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大河を終えて

怒涛の一年が終わりました。
その前年から出版ラッシュ、大河にちなんだイベントや講演などがありましたので、厳密には一年以上ですね。

私はビビリなので、メディアに茶々が取り上げられることについてあまりうれしくないのですが、結果的に宮沢りえさんのご好演もあって素敵な茶々姫だったと思います。

大河ドラマで取り上げられた利点としては、東福寺の完子の墓が再発見されたこと、江の宮殿、または書状が新たに二通再発見されたことなど、新たに発見、再発見があるのは視聴率はよくなくともそれだけ注目を集められることによるなによりの効果ですね。
前年より大河本が数多く出版され、嬉しい悲鳴をあげました。その中には残念に思うものも少なくなかったのですが、個人的に『江の生涯』、『誰も知らなかった江』、『江の生涯を歩く』は私にとってとても勉強になりました。
縁の地では、多く講演や展覧会が催され、これも嬉しい悲鳴でした。

私自身、茶々の妹なのに、江のことを今まであまり注目しておらず、大河ドラマをきっかけにいろいろな方に勉強させていただき、頂いたご縁は本当にありがたかったです。
江のことを知り、茶々の素顔の一片を更に知ることができ、三姉妹の絆についてもその深さを知り、ますます好きになりました。

一方、放送内容によって私の気分が上下したり、私自身無駄に気を使う性格もあって、それまでのように好き勝手にブログを書き辛くなったりもしました。
近年、小和田先生や跡部先生、福田先生のお力で茶々について大いに見直されていましたが、大河ドラマをきっかけに、聞かなくなって久しいような辛辣な評価を目にする機会が増えたのも事実です。

大河ドラマが始まったころ、つっこみどころが多くても新しい説をとりいれようとする姿勢が好きでした。
回を追うごとに、従来の大河ドラマとあまり変わらなくなってしまったのは、やはり低視聴率が原因だったのでしょうか。
特に姉妹が離れて以降、その絆を感じさせられる事例がたくさんあったのに、それらが描かれなかったのがとてもとても残念です。
ドラマの放送が順調であれば、制作陣のテンションが維持されれば、ドラマの内容自体も違っただろうし、注目度も一層増して、より新しい発見や再発見があったのでは、と思うとそこは無念で仕方ありません。
江について、もしくは江の周囲の人々(義母日秀や完子ら子どもたちなど…)について、よりディープに描けば、歴史を知らずとも、もっと感情移入できて魅力的だったのではと思います。

これほど三姉妹、茶々について注目されるチャンスはしばらくないでしょう。
来年から、またひっそり茶々姫を追いかける日々に戻ります。
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| ∟江 姫たちの戦国 | 02:22 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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第四十六話「希望」【大河ドラマ感想】(完)

無事?終わりました。
一瞬で五年くらい進む場面もありましたが、ついていけなかった方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。

とりあえず、私は最終回のテロップで「淀」ではなく「茶々」だったのは嬉しかったです。
「淀」の場面もありましたが、三姉妹を描いた作品ではあくまで「茶々」であってほしかったので。

でも、普通に江が佐治一成にあったのにはびっくりしました。福が林羅山にあったのにもびっくりしたけれど…
いくらなんでも、当時の決まりでも、奥御殿では主(秀忠)がいなければ10歳以上の男子禁制のはずです。

○龍の江戸下向

龍が元和年間に江戸下向したという史料はありませんが、おそらく寛永年間に家光に年頭の祝儀を贈ったという一件をもとにしているのかなあと思いますが、偶然にも最近これは龍の事蹟ではなく、初の事蹟であることを言及しました。
→*「松の丸京極龍の晩年と誓願寺」(2011/11/25)>「龍の晩年の活躍」をご参照ください。

龍は最後まで江戸に下ることなく、後家として西洞院の屋敷でひっそりと晩年を送っていたものと思われます。
神龍院でひっそりまつられ続けている豊国大明神に参拝したり、自身の再興した誓願寺に足を運んだり、時には寧のもとに足を運ぶことはあったと思います。

龍は、なんといっても秀吉の後家。豊臣の関係者ですから、易々と身軽に江戸に下ることは出来なかったししなかったと思います。

○茶々が待ちわびていた秀頼の成人と千の懐妊

夫秀頼には、女房腹に二男一女の子がいます。
一方、千にも後夫本多忠刻との間に一男一女を儲け、他にも育たず亡くなってしまった子がいたといいます。
秀頼と千の間に子が出来なかったのは、二人の体質に問題があったようではなさそうです。
このことは昔から言われていて、だからこそ大坂城で茶々が千を秀頼から遠ざけたのだと謂れのない中傷をいくつも見てきました。

確かに、秀頼と千の子がいないことには、相性という問題もありますが、なんらかの不自然さを感じないわけではありません。ですが、私は茶々の研究者ですから、いわれなき批難を受けている茶々の側から弁護をしようと思います。

まず、茶々は秀頼を関白にするために、秀吉が遺した遺言、遺産や威光を有効活用して、当代一流の教師・教材を揃え、文武両道に育てていました。秀吉が遺した「秀頼を十五になるまでは大坂城から出してはならぬ」は、秀頼の周りにとっては、十五になれば成人なのだという覚悟を持たせた結果になったっと思われます。
秀頼が十一で千を迎える時には、待ちに待った秀頼成人の第一歩として大いに祝われ、その証として福島正則が秀頼に誓詞を出したという噂が立ったほどでした。
豊臣家にとって、それが徳川家康の孫であれ、秀頼がとうとう妻を迎える年齢になったということが大変に喜ばしかったのです。

ましてや、徳川と豊臣の間を気遣った江の肝いりで茶々のもとに送られてきた千。江もまた、豊臣から徳川へ縁を結ぶために嫁いだ身、茶々に江が豊臣と徳川を思う気持ちが分からないはずがありません。
そうした輿入れしてきた千は、若干七歳から十九歳で落城するまで…現在ならばまさに学生として様々な素養を学ぶ時期に、教育を受けた場所が大坂城でした。そしてその教育の全責任を負っていたのが茶々でした。
諸家から秀頼に対する贈答の席では、千に必ず同席をさせ、秀頼、秀頼の母茶々とともに、秀頼の妻として贈答の面倒を見て、礼儀作法を教えています。時には茶々が公家に口を聞いて、千の名で連歌会を催すということもありました。茶々の側近大蔵卿局を使って、千の取り次ぎをさせるなど、かなり厚く世話をしている様子が見えます。
茶々が千に気を配っていたのは、徳川家の娘という点ではなく、なにより秀頼の妻、将来の関白の妻として相応しいようにと教育を怠らなかったのです。

茶々の中には、秀頼はもちろん関白に相応しい男になってもらわなければ困る。千は、関白秀頼を支えるのだから、公家とのやりとりは必須。将来は寧(高台院)のようになってもらわなければ困る。そして、秀頼を継ぐ者は、二人の血を引いて、まだ豊臣家の中でしっかりと教育を受けさせなければならぬ。子女の教育を重んじる茶々にとって、それが茶々の信念だったのではないでしょうか。

秀頼が石という女房との間に長子国松を儲けたのは、千が成人する前のことです。茶々はこの子を秀頼の後継ぎではなく庶子として、大坂城から出してしまいます。国松にとっては、大坂城で育ったほうが良かったのか、出自を秘されてのびのびと、しかし大事に育てられたほうが良かったのかは分かりません。茶々は、国松を大坂から出す際、側近大蔵卿局縁の聡明な女性を乳母として国松につけました。これは国松に対する罪滅ぼしだったのかもしれません。
それでも、国松を秀頼の嫡子として迎える訳にはいかなかったのです。
それについては、徳川家への配慮といわれていますが、徳川家に対し、譲れぬところはきっぱりと拒否する茶々にしては、殊勝な態度すぎると思います。
国松を秀頼のこと認知しなかったのは、秀頼の嫡子は千が産んでもらわなければ困ると考えていたと私は思っています。千への教育はそのためのものでもあり、秀頼の血が子々孫々続いて栄えていくためには、生母の血、生母の実家の力もまた大切なのです。
もし、茶々が秀頼の子という存在に千の血が必要ないと思っていたのならば、国松はひっそりと城内で育てさせていたでしょう。秀頼の嫡男です。教育を重んじる茶々としては、秀頼に施した教育と同等のものを与えて、公家社会で遜色のない若君にしなければいけません。
それでも茶々は国松を大坂城から出しました。それはとりもなおさず、千が嫡男を生むことを待っていたからです。
このようなときばかり「徳川に憚って」といわれますが、そうではないでしょう。秀頼ほどの地位の男ならば、お手付きの女房衆の一人や二人いてもおかしくありません。

実際、年後で生まれた秀頼の姫は城から出しませんでした。姫には秀頼の家督を冒すことができないからです。
しかし、母親であるはずの成田石の身近に育てられた痕跡もありません。
後に姫が入寺する東慶寺には、養母千との交流が伺える跡がいくつもありますが、逆に生母との交流を偲ばせるものは何一つありません。供養の跡もないのです。天秀尼となった姫の墓の側にあるのは、天秀尼に仕えた乳母の墓なのです。
生母との絆の薄さ、千との厚い遣り取りから、私はこの姫は生まれてすぐに千のもとで育てられたのではないかと考えています。
茶々は、千を秀頼の正妻として、女房衆に生まれた子どもたちの嫡母として、成り立たせようとしていたのだということが伺われます。
落城時も、千の退城とともに大坂を脱出したといい(『聞書雑和集』)、その後江のもとで保護されたといいます(『太閤素性記』)。千と天秀尼の養母娘関係は、天秀尼の東慶寺入寺にあたって結ばされたように書かれていますが、実際は幕府の承認を受けたのがそのタイミングだったのでしょう。

三男といわれる秀頼の子は落城時三歳だったということで、そのときどのような状況にあったかまでは記録がなく、ここではこれ以上のことを類推することはできません。
ただ、浅井家の万福丸の他の兄弟同様、長子である国松だけ命を採られて、次男は寺に入れられるというやり方を踏襲していると思います。

秀頼・千夫妻の成長を待ちわび、その間に嫡男を望んでいたことは庶子国松への対応から分かります。その子が生まれていれば、徳川家との交渉も変わっていたはずで、茶々が千の懐妊を阻む要素がないのです。
ではどこから「不自然」と思われる介入があったのか…そこまでは語らずに今回はこの話を終わりたいと思います。

○千の嫁入・和子の入内の時期

だいぶ話を膨らませ過ぎました。
千の婚礼が決まったタイミングは、家康の生前です。
本多忠政に嫁いでいた熊(父:家康の長男信康/母:織田信長の娘五徳)が家康の枕元で嫡子忠刻と千の縁談を願ったのが始まりだったようです。家康が亡くなったのが大坂落城の翌年ですから、早くから再縁話は決まっていたようです。
しかし、夫と死別した際、ある程度時間を置かなければ再縁できなかったようで(江が秀勝と死別した際も、三回忌を待って秀忠に再嫁しました)、実際に輿入れが行われたのは元和三年八月のことで、やはり秀頼の三回忌を待っての輿入れでした。

和子の入内に至っては、大坂落城前から本格的に動いており、正式に朝廷が入内の内旨を発したのが慶長十九年三月のことでした。流石にこれ以前からお后教育は始まっていたと思われますが。元和六年、入内のために上洛しましたが、此の時母代として阿茶局(家康の側室だったといわれる人。神尾氏従一位)がつき従います。この人は、秀忠の母代わりを務めていた女性で、おそらく都の知識も深かったのでしょう、その縁で和子の面倒をみるためにともに上洛したものと思われます。

ドラマ内では、大坂の陣が終わって、家康が亡くなって、いろいろバタバタと決まってしまったように見えましたが、どれもこれも、前々からの流れがあっての輿入れでした。

私は中盤が抜けているので、はじめて「和(まさ)」と読んでいるのを聞いて誰の事やら分かりませんでした(汗)
『幕府祚胤伝』では「諱名和子」「初松姫君」とありますので、松という名前だったのでしょう。
本名+子でとりあえずの諱とする場合もあるようですが、和子の場合これで通していたようなので、「和」が名前だったとは思えません。あるとしても、本名で公家読みはあまりしないので「かず」かなあと思います。
「和子」の読み方ですが、一般的に「まさこ」と読まれ、また「武徳大成記」ではそのまま「かずこ」と読み、「武徳編年集成」では「やわらけいこ」と読んでいるそうです。
「万天日録」の東福門院崩御の項では「数子」と書いているため、「かずこ」と読まれていたのかなあという気がしないでもないですが…(参考:『千の生涯』)

この間『養源院の華 東福門院和子』を読みましたが、やはり江が実母である説を私は棄てられませんでした。
蔵王大権現の伝承のみを真実として、養源院や徳勝寺や和子の女房に見える和子と浅井家の繋がりを無視するのは公平でないように感じたからです。
前書では「胡散臭い表現」といわれていましたが、
「御所第八の姫君生れ給う。御台所の御腹にて後に御入内あり。後水尾院の中宮にたたせ給ひしなり。世に伝ふるところ、此姫君生まれ給ひし時、江戸中に異香馥郁たりしといふ。医官今大路延寿院道三こたびの御三ことさら御なやみつよくわたらせ給いしを、よく治療し奉りたりとて剣製の短刀を給ふ」
確かに、江戸に妙香が漂って…は現実感のない表現ですが、これは和子の後の出世をにおわせるものであって、その他全てまで疑わしいとは思えません。江にとって高齢出産で会ったのは事実で、だからこその「御台様の御腹にて」というわざわざの確認でしょうし、難産で会ったのならば医者に褒美があったでしょう。
私はこの難産の記載を見て、江の子なのだなあと思いました。
実は、妙徳院が母でも三十五歳の高齢出産らしいのです。江の出産年齢が高すぎるという出発点だったとしたら、行きつく先も何も変わらない疑わしい着地点ということになります。
もちろん、江が亡くなった際の物忌は気になりますが、私にとってはそれが決定打にならないのです。記述がないということは、記述がある以上に決定打にはなりにくいですから。「見つからないだけかもしれない」「亡くなってしまったのかもしれない」という可能性が捨てきれません。

○初の乳母

御健在でしたね。
初の乳母は、おそらく生まれてから初も江も大蔵卿局が養育していたと思っているのですが(離れ離れになっていない限り)、やはり婚礼時には京極家の妻となるわけですから、相応の女性が乳母役として用意されたと思います。
ただ、此の人は長生きしなかったと思われます。
初の侍女として有名な女性たちの中で、筆頭侍女といわれる小少将は天正十七年、十三歳のころより初に仕えた女性だったそうです。彼女は初に代わって大坂城や江戸城など各地に使者として行き、その働きは茶々の大蔵卿局を彷彿とさせます。
若い侍女がこのような役割をしていたということは、おそらく初の乳母役として婚礼に従った女性は早くに亡くなっていたのでしょう。「うめ」さんのような女性はいなかったのだといわざるを得ません。
もしも長生きして活躍していたら、初の墓所を囲む中にお墓があったでしょう。

○三姉妹の物語?

「江紀行」で三姉妹の肖像画を出して、三姉妹の物語として締めた感がありましたが(そのうち二枚は怪しい肖像画ですし…)、それにしては姉妹の絆を示すエピソードをスルーしすぎです…もっと丁寧に三姉妹を描いてほしかったです。
特に、紀行に出てきた養源院のエピソード。反豊臣の時勢のなか、廃絶から守った江の活躍は、姉妹の絆の総集編を流すにふさわしいシーンだったと今でも思っています。紀行でお茶を濁されてしまって残念です。

ツイッターでも書いていたのですが、折角前半をあのようにぶっとんだキャラクターにしたのなら、後半も変わらぬキャラクターで物語の傍観者にならないでほしかったです。本当に、途中から三姉妹が主役のはずなのに、江をはじめ傍観者に回ってしまって…三姉妹が主役でなくてもいいや、という感じだったのが残念でなりません。

一話は、素敵な長政公で本当にワクワクしました。この調子で、三姉妹を描いて下さったらどんなに画期的な作品になるだろうと、それまでの不安が吹っ飛んで楽しみでいっぱいでした。
もう一度、秀吉の晩年辺りからでいいので、作り直してほしいです…
これで二度と大河という舞台で三姉妹が描かれる機会が無くなるなんて、残念すぎます。

茶々・初・江の三姉妹は、時代に翻弄されて、それぞれの居所は敵味方に別れてしまったけれど、そんな中でも絆が途切れることのなかった、とても素敵な姉妹です。
私が今年各所で使わせていただいた言葉…「戦でも絶たれることのなかった三姉妹の絆」、これを描いていただけると嬉しかったです。

| ∟江 姫たちの戦国 | 18:08 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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第四十五話「息子よ」【大河ドラマ感想】

江が駿府に行ったことには、本能寺へ向かったり小田原に行ったりしていた往時の江を思い出します。
劇中の江ならば、朝鮮出兵時の名護屋にも、大坂の陣のときの大坂にも来そうなキャラクターでしたが、個人的にもし江がいたらどうなっていただろう、と興味をひかれるところにだけは江は来ませんでした。ちょっと残念です。

○民部卿局

折角なので、民部卿局について。
福田千鶴先生が『江の生涯』で民部卿局と京殿は同一人物か?という可能性を提示されています。
『武功雑記』では秀忠の近くにいた女中として「御北殿、京殿、西殿、阿波殿、民部卿」…と、京殿と民部卿局が並行して登場します。
『武功雑記』は元禄九(1696)年成立だそうで、一次史料ではありませんので、これを以て断定はしかねますが。

江の乳母といわれますが、民部卿局に江の乳母と注記されている史料は一時史料でも編纂史料でも見たことがありません。
茶々の乳母が「大蔵卿局」、千の乳母が「刑部卿局」というので、そこから民部卿局は江の乳母では、という推測に留まります。
何度か書いていますが、乳母といっても、誕生時からの乳母というのではなく、婚礼に際し側近の女房として選ばれた女性であったのではと考えています。公家の女性で江に仕えた女性がいたようなので、民部卿局もそのような女性だったのかな、と想像しています。

○ごう

後日改めて書きますが、千や乳母の刑部卿局に縁の深い満徳寺の史料を見ていました。
過去帳に将軍家の女性の名前が多く見えるのですが、その中に秀忠生母がありました。
(十九日項)「宝台院殿松誉貞樹大禅定尼/天正十七己丑年五月/西江殿」
「西江殿」とかいて「さいごうどの(西郷殿)」と読ませていることに、特に関係はありませんが江を「ごう」と読むことを連想して面白く思いました。

個人的に、家康の「何代も続くであろう」というセリフは、いつもの預言めいたな台詞で、ちょっと興ざめでした。
それにしても江の娘たちの影が薄いです。折角姫視点なのに。年賀の席に、和子いましたっけ…?せめて初(常高院)がいるのだから、初(興安院)はちらちら登場すればいいのに…

明日最終回ですね。養源院…出てこないだろうなあ…
そして、感想記事に書くネタがあるかどうか…大問題です。

| ∟江 姫たちの戦国 | 23:43 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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第四十四話「江戸城騒乱」【大河ドラマ感想】

九話ぶりの感想です。久しぶりにオンタイムで見ました。
前回大坂の陣が終わったので、気楽に見ることができると…安心は気が早かったようですが。
我ながら茶々がメディアで扱われることに怯えすぎですね(苦笑)

○茶々から江への書状

現在、処分されてしまったのか茶々と初、江の間で交わされた書状はほとんど残っていません。
ただ、初の侍女小侍従は何度も三姉妹の間を往来していたといいますし、江が茶々の依頼を受けて家康に働きかける様子や、江の出産の報を受け取る茶々など、絶えず交流が続いていたことは間違いありません。
「茶々や千と心中するつもりであった」とも言われる初ですが、秀頼にそれを許されず、落城直前に家臣に担がれるようにして城を出ました。
千は退城の際、秀頼の直筆神号を胸に抱き、秀頼の陣羽織を送られ、それを抱いて脱出しました。
初もまた、姉の形見をいくつか持っていたのでしょう。江への手紙がその中にあったとしても、私は少しも不思議に思いません。

署名が「よと」でなく「ちや」だったのは良かったです。
しかし、あの内容はかなりいただけません。
おおむね「戦を招いた私が悪い」、「家康・秀忠はやるべきことをやっただけ」、「徳川を恨むな」というような内容だったかと思いますが、なんという都合のよい内容…茶々ファンから言わせていただければ「そんなばかな」って話です。
茶々は秀吉が亡くなってから十七年間戦を回避したんですよ?
冬の陣の講和をはじめ、茶々からすれば徳川方の対応に騙されたと思った部分もあったはずです。
茶々は茶々で、自分の信念があってあのような結果となったのだから、自分が悪いと言ってほしくなかったし、鐘銘事件や講和問題など、家康や秀忠の非道を責めるべきだったはずです。そのような状況でも、姉妹の仲が揺らぐことがなかったことが、三姉妹のすごいところなのに。
泣き所だったのかもしれませんが、テレビを前にポカンとしてしまいました…

○「元和」

ドラマ上でも、一般的にも「げんな」よ読まれていますが、先日とある史料(仮名文字の書状)を見ていた際、「げんわ」と書かれてあり、驚きました。
当時から「げんな」と読まれていたのでしょうか。たまたま、その書状だけが「げんわ」となっているのでしょうか。

○寿芳院

寧とともに、出家姿で登場した寿芳院こと京極龍。
しばらく見ていないのですが、「寿芳院」としては初登場だったのでしょうか?

一般的に、秀吉没後に出家したといわれますが、史料上では彼女は亡くなるまで「松丸殿」と呼ばれています。
出家だった、と書かれている史料を見たことがありません。

龍が出家していたとする根拠の最たるものは、肖像画だと思いますが、一体どの時点で出家したのかは全くもってわかりません。

寧は朝廷から院号を勅許されたこともあって、出家した後、寧は史料に「高台院」としてしばしば登場します(それでも「政所」として記録もされていますが)。
その点、史料上出家していたという記録がないことは、茶々と龍に共通しています。
ただ、茶々は出家姿の肖像画がないために、「出家しなかった」といわれています。

私は、茶々は秀吉の死後落飾していたのでは、と思っているのですが、龍と比較して見ても、やはりその思いを強くするばかりです。

○初と徳川

劇中では、大坂落城後、秀忠と対面した初は特に秀忠を責めることもありませんでした。

初が、落城まで大坂城に留まっていたことは徳川方にとって不都合なことであったようで、初が秀頼の命で城を出たあと、同行した者たちに、「我々が徳川から処罰されることを覚悟せよ」と言ったとあります。
初が落城直前まで大坂城にいたのは、他ならぬ茶々と秀頼の助命のためそのものであったということです。
初は出家の身とはいえ、京極家と縁が切れた訳ではありません。下手をすれば京極家に類が及びます。
徳川からすれば煙たいだけのそんな行動が全く罰せられなかったのは、これは江の意向(威光)があったのだろうと私は考えています。江の思いを背負って、初は茶々を救いにやってきていたわけです。

「凌霄開山和尚伝 附開基伝」によれば、大坂落城後、秀忠と家光を前に、初が「半ば恨み、半ば欣ぶ」と言ったとされています。まず姉や甥を奪われたこと、そして偽謀に自らを利用したことに対する恨みを訴え、そのあとに徳川家としてめでたいことですが、ということなのでしょう。まず恨みから述べているところに、強い意志を感じます。将軍、将軍世子を前に、姉を喪った悲しみを隠さなかった様子からは、権力者を向こうに回して一歩も引かぬ心の根の強さ、そしてなにより姉妹の絆の深さをとても感じられるエピソードでとても好きなのですが、ドラマでは残念ながら採用されませんでした。
特に初は秀頼の子国松との関わりも大きかったですから、国松を殺されたことにも人一倍思う所があったでしょう。
きっと彼女の仏堂では、父母、夫の位牌に続き、姉茶々と甥秀頼、甥の子国松の位牌を守るようになったのではないでしょうか。
劇中では江ばかりが茶々の死をおおっぴらに嘆き悲しみ、初の悲しみはあまり描かれませんでしたが、実際は最期まで茶々の側にいた初のほうがきっと「姉を失った」という実感が大きかったのではないかと思います。
江は、海津局や天秀尼など縁の人々の身柄を引き受けたり、初や千、海津局たちと話したり、姉が遺した養源院を守るうちにしみじみと悲しみを感じたのではないでしょうか。

○千と徳川

大坂落城後、千が家康や秀忠にどのような感情を持っていたか、知るすべは少ないです。
家康から千の侍女松坂局(「ちよぼ」)に宛てた文によれば、千は関東に帰った後しばらく伏せっていたらしいことが分かります。
大坂落城直後の慶長二十年五月の末、千が京都見物をしたという史料があります。これは、徳川が豊臣から千を取り返したことを京の人々に知らしめるパフォーマンスという面が多分にあったようです。実際、著名な寺院を参拝している中で、豊国神社へは「忌中」として参拝を許されませんでした。また、江戸へ帰った後に伏せっている様子から、千本人としては、とても見物気分ではなかったのでしょう。

とはいえ、家康が千を案じていたことは事実のようで、家康は大坂落城後から死去まで松坂局宛に少なくとも三度千の様子を案じる音信を発しています。宛先が乳母の刑部卿局などではなくまだ若い松坂局であったのは、彼女が特に家康との縁が強かったからでしょうか。また、元和二年には千方(おそらく松坂局)から家康へ千の様子を知らせる返信が送られたようです。家康の死去までには、千の心境もだいぶ落ち着いた様子が見受けられます。

また、秀忠に対する千の感情は、家康に対するものより更に知るすべがないのですが、後年、書状のやりとりがされている様子から、少なくともその頃には普通の親子並の交流があったようです。
そのほか、晩年になりますが、千が自らの法名選定の際、徳川を守るという意味を込めてほしい、と願ったという逸話があります。秀忠の嫡女として、千は徳川家に大きな影響力があったようですし、秀頼たちの犠牲の上に成り立つ徳川を、もしくは犠牲の上に成り立つからこそでしょうか、晩年は大切に思っていたようです。

本音は当人に聞いてみないと分かりませんが、少なくともドラマほど「父秀忠、許すまじ」という感じではなかったのだろうと思います。

○以下、ただの感想

この辺はただの愚痴などです。
江に「武家のならい」を説きながら、自分は豊臣に憎しを全開させるとかどんな矛盾ですか!
噂通り、大河ドラマの福はひどいキャラですね。江が頬を張ってくれて正直清々しました。よくやってくれた、江。

駿府行きだって、まず主の了解なく持ち場を離れることだけでも大問題で、それが駿府までいってしまったというのだから、本来なら罰せられてもおかしくないはず。
江戸城をこっそり抜け出して駿府城へ行くのは、確か一般的に福にとっては命がけの行動として描かれるような相当危険な行為だと思うのですが、まるでおとなりのご隠居に訴えに行ったような感じしかしませんでした。
家康も特に怒りませんでしたね。他の作品ではとりあえず福の身勝手を怒るはずなんですが。

なんだか、もう豊臣のことはおしまい!で、全く茶々が出てこない予感が…(幽霊で出られても困るけど…)
折角なので、豊臣の痕跡を消そうとする中で、江が必死に養源院を守るエピソードが見たかったのですが…無理かなあ。

国松も、あっさり死んでしまうのではなくて、龍が刑場から国松の遺骸を引き取る様子を描いてほしかった。とてもいいシーンになると思うのですが。
天秀尼も千とともに逃げる描写がなかったということは、江が身柄を預かるのもスルーかな…残念。
相変わらずせっかく江や三姉妹を描いているのに、魅力的な素材を取りこぼしまくりです…

あと二回ですか…茶々が関わらなければ気楽に見れるので、これはオンタイムで見届けたいと思います。
逆に茶々が関わっている部分(感想記事が抜けている部分)は私の言いたいことがいっぱいあるので、ゆっくり埋めていきます。

| ∟江 姫たちの戦国 | 23:07 | comments:15 | trackbacks:0 | TOP↑

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第三十五話「幻の関ヶ原」【大河ドラマ感想】

茶々姫をたどる汐路にて

前回の記事虚しく、普通~に大蔵卿局(劇中では「サキ」)が活躍していましたね…だいぶがっかりしました。この頃の大蔵卿局については、前回の記事で書いてしまいましたので、よろしかったらご参照ください。
→*第三十四話「姫の十字架」【大河ドラマ感想】(20110921)

小山評定で流れを決定づけたのが福島正則ではなく細川忠興だったこととか、真田幸村は「幸村」でいくのか~とかいろいろ細かいことはありますがとりあえずその辺は不得意分野なので横に置いておいて…

○大津城攻防戦講話交渉

秀吉の生前から豊臣家で大きな力を持っていた侍女孝蔵主は講和のために二度大津城を訪れており、二度目には茶々の使者として大蔵卿局ではなく饗庭局(「あいばどの」)、もしくは海津局(「京極御系図」、「大津籠城合戦記」)、海津尼(『譜牒余録』、『寛政重修諸家譜』)という侍女が大津城に遣わされています。

京極家の史料ではこの孝蔵主を茶々の使者としていますが、孝蔵主は寧に近似していた女性で、『筑紫古文書』(筑紫家)や『関ヶ原陣輯録』(毛利家)など、京極家以外の家ではきちんと寧の使者と記録しているようです。
この辺りに詳しい跡部信先生は、講和交渉が寧と茶々の連携で行われたものであれば、茶々の意志であるという面もあったのではないかと仰っておられます。そうであれば、当時のきわどい情勢下で不用意に動けなかったために一度目は直接自らの侍女を赴かせることができなかったのかもしれません。
とはいえ、孝蔵主が動いたこの一件に茶々の意志だけに注目して、寧の意志を無視することはできません。

ここでは何度も記事に書いているので、今更な感じもしますが、大蔵卿局に代わり、使者として茶々から派遣された饗庭局は浅井宗家の血をひく女性です。海津局はその姉を指し、海津尼はおそらく二人の母を指すと思われます。
ただこの辺り、伝わる系譜では年代的に矛盾がありどこか一代抜けていると私は考えているのですが(鶴千代――海津殿――海津局・饗庭局のような気もしています)、この一家から使者が選ばれたことは間違いないと思われます。大蔵卿局が動けない中、あえて彼女たちの中から使者が選ばれたのはやはり血縁を重んじて講和を進めようとした面があったのでしょう。

この一家に関しては別記事で詳しく考察記事を書いております。
→*浅井鶴千代~三好直政の謎

○初・龍(龍子)の働き

最後の江紀行で、『凌霄開山和尚伝 附開基伝』に水くみや炊き出しを行っていたという記述がある旨の紹介がありました。他に、『渓心院文』では城内では初が主導して女中たちとともに日夜玉を鋳させていたという記述もあります。また、『磯曳網』という史料には矢や弾丸が袖にあたっても驚かず侍女たちとともに水くみや炊き出しにあたったという一節があるそうです。
劇中で初は鎧姿でしたが、これは大坂の陣で茶々が鎧姿だったという記録を参考にしているのでしょうか。

「大津籠城合戦記」によると、このとき龍(「松ノ丸殿」)をはじめとして、高次の母マリア(「宰相殿御母堂」/後の泉源寺殿、養福院)、初(「奥方」)、高知の妻(「修理殿奥方」)が城内にいたとあります(「譜牒余録」にも同内容の記述があるようです)。
また、孝蔵主の遣わされた先は初その人であったといいます。
初は孝蔵主に会い、自分も龍も高次が越前で翻り大津に帰ってから対面していないため高次の思いは分かりかねること、そして高次に直接会って事の次第を伝えるように孝蔵主に伝えます。しかし高次は孝蔵主には会わず、交渉が一端暗礁に乗り上げたようです。
そうこうしているうちに龍の女中二人に砲撃が直撃して亡くなり、龍は何とか和議を受け入れるように高次に願い出たといいます。
龍が高次の頑なな気持ちを説得したということは、寧・茶々・龍の三人で講和に至らしめたと言ってもいいように思います。

鎧と言えば、劇中では小袖打掛姿でしたが、龍のものと伝わる具足が伝わっています。武田元明の娘を出産した家に伝わるものだそうです。元明の妻だった頃これを着用したものと思われますが、この後京極家は若狭へ転封となります。もしかすると大津城攻防戦でもこれを身につけ、転封の後、お世話になったこの家へ鎧が伝わったのかもしれませんね。

龍の侍女が死傷し、本人が気絶したシーンがありましたが、先ほどの「大津籠城合戦記」だけでなく、「立花事実記」に龍(「松丸殿」)の女中が二人微塵になり、龍が気絶したという記述があるようです。
この件に関しては、大坂夏の陣で茶々の侍女が大砲に直撃し死傷したという逸話ととても似ており、逸話の混同を気にしているところですが、龍に関しては京極家の史料、立花家の史料と複数あるようです。

○寧・龍の出家

孝蔵主派遣のシーンで登場していましたが、もはや出家していて高台院を名乗っており、びっくりしました。
朝廷より高台院の院号を下賜されるのはこれより三年後、慶長八(1603)年十月三日のことになります。それまでは豊国神社への参拝は続けているものの、「北政所」、「政所」以外の呼称が見当たらないことや、他に出家している形跡が見えないので、おそらく出家も院号勅許の前後ではないでしょうか。
最近は寧の京都転居よりもこの出家の時期が注目されつつあります。

龍も落飾後の肖像画が残っていますが、いつ頃落飾したのか記されていません。龍は死去の記録最後まで院号の「寿芳院」ではなく「松丸殿」の呼称で呼ばれ続けています。茶々の出家もしくは落飾の有無も含めて、彼女たちの去就は謎の一つです。

○熊麿=忠高

そういえばこの頃、京極家では高次の子熊麿(生母は妾山田崎)を大坂に人質として送っているのですが、出てきませんね。東軍に翻った後、熊麿はどうやって助かったのでしょうか。その辺も磯野家の功績と関係があるのでしょうか。


大津城講和については、跡部信先生の「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』第34号)、もしくは「高台院と淀殿」(学研『図説戦国女性と暮らし』)をご覧になることをしつこくお勧めいたします。

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