無事?終わりました。
一瞬で五年くらい進む場面もありましたが、ついていけなかった方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。
とりあえず、私は最終回のテロップで「淀」ではなく「茶々」だったのは嬉しかったです。
「淀」の場面もありましたが、三姉妹を描いた作品ではあくまで「茶々」であってほしかったので。
でも、普通に江が佐治一成にあったのにはびっくりしました。福が林羅山にあったのにもびっくりしたけれど…
いくらなんでも、当時の決まりでも、奥御殿では主(秀忠)がいなければ10歳以上の男子禁制のはずです。
○龍の江戸下向龍が元和年間に江戸下向したという史料はありませんが、おそらく寛永年間に家光に年頭の祝儀を贈ったという一件をもとにしているのかなあと思いますが、偶然にも最近これは龍の事蹟ではなく、初の事蹟であることを言及しました。
「松の丸京極龍の晩年と誓願寺」(2011/11/25)>「龍の晩年の活躍」をご参照ください。
龍は最後まで江戸に下ることなく、後家として西洞院の屋敷でひっそりと晩年を送っていたものと思われます。
神龍院でひっそりまつられ続けている豊国大明神に参拝したり、自身の再興した誓願寺に足を運んだり、時には寧のもとに足を運ぶことはあったと思います。
龍は、なんといっても秀吉の後家。豊臣の関係者ですから、易々と身軽に江戸に下ることは出来なかったししなかったと思います。
○茶々が待ちわびていた秀頼の成人と千の懐妊夫秀頼には、女房腹に二男一女の子がいます。
一方、千にも後夫本多忠刻との間に一男一女を儲け、他にも育たず亡くなってしまった子がいたといいます。
秀頼と千の間に子が出来なかったのは、二人の体質に問題があったようではなさそうです。
このことは昔から言われていて、だからこそ大坂城で茶々が千を秀頼から遠ざけたのだと謂れのない中傷をいくつも見てきました。
確かに、秀頼と千の子がいないことには、相性という問題もありますが、なんらかの不自然さを感じないわけではありません。ですが、私は茶々の研究者ですから、いわれなき批難を受けている茶々の側から弁護をしようと思います。
まず、茶々は秀頼を関白にするために、秀吉が遺した遺言、遺産や威光を有効活用して、当代一流の教師・教材を揃え、文武両道に育てていました。秀吉が遺した「秀頼を十五になるまでは大坂城から出してはならぬ」は、秀頼の周りにとっては、十五になれば成人なのだという覚悟を持たせた結果になったっと思われます。
秀頼が十一で千を迎える時には、待ちに待った秀頼成人の第一歩として大いに祝われ、その証として福島正則が秀頼に誓詞を出したという噂が立ったほどでした。
豊臣家にとって、それが徳川家康の孫であれ、秀頼がとうとう妻を迎える年齢になったということが大変に喜ばしかったのです。
ましてや、徳川と豊臣の間を気遣った江の肝いりで茶々のもとに送られてきた千。江もまた、豊臣から徳川へ縁を結ぶために嫁いだ身、茶々に江が豊臣と徳川を思う気持ちが分からないはずがありません。
そうした輿入れしてきた千は、若干七歳から十九歳で落城するまで…現在ならばまさに学生として様々な素養を学ぶ時期に、教育を受けた場所が大坂城でした。そしてその教育の全責任を負っていたのが茶々でした。
諸家から秀頼に対する贈答の席では、千に必ず同席をさせ、秀頼、秀頼の母茶々とともに、秀頼の妻として贈答の面倒を見て、礼儀作法を教えています。時には茶々が公家に口を聞いて、千の名で連歌会を催すということもありました。茶々の側近大蔵卿局を使って、千の取り次ぎをさせるなど、かなり厚く世話をしている様子が見えます。
茶々が千に気を配っていたのは、徳川家の娘という点ではなく、なにより秀頼の妻、将来の関白の妻として相応しいようにと教育を怠らなかったのです。
茶々の中には、秀頼はもちろん関白に相応しい男になってもらわなければ困る。千は、関白秀頼を支えるのだから、公家とのやりとりは必須。将来は寧(高台院)のようになってもらわなければ困る。そして、秀頼を継ぐ者は、二人の血を引いて、まだ豊臣家の中でしっかりと教育を受けさせなければならぬ。子女の教育を重んじる茶々にとって、それが茶々の信念だったのではないでしょうか。
秀頼が石という女房との間に長子国松を儲けたのは、千が成人する前のことです。茶々はこの子を秀頼の後継ぎではなく庶子として、大坂城から出してしまいます。国松にとっては、大坂城で育ったほうが良かったのか、出自を秘されてのびのびと、しかし大事に育てられたほうが良かったのかは分かりません。茶々は、国松を大坂から出す際、側近大蔵卿局縁の聡明な女性を乳母として国松につけました。これは国松に対する罪滅ぼしだったのかもしれません。
それでも、国松を秀頼の嫡子として迎える訳にはいかなかったのです。
それについては、徳川家への配慮といわれていますが、徳川家に対し、譲れぬところはきっぱりと拒否する茶々にしては、殊勝な態度すぎると思います。
国松を秀頼のこと認知しなかったのは、秀頼の嫡子は千が産んでもらわなければ困ると考えていたと私は思っています。千への教育はそのためのものでもあり、秀頼の血が子々孫々続いて栄えていくためには、生母の血、生母の実家の力もまた大切なのです。
もし、茶々が秀頼の子という存在に千の血が必要ないと思っていたのならば、国松はひっそりと城内で育てさせていたでしょう。秀頼の嫡男です。教育を重んじる茶々としては、秀頼に施した教育と同等のものを与えて、公家社会で遜色のない若君にしなければいけません。
それでも茶々は国松を大坂城から出しました。それはとりもなおさず、千が嫡男を生むことを待っていたからです。
このようなときばかり「徳川に憚って」といわれますが、そうではないでしょう。秀頼ほどの地位の男ならば、お手付きの女房衆の一人や二人いてもおかしくありません。
実際、年後で生まれた秀頼の姫は城から出しませんでした。姫には秀頼の家督を冒すことができないからです。
しかし、母親であるはずの成田石の身近に育てられた痕跡もありません。
後に姫が入寺する東慶寺には、養母千との交流が伺える跡がいくつもありますが、逆に生母との交流を偲ばせるものは何一つありません。供養の跡もないのです。天秀尼となった姫の墓の側にあるのは、天秀尼に仕えた乳母の墓なのです。
生母との絆の薄さ、千との厚い遣り取りから、私はこの姫は生まれてすぐに千のもとで育てられたのではないかと考えています。
茶々は、千を秀頼の正妻として、女房衆に生まれた子どもたちの嫡母として、成り立たせようとしていたのだということが伺われます。
落城時も、千の退城とともに大坂を脱出したといい(『聞書雑和集』)、その後江のもとで保護されたといいます(『太閤素性記』)。千と天秀尼の養母娘関係は、天秀尼の東慶寺入寺にあたって結ばされたように書かれていますが、実際は幕府の承認を受けたのがそのタイミングだったのでしょう。
三男といわれる秀頼の子は落城時三歳だったということで、そのときどのような状況にあったかまでは記録がなく、ここではこれ以上のことを類推することはできません。
ただ、浅井家の万福丸の他の兄弟同様、長子である国松だけ命を採られて、次男は寺に入れられるというやり方を踏襲していると思います。
秀頼・千夫妻の成長を待ちわび、その間に嫡男を望んでいたことは庶子国松への対応から分かります。その子が生まれていれば、徳川家との交渉も変わっていたはずで、茶々が千の懐妊を阻む要素がないのです。
ではどこから「不自然」と思われる介入があったのか…そこまでは語らずに今回はこの話を終わりたいと思います。
○千の嫁入・和子の入内の時期だいぶ話を膨らませ過ぎました。
千の婚礼が決まったタイミングは、家康の生前です。
本多忠政に嫁いでいた熊(父:家康の長男信康/母:織田信長の娘五徳)が家康の枕元で嫡子忠刻と千の縁談を願ったのが始まりだったようです。家康が亡くなったのが大坂落城の翌年ですから、早くから再縁話は決まっていたようです。
しかし、夫と死別した際、ある程度時間を置かなければ再縁できなかったようで(江が秀勝と死別した際も、三回忌を待って秀忠に再嫁しました)、実際に輿入れが行われたのは元和三年八月のことで、やはり秀頼の三回忌を待っての輿入れでした。
和子の入内に至っては、大坂落城前から本格的に動いており、正式に朝廷が入内の内旨を発したのが慶長十九年三月のことでした。流石にこれ以前からお后教育は始まっていたと思われますが。元和六年、入内のために上洛しましたが、此の時母代として阿茶局(家康の側室だったといわれる人。神尾氏従一位)がつき従います。この人は、秀忠の母代わりを務めていた女性で、おそらく都の知識も深かったのでしょう、その縁で和子の面倒をみるためにともに上洛したものと思われます。
ドラマ内では、大坂の陣が終わって、家康が亡くなって、いろいろバタバタと決まってしまったように見えましたが、どれもこれも、前々からの流れがあっての輿入れでした。
私は中盤が抜けているので、はじめて「和(まさ)」と読んでいるのを聞いて誰の事やら分かりませんでした(汗)
『幕府祚胤伝』では「諱名和子」「初松姫君」とありますので、松という名前だったのでしょう。
本名+子でとりあえずの諱とする場合もあるようですが、和子の場合これで通していたようなので、「和」が名前だったとは思えません。あるとしても、本名で公家読みはあまりしないので「かず」かなあと思います。
「和子」の読み方ですが、一般的に「まさこ」と読まれ、また「武徳大成記」ではそのまま「かずこ」と読み、「武徳編年集成」では「やわらけいこ」と読んでいるそうです。
「万天日録」の東福門院崩御の項では「数子」と書いているため、「かずこ」と読まれていたのかなあという気がしないでもないですが…(参考:『千の生涯』)
この間『養源院の華 東福門院和子』を読みましたが、やはり江が実母である説を私は棄てられませんでした。
蔵王大権現の伝承のみを真実として、養源院や徳勝寺や和子の女房に見える和子と浅井家の繋がりを無視するのは公平でないように感じたからです。
前書では「胡散臭い表現」といわれていましたが、
「御所第八の姫君生れ給う。御台所の御腹にて後に御入内あり。後水尾院の中宮にたたせ給ひしなり。世に伝ふるところ、此姫君生まれ給ひし時、江戸中に異香馥郁たりしといふ。医官今大路延寿院道三こたびの御三ことさら御なやみつよくわたらせ給いしを、よく治療し奉りたりとて剣製の短刀を給ふ」
確かに、江戸に妙香が漂って…は現実感のない表現ですが、これは和子の後の出世をにおわせるものであって、その他全てまで疑わしいとは思えません。江にとって高齢出産で会ったのは事実で、だからこその「御台様の御腹にて」というわざわざの確認でしょうし、難産で会ったのならば医者に褒美があったでしょう。
私はこの難産の記載を見て、江の子なのだなあと思いました。
実は、妙徳院が母でも三十五歳の高齢出産らしいのです。江の出産年齢が高すぎるという出発点だったとしたら、行きつく先も何も変わらない疑わしい着地点ということになります。
もちろん、江が亡くなった際の物忌は気になりますが、私にとってはそれが決定打にならないのです。記述がないということは、記述がある以上に決定打にはなりにくいですから。「見つからないだけかもしれない」「亡くなってしまったのかもしれない」という可能性が捨てきれません。
○初の乳母御健在でしたね。
初の乳母は、おそらく生まれてから初も江も大蔵卿局が養育していたと思っているのですが(離れ離れになっていない限り)、やはり婚礼時には京極家の妻となるわけですから、相応の女性が乳母役として用意されたと思います。
ただ、此の人は長生きしなかったと思われます。
初の侍女として有名な女性たちの中で、筆頭侍女といわれる小少将は天正十七年、十三歳のころより初に仕えた女性だったそうです。彼女は初に代わって大坂城や江戸城など各地に使者として行き、その働きは茶々の大蔵卿局を彷彿とさせます。
若い侍女がこのような役割をしていたということは、おそらく初の乳母役として婚礼に従った女性は早くに亡くなっていたのでしょう。「うめ」さんのような女性はいなかったのだといわざるを得ません。
もしも長生きして活躍していたら、初の墓所を囲む中にお墓があったでしょう。
○三姉妹の物語?「江紀行」で三姉妹の肖像画を出して、三姉妹の物語として締めた感がありましたが(そのうち二枚は怪しい肖像画ですし…)、それにしては姉妹の絆を示すエピソードをスルーしすぎです…もっと丁寧に三姉妹を描いてほしかったです。
特に、紀行に出てきた養源院のエピソード。反豊臣の時勢のなか、廃絶から守った江の活躍は、姉妹の絆の総集編を流すにふさわしいシーンだったと今でも思っています。紀行でお茶を濁されてしまって残念です。
ツイッターでも書いていたのですが、折角前半をあのようにぶっとんだキャラクターにしたのなら、後半も変わらぬキャラクターで物語の傍観者にならないでほしかったです。本当に、途中から三姉妹が主役のはずなのに、江をはじめ傍観者に回ってしまって…三姉妹が主役でなくてもいいや、という感じだったのが残念でなりません。
一話は、素敵な長政公で本当にワクワクしました。この調子で、三姉妹を描いて下さったらどんなに画期的な作品になるだろうと、それまでの不安が吹っ飛んで楽しみでいっぱいでした。
もう一度、秀吉の晩年辺りからでいいので、作り直してほしいです…
これで二度と大河という舞台で三姉妹が描かれる機会が無くなるなんて、残念すぎます。
茶々・初・江の三姉妹は、時代に翻弄されて、それぞれの居所は敵味方に別れてしまったけれど、そんな中でも絆が途切れることのなかった、とても素敵な姉妹です。
私が今年各所で使わせていただいた言葉…「戦でも絶たれることのなかった三姉妹の絆」、これを描いていただけると嬉しかったです。