坂へ下向する。
茶々姫(「御袋」)へ杉原五十帖、千(「姫君」)へも五十帖、大蔵卿局へ二十帖、伊茶局(「いちや」)へも二十帖贈る。案内が遣わされ、日護摩の撫物が進上される。また下向の祝いと明日の祈祷について知らされる。
また、片桐且元(片桐市正)はこの日、徳川家康(「大御所」)江戸下向につき伏見へいるために不在と弟貞隆(「主膳正」)より聞く。貞隆、義演を馳走し、市正より預かった樽と自らも樽二荷・二種を進上する。義演、返礼として貞隆へ樽を贈る。〔義演准后日記〕

十六日(雨)
大坂城にて大般若経が転読される。導師は義演。経衆は理性院公秀・松橋堯円・金剛王院実融・俊長・東寺宝輪院宗俊・東寺観智院演賀・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・宋倩・演超。
布施として導師義演へ秀頼(「秀ー」)より銀子二十枚、茶々姫(「御袋」)より小袖一重、千(「姫君」)より同じく小袖一重、経衆には鵝眼三千三百疋、人側賄料として二石が贈られる。また良家へは銀三枚、平民には二枚が贈られる。
その後、秀頼との対面・盃事あり。
退城後、伊茶局(「いちや」)が使いとして宿坊へ来る。
この日、徳川家康江戸下向につき諸門跡による暇乞の礼が行われる。義演は諸供養ならびに大坂祈祷につき礼参困難を西笑承兌・金地院崇伝に報告の上で礼参を免除される。〔義演准后日記〕

十七日(晴)
義演、東寺金堂供養について片桐且元(「片桐市正」)・文殊院勢誉へ使者を送る。〔義演准后日記〕

二十一日
この日、秀頼(「右大臣殿」)を施主として東寺金堂供養が行われる。 なお、執蓋・執綱事は秀頼(「右大臣殿」)諸太夫三人(「衣冠如常五位」の注記あり)が行う。〔義演准后日記〕

二十九日
有節瑞保、片桐且元(「片市殿」)の書状で大坂に下る。未明に且元に会い、続いて片桐貞隆(「片主膳殿」)に会い、その後秀頼を見舞う。対面あり。その後振舞あり。 〔鹿苑日録〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(霽)
秀頼(「右大臣殿」)祈祷のため、歓喜天浴油を開白し、愛染日護摩を修す。〔義演准后日記〕

二日(自朝晴天)
有節瑞保、大坂城にて片桐且元(「片市」)・貞隆(「片主」)兄弟と会談する。〔鹿苑日録〕

三日(陰)
秀頼(「秀ー公」)誕生日祈祷が延引される。義演大坂へ毎月巻数・団・紅葉枝を進上する。〔義演准后日記〕

四日(自朝晴天)
有節瑞保、大坂城にて片桐且元(「片市」)と対面する。〔鹿苑日録〕

十二日(天晴)
梵舜、大坂へ下向する。〔舜旧記〕

十三日(雨降)
梵舜、秀頼(「秀頼公」)へ礼参のため大坂城へ登城する。片桐且元(「市正殿」)、これを取り次ぐ。 梵舜、秀頼に杉原十帖・匂香十貝・尊円親王の巻物、茶々姫(「御袋様」)へ杉原十帖・匂香十貝、大蔵卿局(「大蔵卿局」)へ匂香十貝を進上する。
秀頼、梵舜に伊勢神宮二十二社の由来について教えを請う。〔舜旧記〕

十四日(天晴)
梵舜、豊国社へ帰る。〔舜旧記〕

二十日(晴)
大野治長(「大野修理」)、義演へ楓を所望する。〔義演准后日記〕

二十二日(晴)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ樽を遣わす。〔義演准后日記〕

二十四日(天晴)
寧(「政所」)へ神宮寺のお礼のために訪問し、菓子折・柳樽を進上する。孝蔵主(「康蔵主」)が取り次ぐ。〔舜旧記〕

下旬
秀頼の名で行われていた上醍醐三堂(御影堂・五大堂・如意輪堂)の再興が成る。その広さ、豪華さはかつてとは比べ物にならないほどのものだったという。〔醍醐寺文書〕

醍醐山上如意輪堂棟札案
「  慶長十一載丙午九月十八日立柱、同二十九日上棟
大檀那右丞相豊臣朝臣(秀頼)御建立
   奉行伊藤左馬頭則長

夫当堂者般若〔「寺」脱ヵ〕僧正草創也、根本尊師(理源大師聖宝:空海の孫弟子)影堂也、観賢手刻師範之形、令安当舎之内、並次依有中院朽損、同奉渡般若寺御影於当寺、同奉安置之、爰不図文応元年十一月六日寅刻炎上、?哉両祖之影像並什物等悉焼失了、初度、弘長元年四月十三日立柱、同二十三日上棟、僅七ヶ月之間、早終土木之功、迎開山(聖宝)之忌日(七月六日)遂供養斎莚、尊師新造並般若寺之御影者、則憲深僧正令開眼給、
延文六載辛丑三月八日牛刻  忽中院之坊舎依火事之余炎、重而堂宇遭不図炎上之孼災、欠弘長巳後之花構、早成(×為)灰燼、影像纔免煙炎、第二度応安元年戊申七月五日立柱、運数暦之星霜、以結構移四代之座主以造畢、成院遅留送日而已、抑大師御影者、明徳年中為真鏡承認勧進造立、始奉安置当堂了、于時慶長十稔乙巳十二月二十一日寅刻、当堂並びに如意輪堂・五大堂同時又焼失、既及三ヶ度之火災畢、嗚呼、三宇之華構映飛焔、諸尊之玉輪変灰燼、尊師影只一体令免其火災給候、余者不爾、可悲々々、
同十一年畢丙午三月上旬至大坂城訴訟、六月中旬右相国秀頼公厳命忽降、三宇再興、一山衆悦、八月九日奉行登山、同中旬運登材木、九月十三日突礎、同十八日卯刻立柱、同二十九日卯刻上棟、十月下旬造畢、於大坂木作、仍周備早速也、倩見斯新構、頗超自于旧製、増間増丈、盡善盡美、自非擅捨者、争遂華餝乎、今以比古、古比及今、 是只尊師之冥感也(×而)、豈非権現加護乎、」

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(霽)
義演、秀頼祈祷のため、歓喜天浴油を開白し、愛染日護摩を修す。〔義演准后日記〕
秀頼(「大坂」)祈祷のため、豊国社にて祈祷が行われる。〔舜旧記〕

三日(陰)
義演、秀頼(「秀ー公」)誕生日につき、大般若経を転読する。その後義演、大坂へ大般若札・日護摩巻数・団を秀頼・茶々姫・千(「御三所」)進上する。〔義演准后日記〕

七日(晴)
関白近衛信尹に対し、関白職を鷹司信房(「鷹司殿」)へ譲るべき沙汰あり。〔義演准后日記〕

九日(陰)
近衛信尹(「陽明関白」)、関白職を辞退する。〔義演准后日記〕

十一日
鷹司信房(「鷹司殿」)、関白・左大臣宣下。秀吉(「大閤御所」)拝任のため遅れる、多年の望みを達し重畳との記載有。〔義演准后日記(同月十二日条)〕

十二日
有節瑞保、住吉大社を見る。社頭は秀頼(「大坂」)による建立。〔鹿苑日録〕

十三日
義演、片桐且元(「片桐市正」)へ山下築地・二王門・山上三堂再興作事の礼に書信ならびに樽・折を送る。〔義演准后日記(同月十二日条)〕

二十日(晴)
有節瑞保、大坂城にて片桐且元(「片市公」)と対面し、御殿へ赴き秀頼(「秀頼公」)を拝す。蜜柑を進上する。
その後生玉大明神を拝観する。これもまた秀頼(「秀頼公」)の建立した社殿だが、その華麗さに驚く。神宮寺は法安寺というが、これもまた綺麗な造営に驚く。〔鹿苑日録〕
大野治長(「大野修理」)、義演へ楓を所望する。〔義演准后日記〕

二十二日(晴)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ樽を遣わす。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
舟橋秀賢、片桐貞隆(「片桐主膳正」)を見舞に訪問し、蜜柑を一折贈る。 その場で貞隆が寧の住む京都新城の屋敷(「香台院政所殿屋」)の修理にあたり、秀頼(「秀頼公」)より奉行に任じられる旨を聞く。〔慶長日件録〕
(※ 但し、諸研究ではこの件について、実質的には茶々姫の意向であろうと推測されている)。

二十九日(晴)
秀頼(「秀頼公」)、存庵を通じ舟橋秀賢に短冊四十枚を送り、東坊城盛長・西園寺実益・五条為経・小川俊昌(「小川坊城」)・三条西実条・四条隆昌・難波宗勝らに配るよう依頼する。〔慶長日件録〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
秀頼祈祷のため、歓喜天浴油を開白し、愛染日護摩を修す。〔義演准后日記〕

三日(晴)
義演、秀頼(「秀ー公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆九人(松橋堯円ら)と共に大般若経を転読する。その後義演、大坂へ北村主水(久兵衛改名する)を遣わし、秀頼(「大坂」)へ大般若札・日護摩巻数・団・蜜柑を進上する。 また下醍醐の再興について片桐且元(「片桐市正」)へ訴える。〔義演准后日記〕

五日(雨)
義演のもとへ大坂より下醍醐の再興について、来春御意あるべく返事が来る。〔義演准后日記〕

八日
寧(「故豊臣太閤政所」)、東山将軍塚の土地に太閤夫妻の香火院として高台寺を建立するに当たり、福島正則(「福島左衛門大夫正則」)、加藤清正(「加藤肥後守清正」)が人夫を出す。秀忠、寺領として五百石寄進する。〔徳川実紀〕

十日(晴)
完子(「九条殿御台」)、義演へ安産祈祷を依頼し、撫物を送る。〔義演准后日記〕

十二日
石清水八幡宮正遷宮。社壇は秀頼(「豊臣朝臣秀頼公」)による造営。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
茶々姫(「秀頼公御母儀」)、自ら願主となって真如堂(真正極楽寺)を再建し、この日の早朝に遷座式が行われる。
言経夫妻(妻は冷泉為満長女。西御方の姉)、各々真如堂へ参詣する。〔言経卿記〕

十九日
上醍醐学侶、上醍醐伽藍完成御礼に大坂へ赴く。義演より大蔵卿局、ならびに片桐且元(「片桐市正」)へそれぞれの音信を持参する。〔義演准后日記〕

二十一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し銀子三枚を奉納する。また神官らへ進物する。〔義演准后日記〕

二十五日(晴、寒嵐)
九条忠栄(「九条殿」)より義演へ使者を送り、妻完子の安産祈祷依頼のため杉原十帖と銀を送る。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
義演、大坂へ井内経紹(「大蔵卿法橋」)を遣わし、秀頼・茶々姫・千(「御三御所」)へ日護摩巻数・撫物・折を贈る。また大蔵卿局・伊茶局(「いちや」・片桐且元(「片桐市正」))へ足袋を遣わす。
完子(「九条殿御内儀」)、義演へ杉原二十帖・綾一巻を贈る。〔義演准后日記〕

三十日
秀頼祈祷のため、歓喜天浴油を開白し、愛染日護摩を修す。〔義演准后日記〕



編年史料 目次
 

1607/慶長十二年

 
慶長十二(1607)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


秀頼(「秀ー」)について、「巳御歳、秀ー御十五才 八月三日御誕生、」の記載あり。〔義演准后日記(同年七月条)〕

正月

[大坂城本丸奥御殿]
二日
徳川家康(「大御所」)、この日より二月半ばまで麻疾を煩う。京坂では家康危篤の噂が止まなかったという。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

三日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ新年の参拝に訪れる。〔舜旧記〕

四日(晴)
豊国社へ片桐且元(「片桐市正」)、秀頼(「大坂」)名代として豊国社を訪れる。このとき、秀頼は百匹を奉納し、茶々姫(「御母様」)は金子一枚を奉納する。〔舜旧記〕
義演、建部寿徳下人より下醍醐伽藍再興の許可がでる報を耳にする。〔義演准后日記〕

五日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆と共に大般若経を転読する。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・中将演照・二位演賀・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・演俊・宋倩・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超・眞勝。〔義演准后日記〕
梵舜、寧(「政所」)へ伺候し、考蔵主(「カウ蔵主」)、客人局(「客人」)、古茶局(「御コチヤ」)、梅久局(「梅久」)、木下家定(「木下法印」)らに進物する。〔舜旧記〕

十一日(雪花時々散乱)
義演、大坂に山田長運(「宰相」)を遣わし、秀頼へ祈祷巻数・進物などを贈る。〔義演准后日記〕

十三日(霽)
山田長運(「宰相」)、大坂より義演への返礼を持ち帰る。
二条昭実・鷹司信房・九条忠栄・梶井宮承快・随心院増孝・義演、京都所司代板倉勝重(「板倉伊賀守」)を年始の礼に訪れる。〔義演准后日記〕

十四日(晴)
梵舜、年賀のため来坂。はじめ片桐且元へ礼参し、大坂城へ登る。秀頼(「秀頼様」)へ新年の礼を述べた後、秀頼へ進物あり。 その内訳は梵舜は秀頼へ杉原十帖・一本、豊国神官惣中として太刀折紙馬代三百匹。 また、茶々姫(「御母儀様」)へ杉原十帖・水引三十、大蔵卿局へ匂香十貝などを進上する。〔舜旧記〕
堯円(「松橋法印」)、大坂より帰京し、義演に明十五日に祈祷のため来坂する旨を伝える。〔義演准后日記〕

十五日(雨)
義演、井内経紹(「大蔵卿法印」)・山田長運(「宰相上座」)・井内経信(「侍従寺主」)・三河寺忠為(「三河上座」)・(「和泉上座」)をつれ、明十六日の大坂城大般若経転読のため大坂へ下る。
義演、大坂到着後、茶々姫(「御袋」)・千(「姫君」)へそれぞれ杉原一束・足袋縫物二足、大蔵卿局・伊茶局(「いちや」)へ摺薄帯二筋を贈る。 大蔵卿局、義演へ返礼として樽二荷・折を進上する。
また義演、執事の片桐且元(「執事市正」)へ山田長運(「宰相」)を遣わし、太刀一腰・馬代三百疋を贈る。且元、長運へすぐに返礼を託す。〔義演准后日記〕
有節瑞保、大坂城に登り、片桐且元(「片市殿」)を訪問するが、且元とは眼病のため会えず。千畳敷において爆竹、笛鼓太鼓の御囃子あり。秀頼(「秀頼公」)、これを見物する。〔鹿苑日録〕

十六日(屬晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・金剛王院実融・東寺宝輪院宗俊・二位演賀・大夫堯政・刑部卿亮済・少将源朝・少貳演快・演俊・宋倩・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超・行樹院眞勝(「今度始也」との注記あり)。
布施として導師義演へ秀頼より銀子二十枚、茶々姫(「御袋」)より小袖一重、千(「姫君」)より同じく小袖一重、その他鵝眼三千三百疋、八木二石(人側賄料か)が贈られる。また経衆分として良家へは銀三枚、平民には二枚が贈られる。
転読の後、秀頼と対面。義演、秀頼に杉原五十帖・巻物一を進上する。 盃事あり。義演、秀頼より直接盃を頂、義演よりその他の経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
秀吉月忌。豊国神社にて拝殿において理趣三昧の法楽あり。年頭より義演出仕し金剛輪院において御膳を供える。〔義演准后日記〕

二十四日(雪)
朝、九条忠栄(「九条殿」)に男児生まれる。母は茶々姫の猶子であるのちの完子姫。義演は二条昭実よりこの話を聞く。なお、この男児(松鶴丸)はのちに昭実の養子となる二条康道(※ 昭実は忠栄の父方の叔父にあたる)。〔義演准后日記〕

二十七日(雨)
山科言緒(「内蔵頭」)ら、翌日の秀頼へ歳首賀礼のため、大坂へ赴く。〔言経卿記〕

二十八日(雨)
勅使並びに諸公家諸門跡より秀頼(鹿苑「秀頼様」、言経「秀頼公」)へ総礼あり。〔鹿苑日録、言経卿記〕

二十九日(晴)
山科言経、大坂より帰洛する息子言緒(「内蔵頭」)のため、淀まで迎えを遣わす。〔言経卿記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、仁王講を修す。その後秀頼方(「大坂」)へ井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、に祈祷札・折を送る。また伊茶局(「いちや」)へ音信を送る。〔義演准后日記〕

五日(晴)
完子姫(「九条殿御内儀」)、義演へ樽代二百疋・三種を贈る。安産祈願の礼か。〔義演准后日記〕

六日(晴)
義演、下醍醐伽藍再興を大坂へ訴えるため、下醍醐伽藍惣指図を作成する。〔義演准后日記〕

七日(晴)
先月末より江戸逗留中の舟橋秀賢、この日江(「御台様」)より小袖一重を拝領する。大久保忠隣(「大久保相州」)の書添あり。〔慶長日件録〕

九日(雨)
義演、大坂の秀頼(「右大臣殿」)執事片桐且元(「片桐市正」)へ使者北村主水を送り、書状を以って下醍醐伽藍再興を訴える。〔義演准后日記〕

十一日
片桐且元、義演に返書する。曰く、下醍醐伽藍再興は秀頼(「秀頼公」)未だ若年のため決しがたく、家康(「大御所御方」)・茶々姫(「御袋御方」)両所で決せられるべきとのこと。〔井内経紹宛片桐且元書状(義演准后日記)〕

(書下)
御書拝見仕候、下醍醐寺伽藍御再興之儀被仰聞候、   秀頼公御若年故、左様之儀御心得参かね申候、此中者 大御所御方・御袋御方御両所より被仰付儀候、 只今何共難計御座候、旁追而可得御意候条、此も之趣御取成所仰候、恐々謹言、
   二月十日                  片桐市正
     大蔵卿殿                  且元判

(意訳) お手紙拝見いたしました。下醍醐寺伽藍の再興について拝聴いたしました。 秀頼様はまだお若いため、そのようなことについて決めかね、 大御所様、及び御袋様お二人によって決められるべきことでございます。 ただいまは諸事情によりお二人に計りがたいので、追って再興について御意が得られますようにいたしますのでご理解ください。
   二月十日                  片桐市正
       大蔵卿法印井内経紹殿           且元判

二十六日(自朝晴天)
大坂城内にて能が興行される。秀頼(「秀頼公」)これを遊覧し、興行する。〔鹿苑日録〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、仁王講を修す。〔義演准后日記〕

四日(晴)
「江戸局」上洛につき、義演、樽二荷・二種を遣わす。〔義演准后日記〕

十日
義演、桜花を新上東門院勧修寺晴子(「女院」)・後陽成天皇女御近衛前子(「女御」)・鷹司信尚室清子内親王(「女三」)・寧(「北政所」)・鷹司信房(「鷹司殿」)・九条忠栄(「九条殿」)・西笑承兌(「兌長老」)へ贈る。〔義演准后日記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆五人と仁王講を修す。〔義演准后日記〕

四日(雨)
義演、大坂へ「和泉寺主」(「初而遣之」の注記有)を遣わし、秀頼方へ初物の竹子(「当年以外遅也」の注記有)を贈る。
義演、寧(「北政所」)に杜若・蕨を一折進上する。「御祝着」との返事あり。また、「江戸局」へも同じものを遣わす。〔義演准后日記〕

十七日(天晴)
寧(「政所」)、明日の豊国祭につき豊国社へ参拝し、銀五枚・神楽などを奉納する。神官たちに進物あり。孝蔵主(「康蔵主」)取り次ぐ。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国祭。
辰刻(午前八時ごろ)、秀頼(「大坂」)の名代として大野治長(「大野修理」)が装束姿にて豊国社を参詣。 養源院成伯(「養源院」)より奉納あり。
治長ら退出の後、その日の午後、勅使として西三条実条(「西三条」)が装束にて参向、奉幣あり。後陽成天皇(「禁裏」)の意向で、 勅使の参詣に神楽は行われず。〔舜旧記〕

二十七日
大坂の町にて大火あり?〔義演准后日記〕

三十日(晴)
義演、去る二十七日に大坂の町にて大火ありの報を聞く。すぐに見舞のため井内経信(「侍従寺主」)に竹子を持たせて大坂に遣わす。〔義演准后日記〕

閏四月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり仁王講を修す。〔義演准后日記〕

八日
結城秀康(「越前中納言秀康卿」/徳川家康次男、豊臣秀吉養子のち結城晴朝養嗣子)、北庄城にて三十四歳で没する。〔義演准后日記〕

十二日(自朝晴天)
この頃、大坂に火つけがあり、そのため大坂の町中酉刻以降は閉門して外出しない。〔鹿苑日録〕

十三日(自朝晴天)
秀頼(「秀頼公」)、結城秀康(「三州」)の見舞のため片桐貞隆(「片主」)を越前に派遣するらしいという話、もしくはもう亡くなってしまったため、弔問に派遣するとの話の二つの噂が流れる。有節瑞保は患っており家を出られないので、真偽を確かめられなかった。〔鹿苑日録〕

十四日(自朝晴天)
午時、秀頼(「秀頼公」)の名代として越前に赴いていた片桐貞隆(「片主」)が帰宅する。見舞ではなく弔問であったことが分かる。 〔鹿苑日録(同月十五日条)〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆十二人と共に大般若経を転読する。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・二位演賀・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・宋倩・演俊・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超。
その後秀頼方(「大坂」)へ井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、祈祷札・巻数・折を贈る。〔義演准后日記〕

十三日
義演、上醍醐三堂の本尊を造立したい旨の書状を片桐且元・大蔵卿局(「大くら卿殿」)宛てに書く。 山上学侶、大坂祈祷の下向の際に大般若札五十枚と共に持参するとのこと。

〔片桐且元宛義演書状(義演准后日記)〕

〔書下〕
大般若札五十枚、予書之、   上醍醐伽藍本尊之事、
今度上醍醐御建立被成候三堂御本尊之儀、御新造之様ニ於取成者、弥以可為忝悦候、 何様にも頼入存候、尚寺衆可申入候、穴賢/\、
   五月十四日        判
   片桐市正殿

〔意訳〕
まず、わたくしが書きました大般若札五十枚をお送りいたします。
さて、上醍醐伽藍の本尊につきまして申し上げます。
このたびご建立くださいました上醍醐のご本尊につきまして、新しく作っていただけますように お取り計らいいただけますれば、いよいよありがたく思います。どうかお願いいたします。
なお、この件に関して、寺のものが詳細を申し入れますのでよろしくお願いいたいます。
   五月十四日
   片桐市正且元殿

〔大蔵卿局宛義演書状(義演准后日記)〕

〔書下〕
上たいこからん三つおほせつけられ、はや/\といてきまいらせ候、
それニつきほんそんいまたなく候、とてもの御事ニおほせいたされ候やうニ御ちそう候ハゝ、おの/\いよ/\ありかたくそんし候へく候、
御うへさま御きけんハかりかたく存候へとも、御うかゝい候て、なにとそ御きもいり候ハゝ御うれしく存候へく候、
てらしゅせつ/\ニ申候てのかれかたくまゝさて申入まいらせ候、
御きしよくよきやうニたのみ/\いりまいらせ候、かしこ、
   大くら卿殿

〔意訳〕
このたび御上様(茶々姫)には上醍醐伽藍三堂の再興についてお世話いただきましてありがとうございます。 おかげさまで三堂は早々と出来つつあります。
しかしながら残念なことに三堂に安置すべき御本尊が未だありません。 もしこの上ご本尊の造立をお世話いただけますならば、いよいよありがたいことでございます。
御上様(茶々姫)のご機嫌がどのようであるかは私には分かりかねることではございますが、 どうかお伺いいただきまして、何卒ご本尊の造立についてお世話いただけますれば大変嬉しく思います。
寺の者も御本尊造立の願いをせつせつと申しますので、聞き流すことが出来なくてこのように申し上げました。
良きお返事がいただけますように、どうぞお取次ぎをお願い申し上げます。
   大蔵卿(局)

十六日(霽)
大坂城にて大般若経転読が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・中将演照・金剛王院実融・二位演賀・東寺観智院亮盛・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・演俊・宋倩・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超。
布施として導師義演へ秀頼(「秀ー」)より銀子二十枚・単物三つ、千(「姫君」)より同じく単物三つ、その他鵝眼三千三百疋、八木二石(人側賄料か)が贈られる。 また経衆分として良家へは銀三枚、平民には二枚が贈られる。
転読の後、義演、秀頼に杉原百帖を進上する。 盃事あり。義演、直接(秀頼より?)盃を頂、義演よりその他の経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
辰刻、寧(「政所」)が秀吉月忌につき豊国社へ参詣し銀子百五十目を奉納する。神官たちに進物あり。〔舜旧記〕
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

二十四日
義演、上醍醐三伽藍の本尊再興のため、仏具図を描く。 俊長、これを持ち大坂に下向し、この日の朝大坂に提出する。〔義演准后日記〕
二十九日(天晴)
梵舜、秀頼(「秀頼公」)へ礼参のため大坂城へ登る。例の如くまず早朝に片桐且元(「片桐市正」)を訪問し、取次ぎを依頼する。 梵舜、秀頼に礼辞言上ののち、団扇二本を進上する。〔舜旧記〕

三十日
俊長、夕刻に大坂より帰寺する。上醍醐三伽藍の本尊・諸道具について秀頼(「右大臣殿」)に訴えるも、見積過分(二千石)により申し入れできず。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、経衆と共に大般若経を転読する。今回、大輔演慶と大進演光を初めて経衆に加える。〔義演准后日記〕

二十五日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を見舞う。孝蔵主(「康蔵主」)取り次ぐ。〔舜旧記〕

二十九日
義演、大坂へ使者を遣わし、秀頼(「秀頼公」)へ松虫を進上する。〔義演准后日記(同年七月一日条)〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(霽)
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。
秀頼(「秀頼公」)不例の旨、大坂より帰寺した使者より義演に伝わる。しかしながらはっきりした情報は伝わらず、義演案じる。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、仁王講を修す。今回、大輔演慶と大進演光を初めて経衆に加える。〔義演准后日記〕

十八日
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

二日(天晴)
豊国社へ勅額を賜う旨、片桐且元(「片市正」)より梵舜へ申し来る。梵舜、武家伝奏の勧修寺光豊(「勧修寺(殿)」)・広橋兼勝(「広橋殿」)へ参内について相談する。〔舜旧記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり山上山下の経衆と共に大般若経を転読する。
その後秀頼へ木練一折・引合五十帖を、大蔵卿局・伊茶局(「いちや」)へ錫鉢を贈る。〔義演准后日記〕
勅額が出来上がったため、秀頼の名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)が上洛する。〔舜旧記〕

四日(天晴)
勅額を賜るため、勅使として豊国社へ武家伝奏の勧修寺光豊(「勧修寺中納言殿」)・広橋兼勝(「広橋大納言殿」)が参詣する。片桐貞隆(「片桐主膳正」)が秀頼の名代として参詣する。
勅額受け取りのあと吉田兼見(「二位」)宅にて饗応あり。 貞隆、秀頼よりの進物として広橋兼勝・勧修寺光豊へ銀子十枚・袷一ツ・絹二ツ・帷二ツを送る。 また兼見方へは太刀馬代三貫、梵舜へは杉原二十帖・百疋をを私として贈る。 を賜う旨、片桐且元(「片市正」)より梵舜へ申し来る。梵舜、武家伝奏の勧修寺光豊(「勧修寺(殿)」)・広橋兼勝(「広橋殿」)へ参内について相談する。〔舜旧記〕

お寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、湯立奉納を観る。また、勅使として広橋兼勝(「広橋大納言兼勝卿」)、勧修寺光豊(「勧修寺中納言光豊卿」)が豊国社に参詣し、勅額を授ける。吉田兼見(「吉田二位兼見卿」)、下陣にて拝受して神前簾上にうつ。その後、兼見が祈念し、両伝奏進拝し、続いて秀頼(「大坂」)の代参として片桐貞隆(「片桐主膳貞隆」)、総神官衆みな拝す。秀頼(「大坂」)、両勅使へ銀十枚、袷一などを送る。〔徳川実紀〕

五日
秀頼(「秀頼公」)、義演へ大般若経転読の布施として銀子十枚を贈る。〔義演准后日記〕

十三日(天晴)
梵舜、大坂の片桐且元(「市正」)へ舞殿の奉行について申し遣う。〔舜旧記〕

十六日(天晴)
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣。
またこの日、勅額を楼門に打ち付け、大工の藤三に一貫を遣わす。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
巳刻、明日の豊国祭につき寧(「政所」)が豊国社へ参詣し、銀子五枚を奉納する。湯立を拝観の後、阿弥陀が峰の秀吉墓所へ詣でる。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国祭。
勅使として西園寺実益(「西園寺大納言実益」)が束帯姿で参詣し、太刀折紙を奉納する。
その後秀頼(「大坂」)の名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)が金子一枚百貫を奉納し、吉田兼従(「慶鶴丸」)・ 吉田兼治(「左兵衛督〔佐〕」)へ銀子五枚を遣わす。その後、私として貞隆が二貫を奉納する。〔舜旧記〕

二十日(天晴)
西笑承兌(「相国寺豊光寺」)、豊国社へ参社する。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり山上山下の経衆と共に大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

十五日
義演、明十六日の大坂城大般若経転読のため大坂へ下る。
義演、大坂到着後下向案内として足袋絹薄摺を、茶々姫(「御袋」)へ三足、千(「姫君」)へ二足、大蔵卿局へも二足、伊茶局(「いちや」)へも二足贈る。〔義演准后日記〕

十六日
大坂城にて大般若経転読・加持祈祷が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・東寺光明院堯瑜・民部卿俊長・金剛王院実融・二位演賀・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・演俊・宋倩・演超・演慶(「今度初也、礼拝加行中也」の注記有)。
布施として導師義演へ秀頼より銀子二十枚・鵝眼三千三百疋・小袖ニ重・八木二石(人側賄料か)が贈られる。また経衆分として良家(四人)へは銀四枚、平民には二枚の計三十四枚が贈られる。
転読の後、秀頼(「右大臣殿」)と対面。盃事あり。義演、秀頼より盃を頂き、義演よりその他の経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
四日
徳川秀忠の息女(のちの東福門院和子)、生まれる。母は江。
曲名瀬道三(「延寿院道三」)が付き添っていたが、当時としては高齢の出産であったためか、ことさら難産であったという。
『御先祖記』では、和子が生まれた時に、江戸中に香が薫ったとの伝説が載せられている。〔徳川実紀〕

七日
星合具泰(「星合采女正具泰」)の娘が召しだされ、和子付きとなる。和子入内ののちは女房頭として「肥後局」と称し、三位を与えられる。後に江戸へ帰り、神尾守勝(「神尾宮内少輔守勝」)の妻となる。子はなし。〔徳川実紀〕

二十五日(天晴)
梵舜、北野社へ参詣する。本殿が秀頼(「大坂」)によって造替中のため、ご神体は愛染堂に遷座中。〔舜旧記〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり仁王講を修す。〔義演准后日記〕

十一日
義演、九条忠栄(「九条殿」)の侍衆が起こした乱暴について、二条昭実(「二条殿」)・故二条晴良室位子女王(「同政所様」)へ詫言仲介のために訪問する。〔義演准后日記〕

二十五日(天晴)
片桐貞隆(「片桐主膳」)、板倉勝重(「板倉伊賀守」)とともに東山照高院まで送られる。〔舜旧記(同月二十六日条)〕

二十六日(天晴)
寧の姪(「政所様姪女」)、豊国社社務萩原兼従と祝言をあげる。〔舜旧記〕

二十九日(天晴)
梵舜、萩原兼従妻(「御料人」/寧の姪)を訪問する。孝蔵主(「康蔵主」)、奏者を務める。〔舜旧記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼(「秀頼公」)息災祈祷のため、不動護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり仁王講を修す。〔義演准后日記〕

八日
秀頼(「大坂」)、義演に使者として成伯(「養源院」)を遣わし、節分祈念の布施銀子三十枚を贈る。 また、大蔵卿局からの文もあり。ただし義演出京のため(下項参照)留守。後刻、京門跡にて成伯、義演と対面する。
義演、九条忠栄(「九条殿」)の侍衆が起こした乱暴について詫言仲介のために出京する。〔義演准后日記〕

十日
義演、帰寺する。詫言仲介は不調に終わる。〔義演准后日記〕

十五日
北野天満宮、この日正遷宮。なお、社殿は秀頼(棟札「右大臣豊臣朝臣秀頼公」、義演「秀頼公」)の寄進によってことごとく新造されたもの。
〔北野神社棟札(檜材 高三尺七寸六分 横九寸五分)〕

(表)
             慶長十二暦十二月吉日
北野天満天神本社 右大臣豊臣朝臣秀頼公再興施
             片桐東市正且元(花押)奉之
(裏)
奉行    荒木勝太光高(花押)
御大工   藤原森田和泉守重次(花押)
当社御大工 岩倉五郎左右衛門(花押)
神事奉行  松梅院法印禅昌(花押)
義演、この日の暁、節分につき秀頼(「秀頼公」)の息災祈念のため、聖天供を開白する。〔義演准后日記〕

十八日
寧、秀吉月忌につき豊国社へ参詣し、神事を観る。銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕
義演、秀吉月忌につき出仕し理趣三昧を修す。〔義演准后日記〕

十九日
九条忠栄(「九条殿」)、右大臣を拝賀することが決まる。元日に沙汰ありとのこと。忠栄、叔父二条昭実より樽を拝領する。また義演に布施百疋を贈り、星供養を依頼する。〔義演准后日記〕

二十日
義演、二条家一族及び秀頼(「秀頼公」)のために星開眼供養を行い、真言・仁王経・大般若経を転読し、武運長久を祈念する。〔義演准后日記〕

二十一日
義演、秀頼方(「大坂」)へ祈祷巻数・団・撫物・蜜柑を送る。この日、池田家(「幡州池田」)へも進物有。〔義演准后日記〕
板倉勝重(「板倉伊賀守」)と大工・中井正清(「大和守」)、この日禁裏の縄張をする。敷地は広大ながら後陽成天皇が不満の意を表したため決まらず。 また、天皇が二条邸を新上東門院勧修寺晴子へ譲る旨を突然表明し、義演驚く。〔義演准后日記(同月二十四日条)〕

二十二日
この夏新造したばかりの駿河城が、この日の夜から翌二十三日の朝まで燃え続け、悉く焼失する。家康(「大御所」)・その子ら・及び上臈女房衆は無事だが、下々の女房衆の消息は知れず。 江戸や伏見から移した道具も焼失とのこと。なお、これにより禁裏の新造のため上京していた中井正清(「大和守」)も二十七日朝に駿河へ発ち、また醍醐寺の工事にあたっていた大工も二十八日朝に徴せられる。〔義演准后日記(同月二十七日条)〕

二十四日
義演、板倉勝重(「板倉伊賀守」)・西笑承兌(「兌長老」)・閑室元佶(「学校」)へ歳暮を贈る。また、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)・成伯(「養源院」)へ樽を贈る。〔義演准后日記〕

二十八日
秀頼、駿河城火災の見舞いに伊茶局(「いちや」)を遣わす。〔義演准后日記〕

二十九日(天晴)
秀頼、駿河城火災の見舞いに片桐且元(「片桐市正」)を遣わす。
義演も伏見へ使者を送り、家康(「大御所」)・蔭山殿(「御万御方」)・頼宣(「常陸介殿」)・頼房(「鶴御所」)へ見舞いのため祈祷巻数・守などを贈り、宰相局へ文で言付ける。〔義演准后日記〕



編年史料 目次
 

1608/慶長十三年

 
慶長十三(1608)年(戊申)
※ []内は茶々姫の居場所

正月

[大坂城本丸奥御殿]
二日
秀頼(「豊臣右大臣秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に織田頼長(「織田左門頼長」)を遣わし、家康に歳首を賀す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

四日(天晴)
秀頼(「大坂」)の名代として片桐且元(「片桐市正且元」)が豊国社へ金子一枚百貫を始めとする新年の奉納を行う。〔舜旧記〕

五日(天晴)
寧(「政所」)が豊国社へ参詣し、湯立祈祷・銀子五枚などを奉納する。〔舜旧記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(天晴)
梵舜、大坂へ下向し、片桐且元(「片桐市正」)・貞隆(「主膳正」)兄弟に面会し贈答を交わす。
その後大坂城へ登城し、秀頼(「秀頼公」)へ杉原十帖、茶々姫(「御袋様」)へ匂香十貝・金銀箔、大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へ匂香十貝を進上する。
但し、秀頼が体調不良(「御頭痛」)のために対面はなく、取次である安威守佐(「安盛摂津守」)・郡宗保(「コホリ主馬」)と面会する。〔舜旧記〕

十二日(晴)
茶々姫(「ひてよりの御ふくろ」)、朝廷に白銀二十枚・とんす十巻を進上する。〔お湯殿の上の日記〕

十三日(天晴)
八条宮智仁親王(「八条殿」)が豊国神社へ参拝・奉納する。〔舜旧記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
この頃
秀頼(「秀頼公」)、曲直瀬道三(玄朔)に疱瘡の診察を受ける。寒気、発熱、頭痛の症状や熱が下がった後に赤色の痘が見られだしたこともが記されている。道三、「神功散」を処方する。〔医学天正記〕

五日(天晴)
秀頼(「大坂右大臣様」)の疱瘡治癒のために、神宮寺にて大般若経が転読される。梵舜、大坂へ弥兵衛を遣わし、祈祷札と書状を片桐且元(「片桐市正」)へ送る。且元、即日これに返信する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌のこの日豊国神社へ参拝し、銀子五枚を奉納する。〔舜旧記〕

十九日
浅野長晟(「浅野但馬守長晟」)、「椿叟大夫」に矢野五左衛門(伊茶局の子)を遣わし、金子二十両を進上し、秀頼(「秀頼様」)疱瘡平癒のために大神楽執行を依頼する。〔浅野文書〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(天晴)
豊国祭につき、秀頼(「大坂」)名代として大野治長(「大野修理」)が辰刻に豊国社へ参詣し、金子一枚を奉納する。治長、個人的にも二貫文を奉納する。
また勅使として大炊御門経頼(「大炊御門大納言経頼」)が巳刻すぎに参詣・奉納する。〔舜旧記〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(天晴、晩雨降)
この日の早朝、大蔵卿局(「大坂大蔵卿殿」)が豊国社へ参詣する。近日中に駿府(駿州)へ見舞のため下向するとのこと。〔舜旧記〕

十日
上醍醐御影堂再興について、井内経信(「侍従上座 経信」)、山上衆へ遅れていた如意輪堂・白山権現棟札の完成を奉じる。〔三宝院文書〕

二十四日(晴)
秀頼の乳母(当代「大坂秀頼公乳母局」、実紀「大坂の右府乳母」/右京大夫局か)、秀頼(「秀頼公」)・茶々姫(「御袋」)母子のために大神楽を伊勢神宮へ奏す。〔当代記・徳川実紀〕

十二日(晴)
秀頼、龍(「まつの丸殿」)に使者(侍女か)を二人遣わし、病中見舞の礼状を出す。〔松の丸殿宛秀頼書状〕

〔書下〕
   猶/\、わつらひ申刻、早々御下、まんそく申候、かしく、
其のちえ申うけ給らず候間、御床敷そんし候、わづらひ申刻、御下にて候へとも、ふたふたと御入候て、今に申出候、 ふとふと御くだりなされたく候、此五十枚しんじ候、めでたきしうぎまでにて候、くはしくは、両人方より申候へく候、 めでたくかしく、
   五月二十七日            より
     まつの丸殿            秀頼
        かしく 申させ給へ

〔意訳〕
  病床にあったときには、早々にお越しくださり、嬉しく思います。
あれからお顔を拝見していない、大変お会いしたく思っておりました。 病床にあったときにお越しくださったのにも関わらず、いろいろと立て込んでおりお礼が今になってしまいました。 また近いうちにぜひお越しください。この金子?五十枚は快癒の内祝でございます。 詳細は二人より申し上げますのでよろしくお願いいたします。
   五月二十七日
     松の丸殿へ            秀頼より 観音寺文書

六月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(天晴)
寧(「政所様」)、秀吉月忌のため豊国神社へ参拝し、銀子五枚を奉納する。浅野長政(「浅野弾正」)もまたこの日参詣する。〔舜旧記〕

二十三日
秀頼(「秀頼公」)、鞍馬寺毘沙門天を再興し、この日の寅刻、百五~六十年ぶり開帳される。導師は尊朝(「青蓮院之門跡」)。なお、この再興には家康の同意があったという。 〔舜旧記、山本文書〕

二十六日
片桐且元(「片桐市正且元」)、鞍馬寺再興について青蓮院坊官鳥居小路経秀(「鳥小路殿」)へ書状を出す。〔山本文書〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
秀頼(「秀頼公」)、上醍醐御影堂を再興する。〔三宝院文書〕
梵舜、大坂に登城し秀頼(「秀頼公」)へ団扇二を進上する。〔舜旧記〕

九日
秀頼(「大坂の右府秀頼公」)、徳川秀忠へ金十枚を送る。 〔三宝院文書〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
二十九日(天晴)
梵舜、巳刻に大坂城へ登り、秀頼(「秀頼様」)に対面する。疱瘡平癒の様子について話す。秀頼、梵舜に御服白小袖一ツを与える。取次は片桐且元(「市正殿」)。
(なお、大雨のため凶作との記載あり。)〔舜旧記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
二十二日
秀頼(「右府秀頼」)、大仏殿の再興を沙汰する。片桐且元(「片桐市正」)・雨森出雲守が奉行を務める。この日手斧始め。〔徳川実紀〕



編年史料 目次
 

1609/慶長十四年

 
慶長十四(1609)年 己酉
※ []内は茶々姫の居場所

正月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
秀頼(「右府秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に使いを送り、家康に歳首を賀す。〔徳川実紀〕

この月
秀頼(「大坂豊臣右府」)の沙汰で大仏殿が再建される。諸国浦々から良材を集め、西国中国四国九州の諸大名、二万石、一万石、五千石、あるいは三千石ずつを大坂へ送り、その費用を負担したという。大坂方よりの奉行として片桐且元(「片桐市正且元」)と森出雲守、江戸方より小島久右衛門、中村弥左衛門、正村次右衛門、清水久衛門、植木久兵衛が監使を務めた。 毎日工匠を数万人動員し、経費は日に千金以上かかったという。
『徳川実紀』では、秀吉(「太閤」)が備蓄した千枚分銅を石河勝政(「石河三右衛門」)、饗庭民部が奉行となって改鋳し費用を賄ったとするが、以降も豊臣家には多額の金が残っていたとも言われ、この逸話の真偽は定かではない。〔徳川実紀〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
京極高次、没す(四十七歳)。子忠高にその遺領九万二千石余りを継がす。
『徳川実紀』にて、高次の経歴あり。高吉(「長門守高吉」)の嫡男。幼名は小法師丸。母は浅井久政(「浅井下野守祐政」)女。妻(初)は常高院と称し、茶々姫(「淀殿」)の妹で、江(「御台所」)の姉にあたる。姉(龍)ははじめ武田元明(「武田孫八郎元明」)の妻となり、後に秀吉(「豊臣関白秀吉公」)の寵を蒙り、松丸殿と称すとあり。〔徳川実紀〕

十一日
京極忠高(「京極若狭守忠高」/京極高次子、初の養嗣子、生母は吉原殿〔山田崎〕)、人質として江戸に下っていたが、父高次(「宰相高次」/初の夫)が歿したため、江戸を発ちその跡を継ぐ。〔徳川実紀〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
十四日
広橋局(広橋兼勝女)を始めとする女房五人、猪熊教利(「猪熊侍従教利」)、烏丸光広(「烏丸左大弁光広」)、飛鳥井雅賢(「飛鳥井少将雅賢」)、難波宗勝(「難波少将宗勝」)、大炊御門頼国(「大炊御門左中将頼国」)、花山院忠長(「花山院少将忠長」)、徳大寺宣久(「徳大寺少将宣久」)、松木宗信(「松木侍従宗信」)、兼安頼継(「兼保備後」)ら、乱行のため後陽成天皇の勅勘を蒙る。京都所司代板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)これを調査し、駿府城の徳川家康と相談し関係者を処分する。(いわゆる猪熊事件)
猪熊教利について、『徳川実紀』はその妻を前田利長女と伝える。〔徳川実紀〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
寧(「高台院」)に預けられていた木下家定(「木下肥後入道法印家定」/寧の兄)の遺領(備中足守)が徳川家康に没収される。 『当代記』によると、徳川家では寧に預けられたのち、家定の長男勝俊(「少将勝俊」)に二万石、次男利房(「宮内少将利房」)に五千石を分与させる予定であったものが、寧の独断により勝俊だけに相続させようとしたため、家康がこれに怒り没収したとのこと。
但し、跡部氏曰く、この件に関して寧は前もって秀忠側近の本多正信に相談しており、寧の思う通りにしてよいという許可を得ていたものであった。〔当代記、徳川実紀、跡部信「高台院と豊臣家」〕

十六日
丹波国篠山城が落成する。この普請は慶長十三年四月より行われていたもの。翌年閏二月の名古屋城普請記事から、福島正則、池田輝政、浅野幸長ら北国西国大名らが人夫を出した天下普請であったことがわかる。〔徳川実紀・跡部信「高台院と豊臣家」〕

二十七日
木下家定の遺領の件で、孝蔵主が駿府に召しだされる。『徳川実紀』では大坂よりとなっているが、京都新城跡の寧の屋敷にいたものと思われる。〔徳川実紀・跡部信「高台院と豊臣家」〕



編年史料 目次
 

1610/慶長十五年

 
慶長十五(1610)年
※ []内は茶々姫の居場所

一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
寧(「政所」)、早朝に豊国社へ参詣し銀子五枚を奉納する。萩原一族・神官たちと贈答あり。〔舜旧記〕

二日
秀頼(「豊臣右大臣秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に伊藤治明(「伊藤掃部助治明」)を遣わし、家康に歳首を賀す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

四日(天晴)
巳刻、秀頼(「大坂」)の名代として片桐且元(「片桐市正殿」)が豊国社へ参詣し、金子一枚・馬代百貫を奉納する。 吉田兼見、この馬代百貫をが萩原兼従妻(「御料人」/寧の姪)の里帰りのための樽代に充てるよう渡す。
またすべての神官に百貫・巫女八人にはそれぞれ杉原十帖・銀子一枚を贈る。また吉田兼見(「二位」)・萩原兼従(「萩原」)・吉田兼治(「左兵衛督殿」/兼従父)へ それぞれ小袖二ツ・銀五枚を贈る。諸神事あり。
なお、且元について「昨今体調不良であり、この日新年の参詣が実現したことはとりわけ目出度いことである」という旨の記載をしている。〔舜旧記〕

五日(天晴)
吉田兼見(「二位殿」)、この日萩原兼従夫妻(「萩原殿・同女房衆」/寧の姪)が寧(「政所様」)のもとへ里帰りする際の礼とするために、秀頼方(「大坂」)よりの金子一枚百貫をすべて樽五荷・五種肴とする。〔舜旧記〕

七日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)へ新年の礼に訪問する。孝蔵主(「幸蔵主」)・客人局(「客人」)・古茶局(「於小茶」)・梅久局(「梅久」)ら女房衆へも進物あり。〔舜旧記〕

十一日(天晴)
梵舜、豊国社神官(治部少輔・禰宜大和・神楽〔供ヵ〕所二蔵)とともに、片桐且元(「片桐市正殿」)の取り次ぎで大坂城へ赴く。 梵舜、秀頼(「秀頼様」)へ杉原十帖・一本、茶々姫(「御母儀」)・大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へ匂香十貝(金銀箔押)を進上する。 また、豊国社中よりの進物として、秀頼へ太刀折紙、茶々姫(「御袋様」)へ杉原十帖・小扇二本、大蔵卿局へ杉原十帖を進上する。
なお、登城前には且元邸にて振舞あり。梵舜、且元へ扇十本・砂粉、貞隆(「片桐主膳正殿」)へ錫鉢二ツを贈る。 また、豊国社中からとして且元に扇十本を贈る。〔舜旧記〕

十八日(晴)
秀頼(「右府」)、公家衆より惣礼を受ける。舟橋秀賢、九条忠栄(「殿下」)と共に登城する。摂関家・門跡、秀頼よりニ献あり。その他公家衆は一献あり。〔慶長日件録〕

閏二月

[大坂城本丸奥御殿]
八日
尾張名古屋城の建築を急がせるために、前田利常(「松平筑前守利常」)、加藤清正(「加藤肥後守清正」)、池田輝政(「池田宰相輝政」)、黒田長政(「黒田甲斐守長政」)、鍋島勝茂(「鍋島信濃守勝茂」)、浅野幸長(「浅野紀伊守幸長」)、福島正則(「福島左衛門大夫正則」)、田中忠政(「田中筑後守忠政」)、細川忠興(「細川越中守忠興」)、山内康豊(「山内対馬守康豊」)、毛利秀就(「松平長門守秀就」)、加藤嘉明(「加藤左馬介嘉明」)、蜂須賀至鎮(「蜂須賀阿波守至鎮」)、寺沢広高(「寺沢志摩守広高」)、生駒一正(「生駒讃岐守一正」)、木下延俊(「木下右衛門大夫延俊」)、竹中重門(「竹中丹後守重門」)、金森可重(「金森出雲守可重」)、毛利高政(「毛利伊勢守高政」)、一柳直盛(「一柳監物直盛」)、一柳直重(「一柳丹後守直重」)、稲葉典通(「稲葉彦六典通」)ら、西国北国の大名、名古屋に仮屋を設けて人夫を出す(いわゆる天下普請)。また、佐久間政実(「佐久間河内守政実」)、山城忠久(「山城宮内少輔忠久)、滝川忠征(「滝川豊前守忠征」)、牧長勝(「牧助右衛門長勝」)、村田権右衛門はその奉行として名古屋に入る。
『徳川実紀』には当時の逸話として、福島正則が将軍秀忠の住まう江戸城や大御所家康の居城駿府城の普請ならまだしも、その庶子である名古屋城まで相次いで天下普請を行うこと対する不満を家康の聟である池田輝政に零している。内容の真偽はわからないが、当時の西国北国大名が幕府によって警戒され、忠誠を試されいた立場が伺える。〔徳川実紀〕

十八日(陰)
片桐且元(「片桐市正殿」)、駿府より帰洛する。梵舜、京の片桐邸へ赴き豊国社臨時祭および大仏建立などについて会談する。 且元、特に大仏建立については、茶々姫(「大坂御母儀」)の意向を聞くべきことを梵舜に話す。〔舜旧記、徳川実紀〕

この月
幕府、名古屋城築城を課せられていない池田長吉(「池田備中守長吉」)らの大名に丹波国亀山城の築城を命じる。〔徳川実紀〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
浅野長政(「浅野弾正少弼長政」)の次男長晟(「但馬守長晟」)に備中二万石(二万四千石、二万五千石とも)を加増する。
『徳川実紀』曰く、長晟はもともと秀頼に小姓頭として仕え三千石を領していたが、この頃兄幸長(「紀伊守幸長」)女を徳川家康の子義直(「尾張義直朝臣」)の妻とし、一族みな厚遇を受けるという。なお、この加増された備中二万石は寧より没収した故木下家定(「木下肥後守家定」)の旧領。〔徳川実紀〕

十一日
徳川秀忠、後陽成天皇の譲位について相談するため、勅使広橋兼勝(「広橋大納言兼勝卿」)・勧修寺光豊(「勧修寺中納言光豊卿」)・京都所司代板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)を伴い、駿府へ下向する。〔徳川実紀〕

十五日(自朝晴天)
有節瑞保が午前中に大坂城へ登ると、昨夜庚申(夜寝てはいけない)だったため、秀頼(「秀頼公」)はまだ睡眠中とのこと。午刻の終わりごろ改めて礼参する。〔鹿苑日録〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日
医者吉田意安(「吉田意安宗恂」)が没し、その子如見家を継ぐ。如見、徳川家康(「駿府」)・秀忠(「江城」)へ父の形見送り、また家督相続のあいさつとして家康へ純子沈香、秀忠へ南京織物、竹千代(「若君」/後の家光)へ広東織物、江(「御台所」)へ綸子を送る。〔寛永系図(徳川実紀)〕

十六日(天晴)
浅野長晟(「浅野但馬守」)、豊国社へ参詣する。徳川家康(「駿河将軍」)より二万五千石の知行を賜るという。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
巳刻、寧が豊国社へ参詣・奉納する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国祭。
早朝、秀頼(「大坂」)名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)が豊国社へ参詣、金子一枚・鳥目百貫を奉納する。 吉田兼見(「二位」)・萩原兼従・吉田兼治(「左兵衛佐」)へそれぞれ銀五枚を贈る。
巳刻、勅使として中山慶親(「中山中納言慶親」)が束帯姿にて参詣。朝廷より馬代五百疋、個人として百疋を奉納する。〔舜旧記〕

二十八日(雨降)
この日、福島正則(「福嶋左衛門大夫」)が豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十九日(雨降)
秀頼(「秀頼公」)、片桐且元を通じて吉田兼見へ吉田家所蔵の「藤氏大系図」(藤原家系図)の閲覧を依頼する。 この日の申刻、豊後守が大坂城へ届けに下向する。〔舜旧記〕

この月
片桐且元(「片桐市正且元」)の長子孝利(「次郎助孝利」)、駿府城で徳川家康と面会する。
建部内匠頭光重没す(三十三歳)。その子政長(「内匠政」、「政長」)未だ幼少のため、秀頼(「秀頼公」)がその遺領を預かろうとしていたが、池田輝政(「池田宰相輝政」)が幕府に願い出て、家康・秀忠(「両御所」)より片桐且元(「片桐市正且元」)に対し、政長へ父の遺領(尼崎七百石)を継がせるよう伝えられる。〔徳川実紀〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
二十日(天晴)
梵舜、寧(「政所様」)を見舞う。取り次ぎは客人局(「客人」)。〔舜旧記〕

二十九日(天晴)
梵舜、片桐且元(「片桐市正」)の取り次ぎで大坂城にて秀頼(「秀頼様」)と対面する。梵舜、秀頼へ蟲籠を進上し、且元へ団扇二本を贈る。〔舜旧記〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
六日
丹波国亀山城、落成する。天守は藤堂高虎(「藤堂和泉守高虎」)の普請。〔徳川実紀〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
十三日(天晴)
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十五日(雨降)
後陽成天皇女御近衛前子(「女御」/近衛前久女)、母とともに豊国社を参詣する。〔舜旧記〕

十六日
秀頼(「大坂」)、豊国祭・豊国臨時祭にむけて豊国社へ馬野瀬猪右衛門を遣わし、銀子(枚数は欠)・鳥目百貫を送る。 寧(「政所」)もまた金子一枚を湯立料として、銀子三枚を御内衆湯立料として遣わす。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し金子一枚などを奉納する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国祭。
早朝、勅使として広橋兼勝(「広橋大納言兼勝」)が束帯姿にて参詣する。
その後、秀頼名代として片桐且元(「片桐市正殿」)が装束にて参詣、金子一枚・鳥目百二十貫を奉納する。 また吉田兼見(「二位」)・萩原兼従(「兼従」)・吉田兼治(「左兵衛佐」)へそれぞれ銀五枚、梵舜へ三貫を贈る。
ほかに、諸大名よりも奉納あり。〔舜旧記〕

十九日(天晴)
豊国臨時祭。諸神事・申楽などが行われる。奉行は片桐且元(「片桐市正殿」)。
申刻、且元の使者(多羅尾半左衛門・馬野瀬猪右衛門)から吉田兼見(「二位」)・萩原兼従(「萩原」)・吉田兼治(「左衛門佐」)にそれぞれ絹十疋・綿十把・錦五巻、神宮寺へは絹十疋・綿十把が贈られる。〔舜旧記、徳川実紀〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
中旬
加藤清正、名古屋城普請完成ののち、大坂へ赴き、秀頼(「秀頼公」)に謁見する。〔清正記〕

この月
徳川家康、後陽成天皇の譲位について武家伝奏を通じ、政仁親王(後の後水尾天皇)の元服・即位の準備を早急に行うべきこと、後陽成天皇への奏上には、母の新上東門院(「女院」)をの力を借りて奏上すべきことを伝える。〔徳川実紀〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
二十六日
徳川秀忠、豊国社務萩原兼従(「萩原大夫兼従」)に朱印状を発給し、豊国社社領として慶長六年に寄進された山城一万石を永代に認め、諸役怠りなく務めるべきことを命ず。
また、兼従父兼治(「左兵衛兼治」)に吉田神道の神主を相続させ、兼従は吉田兼見の弟神龍院梵舜に後見させる。
江戸に滞在していた徳川家康(「大御所」)の駿府帰還に先立ち、金地院崇伝が駿府へ発つにあたり、江(「御台所」)、時服二襲、あや二、その他さまざまの物を崇伝に贈る。〔徳川実紀〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
十二日
梵舜・萩原兼従、駿府に至り、徳川家康・阿茶局(「あちゃの局」)へ進物する。家康、秀忠へも参拝すべき旨伝える。〔舜旧記、徳川実紀〕



編年史料 目次
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





月別アーカイブ

フリーエリア

メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


検索フォーム



ブロとも申請フォーム

QRコード
QR