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「豊臣家中からみた大坂の陣ー大坂落人浅井一政の戦功覚書を題材として」

堀氏の論文を読んだ。とかく気になったのは、茶々が女だてらに秀頼を差し置いて云々という視点。そもそも秀頼と茶々が一枚岩ではなかったというのは昨今各氏の論じられている通り。どちらが悪でどちらが善はない。 kyoritsu.repo.nii.ac.jp/index.php?acti…


posted at 00:49:20


一政自記だけでは、とても茶々が且元へ送った書状、それが片桐家に伝わったことなどとしっくりピースがかみあわないところもあるよね twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 00:52:34


個人的に気になるのは、一時期茶々が世代交代をしようとしていた形跡が見えるのに、この時期一政の目に明らかなくらい主導権を握ろうとしている?と思われるような描写が増えるところ。秀頼と一枚岩ではなかったことも原因なのかな… twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 01:07:33


あとは、徳川方でもそうであったように、秀頼は戦を知らない世代であるため、親の代である自分が舵を取らなければと思ったのだろうか twitter.com/itoko_akaishi/…


posted at 01:09:38


まあ、なんせ一政自記に記された茶々の行動に対して、「過干渉」と安易に評価されていたのが個人的にひっかかりまくったというお話でした


posted at 01:11:48

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『春日局』

福田先生の『春日局』通読中。 p103、海津局の没日は明暦元年十二月二十日。 chachahimeblog.blog.fc2.com/blog-entry-101…


posted at 21:45:56


家光と江、浅井家につながる事項はどうなるのかとか 正直決定打には至らず


posted at 22:45:23


〔離縁後の出生児〕

稲葉正利を産まれたのが斎藤福が夫との離縁したあとなので、彼の生母は斎藤福でありえないということだが、例えば細川忠隆と前田千世は、離縁後も何人も子どもを授かっている例もあり。一般的でないといえどそういう例もある以上、離縁=ありえないと断定するのはどうなんだろう。


posted at 00:15:44


(フォロワーさんより千世の再婚時期について細川家と村井家の史料で時期のずれがある旨ご教示いただく)

@noimago そこも諸説あるんですね。村井方が慶長十年、細川方がもっと後ということですか。勉強になります。忠隆の子孫が前田家に縁を求めたのか、離縁の頃から再婚の時期を求めたのか気になります。


posted at 00:33:35


@noimago もし細川方が離縁を知りながらそのような史料を残したのなら、母が千世であろうとなかろうと、そういう事例が当時あったのだなの伺えるのですが。


posted at 00:33:55


(さらに、詳細をまとめられた下記サイトを教えていただく)
http://www.shinshindoh.com/naizen-1.htm
http://www.shinshindoh.com/naizen-2-2.htm

@noimago お手数おかけします。 戦災で焼失した数百通のまつ書状が大変惜しまれます。


posted at 00:55:32


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『真田より活躍した男 毛利勝永』

真田より活躍した男 毛利勝永


〇大野家
大野治長・治房兄弟は毛利勝永と家老の宮田甚之丞とも従弟である(『南路志』)

大野・宮田・毛利(森)の三氏が葉栗郡に所縁があることを解説。

(略)高澤(等)氏は戦国初頭に(森氏が)美濃から移ってきたのではないかと推測されている。
 同(葉栗)郡内に宮田の地名があり、勝永の家老にして従兄弟宮田陣之丞の故地と考えられる。宮田氏は太子山上宮寺住職の分家であるという(『尾張群書系図部集』)。また同郡上門間庄大野郷は、大野氏発祥の地と考えられる。


宮田・毛利両氏は大野兄弟にとって父方の従弟のようですね。

同書では毛利勝永(吉政)の父吉成(勝信?)の妻が大野氏か宮田氏かとされています。
①大野氏であれば、吉成の妻及び宮田陣之丞の母は大野佐渡守の姉妹?
②宮田氏であれば、大野佐渡守の妻大蔵卿局が宮田氏の出?

青柳の存在が裏付けできれば、①?もしくは青柳の母が大蔵卿局の姉妹?という感じですね。


〇勝永の妻 「土佐御前」龍造寺安


龍造寺政家が九州仕置の後記楽する際に娘(「嫡女」〔龍造寺家々譜書抜〕)を人質として送った。「やす御りうにんさま」(『日峰様咄之書(茂宅聞書)』/『佐賀県近世史料』第八編第二巻内)

安の紹介の後にこんな逸話が…
 龍造寺政家はその息女安姫を秀吉へ証人として差し出したが、美麗の評判が高かったため、上方にあっては淀殿の妬みを買った。そこで、秀吉は淀殿の嫉視を避けるため、毛利豊前守勝永に安姫を娶せたという。
 間もなく、大陸出兵がはじまると、勝永も朝鮮に在陣するようになり、安姫は九州へ下向して、小倉の城下に居住するようになった。美しい安姫のことが忘れられない秀吉は、名護屋との往復の折、船を寄せて小倉に入った。しかし、安姫は勝永への貞操を守って、秀吉のもとへ伺候しようとはしなかった。秀吉は、さては実父政家の指図かと勘繰った。加えて、病弱でもあった政家は、先の肥後一揆の際に出兵しなかったため、秀吉の不興を買っていた。秀吉は、ついに政家に強いて龍造寺いの家督を息子藤八郎(高房)に譲らせてしまったという。

逸話を紹介された後に、「秀吉が諸大名の妻妾に懸想したという話はいくつも伝わっており、一々信ずるに足りない。」と一刀両断されています。
例の蒲生家の冬姫の話といい、まったくその通り。よくぞおっしゃっていただきました。
それにしても、毎回こういう話に出されるのは茶々なのが恣意的で嫌ですね。この話の出店はどの史料でしょうか?
九州平定は天正十五年まで、同書によると安は天正十八年の二月には佐賀に帰っているといいますから、そのころの茶々の権力が安をどうこうできたというのは現実的な話ではないです。

慶長十五年五月二十五日没。「土佐の御料人」、「土佐の御前」〔葉隠〕

没年から大坂の陣において妻に励まされる有名な逸話の妻は、真偽も定かではないが、少なくともこの女性ではなかったらしい。
大坂の陣で土佐に残された妻は後に家康の側室夏の女中に取り立てられたらしい(『南路志』)

〇二条城会見

勝永は土佐に配流後も豊臣の情報を得ていたという話。
大野治長が書状で二条城会見について勝永に宛てた書状の写しが『大阪城の七将星』にあるという。
使者に立った「窪田甚三郎」(宮田甚之丞か)と勝永、治長は従兄弟の間柄というから、治長が勝永につながりを持つのは不自然なことではないように感じます。
この時点で勝永が上方へ赴く意思を示していたのを、治長が「此方御上りの事、御無用」と止めたらしい。

〇宮田甚之丞

大坂の陣において勝永とともに大坂に入ったが、七日に城を出たらしい
(「新参ニ籠、七日ニ城ヲ出ル者/毛利豊前家老後松平伊豆守(松平信綱?)召抱 宮田甚之丞」)
甚之丞は勝永から形見を託されたらしく、真田丸展で展示された陣羽織などはその時持ち出されたもののようです。

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後藤味噌

小嶋太門『後藤又兵衛の研究 最後の戦国武将とその系譜』

後藤又兵衛についての逸話が紹介されている中で、茶々姫にまつわる箇所。


 大坂城に入城した時、又兵衛の従者は九人で馬匹一頭であった。秀頼は非常に悦んで迎え総軍都督、二の丸目付という重要な役目につけ、白銀五百枚、三千人扶持を差し上げようとの言葉があったが、どうしても禄を受けようとしなかった。そこで淀君の方(※ママ)から小袖一重、錦直垂、夜具布団一具を送り届けてきた。それに対して彼はこういう返事をしている。
「錦の直垂だけは大将分の装束ですから頂戴いたします。その他の品物は間に合っています。軍中では余計にモノを蓄えるということは無益です。それがしの召使の者には未だ褒美を与えるほどの手柄者もおりません。」
 彼の陣所には寒中に屏風一つなく、朝夕の食膳も足軽小者達と一緒だった。それを聞いた淀君と秀頼夫人(千姫)は何としても又兵衛を慰めたいものと、再び使者に目録を持たして陣所にやった。屏風大小二双、燭台大小二対、硯箱一組、定器椀膳一具、湯桶、食籠、料理鍋二つ、というように品物は数十点にも及んでいた。
 又兵衛は吃驚して、それらの品物を辞退してしまった。欲しい品物に印をつけたのはわずか燭台二対、蝋燭十斤、敷皮の代わりとして毛
氈一枚、屏風の代わりとして幕一張、包丁、鍋などで、かえって少しばかりだが、と自分でこしらえた味噌を淀君に献上した。
 世に後藤味噌と呼ばれているのは、この時の又兵衛手作りの味噌のことであるという。

大坂の陣を目の前にして、秀頼の母である茶々や、妻である千が豊臣方として入城した浪人の生活に気を配って世話をしている話が伝わっているのが面白いなあと思いました。しかも茶々と千が一緒に贈り物をしているところが個人的にうれしかったです。
茶々は浪人たちを軽挙無頼を恐れていたとも言われますが、こういう一面もあったのでは?と思わせる逸話でとっても心に残りました。

そして、又兵衛から味噌が届いた時の茶々の反応がすごく気になります^^

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「大阪冬の陣より四百年」

長浜時代からお世話になっている香水敏夫先生から井上安代先生の著作一式(『豊臣秀頼』、『豊臣秀頼(補遺二・千姫)』、『豊臣秀頼年譜補遺』、『豊臣秀頼年譜追加・修正條項』、『千姫』、)を頂戴しました。

これまで国会図書館などで必要なところだけ細々と複写して拝読していましたが、古書でもそう簡単に手に入らない貴重な書籍なので、ものすごく感激しています。

井上先生のお手紙によると、今年が大坂冬の陣より四百年ということで、残部を恵贈されたなかの一冊が加水先生を通じて私のもとに届いたようです。

面識は全くありませんが、秀頼に対する情熱をかねてからとても尊敬している先生だったので、わたしも頑張らなければと思いを強くさせていただきました。

茶々姫と長浜が結んだご縁に改めて感謝です。

| ∟書籍・論文・記事 | 13:06 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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