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編年史料 目次

慶長五(1600)年
慶長六(1601)年
慶長七(1602)年
慶長八(1603)年
慶長九(1604)年
慶長十(1605)年
慶長十一(1606)年
慶長十二(1607)年
慶長十三(1608)年
慶長十四(1609)年
慶長十五(1610)年
慶長十六(1611)年
慶長十七(1612)年
慶長十八(1613)年
慶長十九(1614)年
慶長二十・元和元(1615)年

元和二(1616)年
元和三(1617)年
元和四(1618)年
元和五(1619)年
元和六(1620)年
元和七(1621)年
元和八(1622)年
元和九(1623)年
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寛永三(1626)年
寛永四(1627)年
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寛永七(1630)年
寛永八(1631)年
寛永九(1632)年
寛永十三(1636)年
寛永十六(1639)年
寛永十九(1642)年
正保三(1646)年
正保四(1647)年
慶安四(1651)年
明暦四・万治元(1658)年
寛文五(1665)年
寛文六(1666)年
寛文九(1669)年
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1601/慶長六年

慶長六(1601)年
※ []内は茶々姫の居場所

正月[大坂城本丸奥御殿]


一日
大坂城にてこの日秀頼へ諸大名による年始の礼が行われる。最初の挨拶は徳川秀忠(「江戸中納言」)が務める。上洛しない大名が例年になく多かったという。〔義演准后日記(同月五日条)〕

四日(天晴/立春)
秀頼(「秀頼様」)、豊国社へ名代として羽柴秀俊(小早川秀秋/「羽柴侍従」)を遣わし、百貫を奉幣、神人らに進物する。 茶々姫(「秀頼御母」)、金子一枚を奉納する。
またこの日、寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、百五十を奉納する。〔舜旧記〕

九日(雨)
義演、秀頼と茶々姫(「御袋」)へ年始の進物と祈祷巻数を贈る。〔義演准后日記(同月八日条)〕

十日(大雨終日降、先日雪消)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ折・台物・樽を進上し、毎月の秀頼祈祷(大般若経転読)について尋ねる。〔義演准后日記〕

十三日(晴)
秀頼祈祷(大般若経転読)について大坂へ使者(久兵衛)を遣わす。〔義演准后日記〕

十四日(霽)
前田玄以より義演へ秀頼祈祷について、十五日に来坂すべき旨が伝わる。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて秀頼祈祷のための大般若経転読が執り行われる。〔義演准后日記〕

十七日(霽)
秀頼(言経「大坂中納言」、義演「秀頼」)名代として池田輝政(言経「池田三郎左衛門」、義演「池田三左衛門」)上洛、参内し、太刀・馬代として銀子五十枚を献上する。〔言経卿記・義演准后日記(同日十九日条)〕

十八日(晴)
秀頼の名で八幡山に建設中の堂宇が関ヶ原合戦によって中絶の記録。〔義演准后日記〕

十九日(晴)
来る二十四、二十五日に大坂城にて秀頼・家康への新年の総礼が行われる旨の触れが出される。〔義演准后日記〕

二十三日
大坂城総礼が延期される。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
義演、秀頼祈祷のために京にて一人で大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

二十六日(晴陰)
勧修寺光豊?(「勧修寺右大丞」)より、二十九日に秀頼(「大坂中納言」)へ総礼のため、大坂へ下向するよう触れが出される。〔孝亮宿禰記〕

二十九日(晴)
秀頼(義演「秀頼卿」、言経「秀頼」)、大坂城にて公家・門跡・諸大名に新年の礼を受ける。その後一部の者に対面し盃を授ける。孝亮は秀頼へ太刀を進上。〔義演准后日記・孝亮宿禰記・言経卿記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(雨風吹)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十九日(晴)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ桜一枝と樽を贈り、茶阿局母の死去を聞く。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(晴)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)の母死去につき、理趣経一巻・裹帋 金銀を柳盤に乗せ、香典三百疋を贈る。ただし茶阿局方、香典遠慮につき香典を義演方へ返す。〔義演准后日記〕

三日
秀頼(「豊臣中納言秀頼」)、大坂城西の丸(「大坂城の西城」)へ赴き、徳川家康・秀忠親子(「御父子」)を迎え、申楽を催す。そののち、二の丸(「西城二丸」)へと赴き、家康・秀忠の来臨を謝す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

四日(晩大雨)
後陽成天皇(「当今」)、政仁親王(「女御〔近衛前子〕腹皇子 当年五歳、旧冬親王宣下」)へ譲位の意ありという。これまで秀吉(「大閤」)の意思として、中山親子(中山大納言〔親綱〕女)腹の十四歳の第一皇子良仁親王(「親王」)が東宮同然に扱われていた。しかし、「当今(後陽成天皇)の意思」として五歳の政仁親王立太子のために良仁親王を仁和寺の御室とし、既に仁和寺の御室として入寺していた良仁親王の同母弟幸勝親王を改めて梶井宮最胤の弟子として三千院に入る事態となる。〔義演准后日記〕

五日(晴)
良仁親王(「親王」)、仁和寺に入室。ただしこの日良仁親王は食事もせず、そのために入室延期となりそうになったらしい。〔義演准后日記〕

十二日(天晴)
寧(「政所」)、神官らと花見のため豊国社へ参詣すし、神官らに進物する。〔舜旧記〕

十三日(雨降)
細川忠興(「長岡越中」)より梵舜を通して東殿息女こや(「御コヤ」/大谷吉継の妹)へ菓子折が送られる。〔舜旧記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十六日(天晴)
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣し、太刀折紙を奉納する。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
大蔵卿局(「大蔵卿殿」)、この日の夕暮れに社参し、銀子二枚・鳥目十七貫を奉納する。
またこの日、寧(「政所」)、豊国社へ参詣し銀子五枚、神楽銭として銀子二枚をを奉納する。また湯立を奉納し、別当跡継ぎの慶鶴丸に大麻を贈る。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
(※この日は豊国社正遷宮の日)
秀頼(「秀頼」)、豊国社へ名代として片桐且元(「堅切市正」)を遣わし、百貫を奉納する。 また茶々姫(「秀頼御母」)の祈祷のために神楽を奉納する。
この日、勅使として広橋兼勝(「広橋中納言兼勝」)が豊国社へ社参し、束帯・太刀・折紙を奉納する。〔舜旧記〕

三日
秀頼(「秀頼」)、秀忠とともに大納言に昇進する。(「一説に廿八日につくる。」との注記あり)〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

二十八日(晴)
義演、二条昭実と共に寧(「北政所」)の再建した三井寺へ参拝する。〔義演准后日記〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(小雨)
義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ今月の秀頼祈祷(大般若経転読)について尋ねる。〔義演准后日記〕

八日
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ今月の祈祷巻数と蒸竹の子を、茶々姫(「御袋」)へも祈祷巻数を贈る。
家康、上洛。〔義演准后日記〕

九日(晴)
家康、京で邸宅を建設するという。〔義演准后日記〕

十日(陰)
来る十六日に今月の大般若経転読が行われる旨が伝わる。〔義演准后日記〕

十一日
家康、参内する。〔義演准后日記〕

十五日(朝雨、辰刻晴)
義演、大坂へ下り、まず大蔵卿局に会う。その後片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出幡州」)に会い。帷を一重遣わす。〔義演准后日記〕

十六日(卯刻より雨、巳刻晴)
義演、辰刻より出仕し、大般若経を転読する。大蔵卿局より樽を多量に賜う。
義演、秀頼(「秀頼卿」)が書した豊国大明神の神号と天神の神号を賜り、その書に驚く。〔義演准后日記〕

十八日(雨降)
寧、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ覆盆二十籠を進上し、片桐且元(「片桐市正」)と小出秀政(「小出幡广守」)へ札を遣わす。また、醍醐寺門跡作事料についての使者として大坂へ下向中の茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女?)へも杉原を三束送る。〔義演准后日記〕

二十四日(霽)
秀頼(「秀頼卿」)の祈祷のため、明後日二十六日、金剛輪院にて大般若経を転読する旨を触れる。豊臣家、醍醐寺門跡作事料について承知の旨、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)が手紙で義演に知らせる。〔義演准后日記〕

二十六日(陰)
金剛輪院において義演を導師として十三人で秀頼(「秀頼卿」)祈祷の大般若経転読が執り行われる。
秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、毎月一日より三日に至るまで(三日が秀頼の誕生日のため)不動経を修する触が発せられる。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴、朝夕立)
この月から山上山下各七座によって秀頼の誕生日祈祷が始まる。各々住房において不動経を修す。札を進上する者もあり。〔義演准后日記〕

二十八日(霽)
前日から家康(「内府」)病気平癒祈祷が禁中より命じられ、この日より翌月三日に至るまで執り行われる。〔義演准后日記〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
義演、今月の秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、不動経を修す。〔義演准后日記〕

七日(天晴)
大蔵卿局(「大蔵卿」)、豊国社へ参拝し祈祷のために銀子二枚を奉納する。
この日、寧(「政所」)より豊国社神官たちへ進物あり。奉行は孝蔵主(「カウ蔵主」)。
徳川家康妻(「内府家中之女中衆」)、豊国社に湯立を奉納し、家康のために祈祷立願する。〔舜旧記〕

十六日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社神供とともに梵舜へ蓮飯を送る。〔舜旧記〕

十八日(雨風吹)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演服喪中のため、山上拝殿において秀頼(「秀頼卿」)誕生日(「正誕生日」)のための祈祷として大般若経転読が行われる。〔義演准后日記〕

四日(晴)
義演、大坂へ前日の祈祷札を進上する。〔義演准后日記〕

五日(晴)
大坂方より義演へ、杉原などを賜う。〔義演准后日記〕

十七日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、金子一枚・神楽銭十二貫(鳥目にて)を奉納する。また神官たちに進物などあり。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
秀頼、秀吉年忌につき豊国社へ小出秀政(「小出播磨守」)を遣わし、衣冠百貫を奉納する。 また秀頼の祈祷のため金子一枚にて湯立を奉納する。大蔵卿局(「大蔵卿」)、これを見物する。
勅使万里小路充房(「万里小路中納言充房」)、豊国社へ参詣し、束帯太刀折紙などを奉納する。また充房、個人的にも太刀折紙を奉納する。〔舜旧記〕

十九日(天晴)
豊国社にて申楽能が興行される。八条宮智仁親王(「八条殿」)、お忍びで観覧に来る。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(天晴)
茶々姫(「秀頼御母」)、豊国社斎場を造営する。〔舜旧記〕

十四日
義演、秀頼(「秀頼卿」)祈祷の為の札を十五枚書く。〔義演准后日記〕

札の内容
「奉 転読大般若経御武運長久所 御息災安穏 御願円満 消除不祥 増長福寿 諸人快楽 国土安全 攘災与楽 除災与楽増福延命 御息災延命 除病延命 御寿命延長 消除災難 攘災招福」

十五日(大雨)
義演、大坂へ下向し、大蔵卿局に杉原十帖・帯一包と手紙を送る。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経転読が執り行われる。その後義演以下、秀頼(「秀頼卿」)と対面し盃を頂く。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し湯立二釜を奉納する。〔舜旧記〕
晦日 徳川秀忠女珠(「珠君」/母は江)、加賀の前田利常(「猿千代利常(後中納言)」)に嫁す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(天晴)
茶々姫(「秀頼公御母 御年三十余」/1569年生まれだとこの年数えで三十三歳)、病のため曲直瀬道三の診察・処方(「快気湯、木香飲也」)を受ける。症状は気鬱と拒食、眩暈など。〔玄朔道三配剤録〕

六日(自朝陰)
徳川家康(「内府君」)、暇乞いのため大坂へ下向するとの知らせが有節瑞保に届く。九日に家康と面会する旨使者を送る。五日に妙心寺の焉侍者が家康と会っていた旨聞く。〔鹿苑日録〕
片桐貞隆(「片主」)、この日伏見に滞在の記録。午刻に伏見を発ち、寧(「政所様」)を詣でる旨有節瑞保に伝える。〔鹿苑日録〕

七日(自朝陰)
申刻、伏見において、徳川家康(「内府君」)諸大名(「各々大明衆」)の礼を受ける。〔鹿苑日録〕

十二日(天晴)
徳川家康(「内府家康」)、関東へ下向する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

閏十一月

[大坂城本丸奥御殿]
十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(晴時々雪)
秀頼(「大坂中納言(大納言の誤り)」)家臣太田牛一(「太田和泉守」)により関ヶ原合戦記が記され、家康(「内府」)に献上される。〔言経卿記〕

十五日(天晴/節分)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。
豊国社において理趣三昧法楽が行われる。〔舜旧記〕

二十四日(陰)
大坂へ秀頼(「秀頼様」)祈祷の巻数と折を贈る。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
言経、勧修寺光豊(「右大弁宰相」)より秀頼(「大坂大納言」)の元日衣文奉仕のため大坂下向を仰せ付けられるが、難色を示す。翌日、高倉永孝(「藤宰相」)がこれに代わる。〔言経卿記(同日・二十八日条)〕



編年史料 目次

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1602/慶長七年

慶長七(1602)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


大坂方、安芸安国寺へ寺領三百石を与える。〔東福寺誌(東福寺記)〕

一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕

三日(天晴)
秀頼(「秀頼」)、豊国社へ名代として小出秀政(「小出播磨守」)を遣わし、装束・太刀・折紙・馬代万疋を奉納し、巫女八人に板物一人当たり一端を遣わす。 続いて茶々姫(「御母」)も金子一枚を奉納する。また宇喜多秀家(「備前中納言」)も名代として参詣、十貫・神楽十二貫を奉納し、神官衆などへ進物する。〔舜旧記〕

七日(晴)
義演、新年の礼として秀頼(「秀頼様」・「秀様」)へ太刀・馬代三百疋、茶々姫(「御袋様」)へ杉原十帖・帯一包、 大蔵卿局へ帯を贈る。〔義演准后日記〕
梵舜、寧(「政所」)邸へ礼参し、寧へ杉原十帖・筆十封、孝蔵主(「カウ蔵主」)へ三十疋、客人局(「客人」)へ三十疋、梅久局(「梅久」)へ五本などを進上する。〔舜旧記〕

十三日(晴)
義演ら、秀頼祈祷のために不動経百座を修し、大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
義演、前日に大坂へ下向し、この日大坂城(「秀頼卿御殿」)にて大般若経転読が執り行われる。〔義演准后日記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(雨)
義演、去年より触れられた秀頼(「秀ー卿」)の誕生日祈祷として不動経を修し、武運長久を祈念する。〔義演准后日記〕
午刻、寧(「政所」)が参詣する。大坂より屏風を持参する。御忍びで「大坂様」(茶々姫か)も社参したという。神前庭にて神楽が二庭奉納される。小出秀政(「小出播州」)の采配で上の客殿に幕が張られ、二人はそこに入ったという。〔鹿苑日録〕

六日(天晴)
東殿(寧侍女・大谷吉継母?)、秀頼方(「大坂」)より申しつけあり。「在所家得之」とのこと。〔舜旧記〕

十三日(天晴)
徳川家康(「内府」)、上洛する。〔舜旧記〕

十七日(晴、晩雨)
秀頼(「大坂中納言(大納言の誤り)」)の名代として池田輝政(「池田三左衛門尉」)が参内、儀定所にて天皇に対面を許され、太刀・馬代として銀子五十枚、政仁親王(「親王御方」/後の後水尾天皇)へ銀子三十枚、長橋局(「長橋局」は匂当内侍の意。持明院基孝女、孝子〔後に基子と改名〕)へ五貫文を献上する。〔言経卿記〕

十八日(雨降)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十九日(陰晴)
家康(「内府」)、朝廷より源氏長者の内旨を伝えられるも形式上これを断る。〔言経卿記(同日条、翌二十日条)〕

二十一日(大雨)
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ灌頂院の初桜を一枝進上する。翌日、家康(「内府」)にも進上する。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
十日(雨降)
梵舜、吉田定継(「民部」)と共に寧(「政所様」)を訪問し、進物する。寧、孝蔵主(「カウ蔵主」)を以って礼を述べる。〔舜旧記〕

十五日
東寺金堂釿始が行われる。二十二日より事始。秀頼(「秀頼卿」)より費用の提供あり。〔義演准后日記(同日十九日条)〕

十六日
義演、秀頼(「秀頼様」)へ杜若と竹の子を進上する。〔義演准后日記〕

十八日
豊国社法楽について、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)より大坂へ申入。〔義演准后日記〕
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十日(雨)
二条昭実(義演)・冷泉為満(言経)・四条隆忠(言経)、翌二十一日の秀頼(「大坂中納言(大納言の誤り)」)への総礼の為、大坂へ下向する。〔言経卿記・義演准后日記〕

二十一日(大雨)
諸家による秀頼への年頭総礼が行われる。日野輝資(「日野大納言」)ことごとくみなの後見務める。近衛信尹(「近衛殿」)は出仕せずか。〔言経卿記・義演准后日記(同月二十六日条)〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十七日(天晴)
早朝、寧(「政所」)、木下家定(「肥後守」)・木下延俊(「木下右衛門大夫」)を供につれ、豊国社へ参詣し、銀子五枚・神楽銭二十二貫を奉納する。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
未刻(午後二時頃)、豊国社祭礼につき、秀頼(「秀頼公」)、名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)を遣わし、金子一枚・太刀折紙代百二十貫文を奉納する。神楽・奉幣あり。
この日の巳刻(午前十時頃)、勅使として花山院家雅(「花山院大納言家雅」)が豊国社に参拝し、太刀馬代五貫を奉納する。家雅、個人的にも一貫を奉納する。
また小早川秀詮(「金吾殿」/秀秋)も社参し、十貫を奉納する。〔義演准后日記〕

二十九日
家康、参内する。〔義演准后日記(同年五月一日条)〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(霽、未刻夕立)
義演、秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、愛染護摩を開白し、義照(「義照少僧都」)は不動護摩を開白する。〔義演准后日記〕

二日(辰刻雨)
前日から続く愛染護摩・不動護摩に加えて、諸僧によって大般若経が秀頼のために転読される。〔義演准后日記〕

四日(陰、小雨)
義演、秀頼へ今月の祈祷巻数・樽三荷・菓子折金銀絵・蒸竹の子を贈る。
家康(「内府」)、宮中を下がり伏見へ帰る。〔義演准后日記〕

七日
前田玄以(「徳善院」)関ヶ原合戦の頃より患っていた中風により死去。〔義演准后日記〕

八日(晴)
一日から続けられていた愛染護摩と不動護摩がこの日結願する。〔義演准后日記〕

十二日(大夕立)
大坂大般若経衆へ触が出される。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、前日大坂城に着く。この日、早朝大蔵卿局を訪ね、茶々姫(「御袋」)へ瀑布十端、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ瀑布五端、伊茶局(「いちや」)へ瀑布二端を贈る。後刻、大蔵卿局より樽二荷・両種・外居(「外飯」)一荷が返礼として使者(「甚五」)を通じて贈られる。義演、使者甚五へ帷、及び小出秀政(「小出播州」)へも帷三つを贈る。なお、片桐且元(「片桐市正」)はこの日伏見登城のため留守。〔義演准后日記〕

十六日(晴、少雨灑)
大阪城千畳敷御殿を道場に大般若経転読が義演らによって執り行われる。その後義演たち秀頼(「秀頼卿」)と対面し、盃を頂く。義演、秀頼へ瀑布十端を贈る。 またその後、義演は織田長益(「有楽」、「秀頼卿御親類執事也」)屋敷を訪れ、帷三つを贈る。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、所用により秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十九日(大夕立)
義演、「政所様」(寧)に生帷を、茶阿局(「ちゃ阿」)に生帷一つと糒袋を二つ贈る。〔義演准后日記〕

二十三日(天晴)
家康母大(「内府公御母儀」)、豊国社へ参詣し、九十貫を奉納する。神官巫女たちに進物あり。〔舜旧記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
某日
寧(「故太閤北政所」)、慶長元年の地震により傾いていた東福寺仏殿を修繕する。〔東福寺誌(仏殿再興梁文)〕

仏殿再興梁文
「恭願 丕図祝闘蛇齢帰者如岐阜之衆再造施修鳳(風)乎 巍然似霊光之存。   故太閤北政所 重修
 慶長七年壬寅六月 日   住持 永哲敬白」

一日
秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため、今月も愛染護摩が開白される。〔義演准后日記〕

十一日
秀頼(「内府」)の名で豊国神社極楽門(向唐門か)が竹生島へ寄進するための解体が始まる。豊国神社には新しく神門(平唐門か)が造られるとのこと。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十二日(自朝晴天)
秀頼(「大坂秀頼公」)、大蔵卿局と内藤四郎を遣わし、若宮の祝儀として十荷七種、若宮へ金子十枚、御局へ「生白帷子(生絹帷子か)」二重、書状を献上する。〔鹿苑日録〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
七日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣する。奉納・進物あり。〔舜旧記〕

十二日(天晴)
前田利長(「前田肥前守」)、俄に豊国社へ参詣し、二十貫文奉納する。〔舜旧記〕

十五日(天晴)
梵舜、誓願寺に参詣の記事あり。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十四日(雨降)
徳川家康(「内府」)、豊国社社領より二百石を智積院領とする。
「昨年寄進した一万石の社領につき、修理料千石余の内二百石を祈祷料として智積院へ渡すように」との片桐且元(「片市正且元」)・加藤正次(「加喜左正次」)・板倉勝重(「板四郎右勝重」)連名の書状を吉田兼見(「吉田二位殿」)宛・智積院方に届けられ、 梵舜これを一読する。〔舜旧記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕

三日(晴)
秀頼誕生日祈祷のため、義演らによって大般若経が転読される。〔時慶記〕

六日(晴)
義演、大坂より布施として黄金一枚を賜る。〔義演准后日記〕

十七日(天晴)
巳刻(午前十時頃)、お寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、湯立奉納を見物する。金子一枚奉納あり。 八条宮智仁親王(「八条殿」)、この日の早朝に豊国社へ社参し、奉納あり。〔舜旧記〕

十八日(早天雨降)
豊国祭につき、秀頼(「秀頼」)、名代として小出秀政(「小出播磨守」)を豊国社へ遣わす。秀政、卯刻(午前六時頃)参詣し、百貫を奉納する。また個人的にも三貫文を奉納する。
次に、勅使として正親町季秀(「正親町中納言季秀」)が参詣し、束帯・太刀折紙を奉納し、奉幣する。
梵舜、この日の奉納日記を申し付けられるも、秀頼方(大坂)の意向か徳川家康(「伏見」)の意向かは分からず。〔舜旧記・義演准后日記〕

十九日(天晴)
豊国社申楽能あり。寧(「政所」)の御座所の簾五枚を新たに申しつく。〔舜旧記〕

二十一日(雨降)
茶々姫(「大坂秀頼御母義」)より豊国社へ黄金一枚奉納あり。〔舜旧記〕

二十九日
秀頼(「秀頼卿」)の名で建立されている東寺金堂、来月三日に棟上の知らせ。〔義演准后日記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
茶々姫(「秀頼御母儀」)祈祷のため、豊国社にて湯立奉納三釜あり。〔舜旧記〕
義演、東寺金堂の棟札を書す。

棟札の内容
「       本願高野山文殊院勢誉
 大檀那権大納言豊臣朝臣秀頼卿御建立
        慶長七 歳次壬寅 年九月三日
 裏書、法務准三宮義演判」

二日
秀頼(「秀頼公」)の名で秀吉(「大相国」)供養のために再建された(奉行は木食応其〔「興山上人」〕)東寺金堂にこの日棟札が打たれる。(東寺金堂は慶長大地震によって倒壊。)〔義演准后日記〕

三日(晴)
この日、秀頼(「秀頼公」)の名で再建された東寺金堂が棟上される。〔義演准后日記(慶長十年四月二十一日条)〕
秀頼祈祷のための大般若経転読衆の人事が治定される。〔義演准后日記〕

四日(雨)
義演、大坂に祈祷札・木綿一折を贈る。〔義演准后日記〕

六日(晴)
大坂より使者が帰り、義演へ大坂よりの返礼の杉原を届ける。〔義演准后日記〕

八日
孝蔵主、大坂へ下向中の記事。〔時慶記〕

十二日
大坂城大般若経転読衆に触れが出される。大覚寺理性院は今回免除される。〔義演准后日記〕

十四日
義演、翌日の大坂下向に向け、木札を用意する。紙札は二十枚送る。〔義演准后日記〕

木札の内容
奉転読大般若経六百軸御武運長久所 奉転読大般若経全部息災御安穏所

十五日(小雨灑)
義演、翌日の大般若経転読のため大坂へ下る。まず大蔵卿局に会い、その後片桐且元(「片桐市正」)と小出秀政(「小出播广守」)に会う。〔義演准后日記〕

十六日(雨)
大坂城にて義演を導師として大般若経転読が執り行われる。その後秀頼(「秀頼卿」)と対面、各々盃を賜る。〔義演准后日記〕
徳川家康生母大(「内府母義」)死去につき、後陽成天皇(「禁裏」)より触穢の儀が申し伝えられる。〔舜旧記〕

十六日(雨)
大坂城にて義演を導師として大般若経転読が執り行われる。その後秀頼(「秀頼卿」)と対面、各々盃を賜る。〔義演准后日記〕

十八日(天晴) 寧(「政所」)、触穢につき秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十三日(雨) 義演、大坂の片桐且元(「片桐市正」)へ石山寺供養の札を送る。〔義演准后日記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(晴)
秀頼の名で東寺金堂本尊の新造が命じられる。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。備前岡山城にて小早川秀詮(「金吾殿」/秀秋)死去故という。「同月ニ兄弟三人病死也、諸人不思義申了」とのコメントあり。〔舜旧記〕

二十三日(快晴)
秀頼(「豊臣朝臣秀ー卿」)を施主として再建された清涼寺釈迦堂の落慶供養が行われる。
孝蔵主、江戸へ下向準備で多忙。〔時慶記〕

二十四日
時慶室(「内儀」/孝蔵主妹?)、小早川秀秋(「岡山中納言」)の件でお寧(「北政所殿」)へ見舞う。〔時慶記〕

二十五日 孝蔵主、江戸へ下向。〔時慶記〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「豊臣朝臣秀頼卿」)、河内枚岡神社再興につき擬宝珠を奉納する(奉行は桑山重正〔「桑山市右衛門重正」〕)。〔河内枚岡神社神橋擬宝珠銘〕

二日
孝蔵主、未だ江戸にて息災の記録。〔時慶記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
四日(晴)
方広寺大仏殿・照高院などが大火により焼失する。秀頼の寄進で家康の指示により再建中の本尊大仏も焼失。 妙法院・豊国社は難を逃れる。〔義演准后日記〕

九日(大雪)
時慶、秀秋(「岡山黄門」)追悼文をお寧(「北政所殿」)へ届ける。〔時慶記〕
方広寺大仏殿焼失の火災はこの日も消えず。〔義演准后日記〕

十三日
孝蔵主、江戸より帰洛し、伏見・大坂へ遣いへ赴く。〔時慶記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕
孝蔵主、伏見に来る家康(「内府」)を迎えに石部(「石辺」)へ赴く。〔時慶記〕

二十四日(雪)
吉田斎場所正遷宮につき、秀頼(「秀頼」)、名代として大野治長(「大野修理」)を遣わす。
また勅使烏丸光広(「烏丸頭弁」)参詣し、束帯を奉納する。〔舜旧記〕

二十五日(晴)
家康(「内府」)上洛。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
義演、立春節分の祈祷巻数を秀頼(「秀頼卿」)へ贈る。〔義演准后日記〕

二十八日(晴)
義演、片桐且元より方広寺が再々建されると聞く。〔義演准后日記〕

三十日(雪)
秀頼(「秀頼卿」)に関白宣下を受け、秀忠(「江戸大納言」)が将軍宣下を受けるという噂が流れる。
「秀頼卿関白宣下之事被仰出云々、珍重々々、江戸大納言ハ将軍宣下云々、」〔義演准后日記〕



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1603/慶長八年

慶長八(1603)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


茶々姫(「黄門秀頼卿御母儀、浅井備前守息女」)、寂光院を再興する。(「二世」とはこの時代は子女という意味はなく、「現世と来世」のこととのこと。)
「寂光院御再興、黄門秀頼卿御母儀、浅井備前守息女為二世安楽也」〔寂光院本堂額銘〕

秀頼の名で摂津白山神社を再建する〔白山神社由緒略記〕

一月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(天晴)
秀頼(「秀頼様」)、豊国社へ名代として小出秀政(「小出播磨守」)を遣わし奉納する。また神官たちへ進物あり。
小出秀政自身、福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・藤堂高虎(「藤堂佐渡守」)・浅野幸長(「浅野左京大夫」)からも奉納あり。
梵舜、吉田兼見(「二位卿」)を通じて祓札上書を依頼される。
〔舜旧記〕

三日(晴)
大蔵卿局(「大蔵卿殿」)、豊国社へ参詣し奉納あり。また新たな巫女を遣わす。 更に秀頼方(「大坂」)からとして吉田兼見(「二位卿」/梵舜兄)・慶鶴丸(豊国神社社務、兼見の孫)・吉田兼治(「左兵衛督」/兼見子、慶鶴丸父)らに進物を届ける。 舜旧記
義演ら(堯演〔「松橋法印」〕・憲応「報恩院法眼」・演賀・堯政・演快・演俊・演超)、秀頼(「秀頼卿」)の誕生日祈祷につき大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

六日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を訪問。寧・孝蔵主(「康蔵主」)・客人局(「御隔人」)・梅久・如潘へ進物あり。/td> 舜旧記
七日 義演、年頭の進物に井内経紹(「大蔵卿法橋」)を使者として遣わし、秀頼(「秀頼卿」)へ太刀一腰・馬代三百疋、 茶々姫(「御袋様」)へも杉原十帖・紅帯一包、また取次の大蔵卿局以下へ巻数二合を進上する。
また、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ樽を一荷・両種・天供団を遣わす。〔義演准后日記〕

九日(天晴)
お寧(「政所」)、豊国社へ参詣する。吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・梵舜らへ進物あり。慶鶴丸のために大麻(幣)も用意する。 また木下家定(「肥後殿」/お寧兄)・「おごや」からも奉納あり。〔舜旧記〕

十五日(晴)
義演、翌十六日の大坂城大般若経転読のため大坂へ下向。大蔵卿局へ文にて案内を請い、三百疋を贈る。 また取次の伊茶局(「いちや局」)へも二結を遣わす。大蔵卿局、早々の下向を喜び、また返礼として折と樽を義演に贈る。
また義演、片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出幡州」)・片桐貞隆(「片桐修善」)へも進物する。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて十五人の経衆によって大般若経転読が行われる。布施等の記録はあるものの、秀頼出座などの記録はなし。
また、この日伏見城にて公家衆による家康への総礼が行われる。〔義演准后日記(当日・翌十七日条)〕

十七日(霽)
伏見城にて門跡らにより家康への総礼が行われる。ただし、奈良の諸門(「南都門跡」)は不参。「進物ハ大閤之御時ノコトク欤」と記録。〔義演准后日記〕

十八日(陰)
大般若経衆へ二十日に秀頼(「秀頼卿」)祈祷のために大般若経を転読し、また論義を興行する旨の触が出される。〔義演准后日記〕

二十日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)祈祷のため大般若経転読が行われる。経衆は十六人。〔義演准后日記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
十二日
徳川家康、伏見城にて征夷大将軍の宣旨を受ける。〔徳川実紀〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国神社へ参詣する。〔舜旧記〕

二十日
この日、秀頼へ年頭の総礼あり。諸公家、大坂へ下向する。〔慶長日件録(同月十九日条)〕

二十一日
文殊院勢誉(「文殊院」)、十九日に家康(「将軍」)へ礼参し、この日秀頼(「秀頼卿」)へ礼参するという。〔義演准后日記(同月二十六日条)〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(大雨)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日祈祷として、義演を導師として仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

六日
加藤清正、この日(『清正行状奇』では七日)熊本を発つ。大阪に着いた後、秀頼(「秀頼公」)に謁見し、利家へ参候し、そののち浅野幸長と共に家康(「家康公」)に将軍宣下を祝うために関東へ赴く。〔清正記・清正行状奇〕

十六日
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ竹子・藤・杜若を贈る。
また茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)が病のため、巻数を遣わす。〔義演准后日記〕

十八日(雨降)
寧(「政所」)、この月は秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

二十一日(天晴)
徳川家康(「内府家康」)上洛し、二条城(「京新城」)に初めて入る。〔舜旧記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
十一日(雨降)
寧(「政所」)、この日にわかに豊国社参詣・奉納あり。御内衆(女房衆?)・木下家定(「木下肥後守」)も奉納あり。〔舜旧記〕

十六日(天晴)
徳川家康(「内府家康」)、伏見城へ帰る。〔舜旧記〕

十七日(雨降)
寧(「政所」)、豊国社参詣あり。養母ふく(「七マカリ殿」/七曲殿)病平癒祈祷のため。〔舜旧記〕

十八日(雨降)
秀頼(「大坂」)、豊国社正遷宮の日(豊国社祭)につき、片桐貞隆(「片桐主膳正」)を名代としてこの日の巳刻に豊国社へ遣わす。 金子一枚・馬代百貫を奉納し、慶鶴丸に奉幣する。神楽奉納あり。 また吉田兼見(「二位卿」)・兼治(「左兵衛督」)・慶鶴丸へそれぞれ銀子五枚が貞隆を通じて贈られる。
同日午刻、勅旨大炊御門経頼(「大炊御門大納言経頼」)が束帯にて豊国社参詣・奉納あり。〔舜旧記〕

十九日(晴)
山科言経、中原師生(「大外記師生」)と秀頼の内大臣宣下について談合する。〔言経卿記〕
豊国社能が興行され、細川藤孝(「幽斎」)がこれを見物する。〔舜旧記〕

二十日
筆者、宇治への道中、伏見にて勧修寺光豊(「藤宰相」)に会う。光豊は大坂への道中で、二十二日に勅使として訪問することを聞く。筆者、これを聞いて秀頼への関白宣下の勅使だと思う。〔鹿苑日録〕

二十二日(晴)
秀頼(言経「大坂大納言秀頼卿」、実紀「豊臣大納言秀頼卿」)、正二位内大臣宣下を受ける。広橋兼勝(実紀「広橋大納言兼勝卿」)・勧修寺光豊(実紀「勧修寺宰相光豊卿」)、大坂へ下向あり。家康、江戸より青山忠成(「青山常陸介忠成」)を大坂に遣わし、これを賀す(実紀)。〔言経卿記・徳川実紀〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
茶々姫(「内大臣秀頼公御母」)、病のため曲直瀬道三の診察・処方(「回春痞満養胃湯、術苓貴半各一匁、莎宿木実白冠霍朴各七分、甘姜棗、二十余日之後、以右剤為丸、久用之効」)を受ける。症状は気鬱と胸の苦しみと痛み、全く食事が取れず、頭痛もあるとのこと。〔玄朔道三配剤録〕
秀頼、玉祖神社を再興し、山手銭(二十三貫九百六十文)・山手米(八斗)を寄付する。これについて片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出播磨守」)、連名で玉祖神社寺社中へ書状を送る。〔玉祖神社文書〕

二日
翌三日、秀頼(「秀頼卿」)誕生日祈祷について山上・山下に祈祷の触が出される。〔義演准后日記〕

三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日のため、義演を導師として十四人の経衆によって(「金剛王院〔実融〕故障也」)大般若経が転読される。〔義演准后日記〕

十日(大雨)
大蔵卿局、茶々姫の末妹督(江/「江戸大納殿〔徳川秀忠〕女中」)の上洛につき、迎えるために近江へ下る。義演、大蔵卿局に樽を送る。〔義演准后日記〕

十一日(大雨)
義演、近江土山にて滞在中の大蔵卿局へ音信を遣わす。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、秀頼祈祷のために大坂へ下向。大蔵卿局は江の伏見上洛につき伏見に滞在の記録。伊茶局(「いちや」)へ曝二端・樽を進上。また小出秀政(「小出播广」)・片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「片桐修善」)へも進物。
千、母江とともに秀頼へ輿入れのため、江戸城より伏見城へ上洛する。〔義演准后日記〕
『徳川実紀』によると、江(「大納言殿の北方(崇源院殿の御事。)」)と千(「千姫君」)は秀忠(「大納言殿」)に伴われまず青山忠成(「青山常陸介忠成」)邸へ入り、一泊した後に江戸を発ち、伏見城に付いた後、徳川家康と対面があったという。また当時江が身重であったことにも触れ、千の身を案じてまげて伏見まで同行し、婚礼の準備を調えたとされている。〔徳川実紀・(『浅井三姉妹の真実』)〕

十六日(大雨)
卯刻より大坂城にて秀頼祈祷のための大般若経が転読される。経衆十五人(堯演〔「松橋法印」・俊典・実融〔「金剛王院法印」・俊長・演照・演賀・憲応〔「報恩院法眼」〕・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・宋倩〔「宗倩」〕・演超・演眞〔「今度初、弥勒院也」〕)。
祈祷の後、義演ら経衆、秀頼(「秀頼卿」)と対面し盃を賜る。〔義演准后日記〕

六月[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「内大臣豊臣朝臣秀頼卿」)、竹生島弁才天堂を再興する(奉行は片桐且元〔「片桐東市正且元」〕)。〔近江竹生島弁才天堂棟札〕

十二日
江(「江戸大納言女中」)、義演へ返礼として単物一ツ・生帷一ツを進上する。〔義演准后日記〕

十三日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を見舞のため訪問し、飴粽二百折を進物する。寧、梵舜に帷を青白の二つ返礼として贈る。〔舜旧記〕

十七日(非夕立大雨)
義演、江(「江戸女中」)へ返礼として揚梅一折を、督の侍女(「局」/京殿?)へ札を遣わす。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、この月は養母七曲殿(浅野長勝妻ふく)の服喪中につき月忌の参詣はなし。〔舜旧記〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
八日
徳川家康、大坂より孝蔵主(「孝蔵主尼」)を始めとする女房衆を二条城に招き、猿楽を催し饗応する。孝蔵主・長野局等はそのまま一泊する。この会合は千の入輿・婚礼について話し合い・接待であったという。〔徳川実紀〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、養母七曲殿(浅野長勝妻ふく)の服喪中につき月忌の参詣はなし。 福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・加藤清正(「主計頭」)参詣する。〔舜旧記〕

二十八日(慶長:雨、舜:天晴→晩雨振)
この日、千(慶長「江戸大納言御息女」、舜「江戸大納言御娘」、実紀「千姫君」)、伏見より大坂へ船にて秀頼(慶長・実紀「内大臣秀頼公」、舜「秀頼」)に入輿する。道中は諸侯によって警護されたという(舜「路次中之警固歴々也」)。舟橋秀賢、この話を中原師生(「掃〔「部」脱か〕正」)より聞く。

『徳川実紀』に見る千の入輿の様子
千姫を守る御供の船は千艘に及び、堤の東方では西の諸大名がとりどりに警備し、西方では前田利長(「加賀中納言利長卿」)が大ぜいを引き連れて警護していた。細川忠興(「細川越中守忠興」)は備前島辺を警護し、黒田長政(「黒田甲斐守長政」)は弓鉄砲隊を三百人動員、堀尾忠氏(「堀尾信濃守忠氏」)もまた歩兵三百人を動員して警戒にあたった。入輿の日に先んじて水路を整備していたため、船は滞ることなく、大橋までたどり着いた。大坂城では大久保忠隣(「大久保相模守忠隣」)が輿を渡し、浅野行長(「浅野紀伊守幸長」)がこれを受け取った。城中には大手門より玄関まであらかじめ畳を敷き、そのうえに白綾をしいていた。片桐且元はこれを聞いて、家康は質素倹約を好み華美を嫌うのに、これはその意に背くのでは、と制したという。また、江原金全’「江原与右衛門金全」)が千の執事に命じられた。
これにより、家康による秀頼の後見は盤石のものとされ、天下泰平の雰囲気となったが、一方でこの婚礼で示された徳川の権威に、誰ひとり逆うまいという血判を捧げたという。〔慶長日件録・舜旧記・徳川実紀〕

この月
江(「大納言殿北方」)、伏見城において初(「初姫君」)を産む。督の姉初(「故京極宰相高次が後室常高院尼」)、この娘を引き取り育てて、嫡子忠高(「若狭守忠高」)に娶せる。〔徳川実紀〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日につき、十三人の経衆によって大般若経が転読される。 義演、大坂へ井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、秀頼へ札・馬・太刀、茶々姫(「御上様」)へ葡萄一折、大蔵卿局へ杉原十帖、伊茶局(「いちや」)へ百疋を贈る。〔義演准后日記〕

八日(雨)
秀頼と(「秀頼卿」)千の祝言について、公家衆の礼参は十二日に予定される。門跡衆の礼参は未だ日程決まらず。〔義演准后日記〕

九日(雨)
茶々姫、秀頼のために舟橋秀賢へ貞永式目仮名注の執筆を依頼し、この日出来上がる。〔慶長日件録〕

十一日(晴)
秀頼(言経「内府秀頼公」、慶長「秀頼卿」)と千の婚儀のため、公家衆(冷泉為満・山科言緒・四条隆昌・舟橋秀賢など)が大坂に赴く。〔言経卿記・慶長日件録〕

十二日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)、大坂城秀頼邸にて婚儀の祝いを受ける。始めに摂関家の礼と振舞、続いて清華家の礼と振舞。つづいて一献・太刀の進上あり。〔慶長日件録〕

十三日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片桐市正」)を訪る。且元同道で大坂城へ登り、茶々姫(「萱堂」)より依頼の貞永式目仮名抄(上下二冊)を進上する。 秀賢、茶々姫より且元を通じて帷一重・袷一・銀子五枚を拝領する。秀賢、秀頼・茶々姫へ錫酒鍋三ツを進上する。酉刻退出の後、茶々姫より改めて見事な出来を感謝する旨の返事が来り、帷一種・袷一・銀子五枚を拝領する。〔慶長日件録〕

十五日(大雨)
秀頼の婚儀につき、門跡衆(常胤〔「妙法院二品宮」〕・道澄〔「聖護院二品宮」〕・義演・最胤〔「梶井無品」〕・尊勢〔「一乗院准后」〕・良恕〔竹内無品〕・ 義尊〔実相寺【院】〕)が祝賀のために登城する。
その振る舞いにつき、義演、「大閤御所御威光未相残了、珍重/\」と記載。
義演、秀頼(「秀頼御所」)に馬・太刀・馬代三百疋、茶々姫(「御袋」)に樽代千疋、千(「姫君」)に杉原十帖・段子一巻を進上する。〔義演准后日記〕

十六日(天晴)
暮、秀頼(「秀頼様」)、有節瑞保に綾の単物、袷、帷子一つずつを贈る。〔鹿苑日録(同月十七日条)〕
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣する。〔舜旧記〕

十七日(晴天)
有節瑞保、秀頼(「秀頼様」)へ昨日の謝辞を述べるために大坂城に赴く。〔鹿苑日録〕

十八日(天晴)
豊国祭。
秀頼(「秀頼」)の名代として片桐且元(「片桐市正」)が装束にて参詣、金子一枚・鳥目百貫文を馬代として奉納する。且元退出後の午後、吉田兼見(「二位卿」)兼治・慶鶴丸へ銀子五枚・帷袷を贈る。
また勅旨として中山慶親(「中山中納言慶親」)が束帯にて参詣奉納する。
寧(「政所」)は、東山阿弥陀ヶ峰の秀吉廟所(「山上之廟所」)へ参拝し、豊国社へは孝蔵主(「カウ蔵主」)を遣わし銀子十枚を奉納する。また、吉田兼見(「二位」)・兼治・慶鶴丸など神官らへ進物する。梵舜、慶鶴丸の叙爵について、西笑承兌(「兌長老」)より権少副を兼する旨を聞く。〔舜旧記〕

十九日(雨降)
豊国社にて能興行あり。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
秀頼誕生日の祈祷として、義演を導師として山上・山下衆によって大般若経が転読される。〔義演准后日記〕

十五日(陰)
義演、翌十六日の秀頼祈祷のために大坂へ下向する。大蔵卿局・片桐且元(「片桐市正」)・小出秀政(「小出播广」)に音信を贈り、案内を請う。〔義演准后日記〕

十六日(雨降)
大坂城にて、秀頼祈祷のために大般若経が転読される。義演を導師として、他の経衆は「理性院法印公秀」・堯演(「松橋法印一雅」)・実融(「金剛王院法院盛融」)・俊典・俊長・演賀・憲応(「報恩院法眼憲応」)・堯政・亮済・演快・演照・宋倩・演超・演眞。
転読の後、義演ら秀頼(「秀頼卿」)に対面し、布施を賜る。またこの日、千(「江戸姫君」)からも賜物あり。義演は銀を十枚、杉原を五十帖賜る。
※ 後日〔同月二十三日参照〕義演が千にこの日の返礼を贈るが、その取次に大蔵卿局の名前が挙がっていることから、この進物は茶々姫の世話によると思われる。〔義演准后日記〕

二十三日
義演、十六日の千(「江戸姫君」)からの進物に対する返礼として柿を一折、大蔵卿局へも同じ件で柿籠を進上する。〔義演准后日記〕

二十七日(晴)
加藤清正(「主計」)の伏見屋敷が焼失する。〔義演准后日記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日の祈祷として義演を導師として仁王講が行われる。〔義演准后日記〕
寧(「北のまん所」)、長橋局よりの女房奉書を使いの後陽成天皇乳母(「大御ちの人」)より賜り、高台院(「かうたいゐん」)の院号を朝廷より賜る。寧、直ちに返礼し、新上東門院勧修寺晴子(「女ゐんの御所」)へ白銀二十枚・とんす五巻、女御近衛前子(「女御の御かた」)へ白銀二十枚・とんす五巻、長橋局(「なかハし」)へ白銀十枚・小袖一重、天皇乳母(「大御ちの人」)へ白銀十枚・小袖一重を贈る。〔お湯殿の上の日記・高台寺文書〕

女房奉書(高台寺文書)

北のまん所殿ゐんかうの御事、かうたい院との御事、ちよつきよにておはしまし候よし、心候て申候へくそうろう、かしく、
     たれにてもの
          人々
             申給へ

六日(晴)
義演、秀頼(「大坂」)へ紅葉枝ならびに柿籠を進上する。
江(「江戸ノ女中」)、先日義演から贈られた巻数の礼として杉原を五十帖進上する。〔義演准后日記〕

九日(晴)
本願寺准如(光昭)の妻(顕尊〔佐超〕の長女)の乳母「太田」、江(「江戸大納言殿〔秀忠〕女中」)に仕えるべく伏見城へ下向する。〔言経卿記〕

二十日(晴)
大野治長(「大野修理大夫」)、義演に植木の柏・樅(もみ)の木を所望する。〔義演准后日記〕

二十五日(晴)
義演、大野治長(「大野修理大夫」)へ所望された柏木を十二本贈る。〔義演准后日記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日につき祈祷の為に仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

二十二日(晴)
義演、大坂へ「三河」を遣わし、秀頼(「秀頼卿」)へ巻数・折・絵、茶々姫(「御袋」)へ巻数、千(「姫公」)へ巻数・折・絵、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ折・文、伊茶局(「いちや」)へ百疋、片桐且元(「片桐市正」)へ折を贈る。〔義演准后日記〕



編年史料 目次

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1604/慶長九年

慶長九(1604)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


秀頼の名で摂津呉服神社(現在の大阪府池田市)の社殿を修復する。〔(調査中)〕

一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(天晴)
豊国社元旦神事につき、寧(「政所様」)、人を遣わし、吉田兼見(「二位卿」)・慶鶴丸ら神官へ進物あり。〔舜旧記〕

三日(晴)
未刻、秀頼(「秀頼様」)の名代として小出秀政(「小出播磨守」)は装束にて豊国社へ参詣する。神前へ太刀折紙(白紙)・金子一枚を奉納する。 また吉田兼見(「二位卿」)へ小袖一綾一、兼治(「左兵衛督」・「左兵衛佐」)・慶鶴丸へ小袖二・惣神官へ百貫・神楽巫女へ杉原十帖・銀子一枚を贈る。
小出秀政自身、福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・藤堂高虎(「藤堂佐渡守」)・浅野幸長(「浅野左京大夫」)からも奉納あり。〔舜旧記〕
秀頼の誕生日祈祷が延引される。〔義演准后日記〕

六日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を新年の礼に訪問し、杉原十帖・水引五十把を贈る。また錫・盃二あり。 また、客人局(「客人」)・古茶局(「おこちゃ」)・木下家定(「肥後殿」)・慶円・彦三郎・梅久局(「梅久」)へも進物など有。〔舜旧記〕

十日
淀川の堤の修繕がこの日より行われる。徳川方より板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)が、大坂方より片桐且元(「片桐市正且元」)がこれを監督する。〔徳川実紀〕

十五日
義演、辰刻(午前八時頃)大坂に着き、大蔵卿局へ三百疋、取次伊茶局(「いちや」)へ二百疋を贈る。 また小出秀政(「小出播州」)・片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「同主膳」)へ各馬代三百疋・太刀を贈る。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。導師は義演、経衆は演俊・演超など。転読・布施の後、秀頼(「秀頼公」)と対面し、盃を賜る。〔義演准后日記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
秀頼の誕生日祈祷のため仁王講が行われる。ただし、義演は眼疾のため参加できず。
義演、醍醐寺二王門建立について昨月晦日に片桐且元(「片桐市正」)へ使者を送り伺いを立てたが、その返事がこの日来る。 曰く、二王門建立の願いは内々に申し入れられたい、とのこと。よって義演、豊臣家老女であった茶阿局(「ちゃ阿」)を通じて申し入れるべきか思案する。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
義演、秀吉の月命日に付き豊国神社(「豊国大明神」)へ参拝・奉幣し、理趣経を講じる。また秀頼(「秀頼卿」)へ桜枝を進上する。〔義演准后日記〕

二十九日
大蔵卿局、義演へ来月十一日に大坂城にて大般若経を真読する旨を伝える。義演、経衆を二日に渡り各二十五人、計五十人を召す由返答する。〔義演准后日記〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
義演、大蔵卿局へ十一日の大坂城大般若経真読について文を遣わす。〔義演准后日記〕

四日
義演、東寺へ十一日の大坂城大般若経真読の参勤を触れる。光明院堯瑜・宝厳院空盛・宝菩提院禅源・金勝院宗深・実相寺恵純の五人が参勤するという。〔義演准后日記〕

六日(晴)
山科言経、秀頼(「大坂秀頼公」)家臣白江善左衛門尉に快気散・愛洲薬を遣わす。〔言経卿記〕

十日(丑刻降雨)
義演、この日大坂へ着き、茶々姫(「御袋様」)へ樽代千疋、大蔵卿局へ五百疋、伊茶局(「いちや」)へ三百疋を贈る。即日、返礼として茶々姫(「御袋」)より三荷・三種、大蔵卿局より同樽が届く。また、片桐且元(「片桐市正」)・片桐貞隆(「同名主膳」)・織田長益(「有楽」)へも進物する。〔義演准后日記〕

十一日(屬晴)
大坂城にて大般若経真読が行われる。経衆は「菩提山僧正」・理性院公秀・松橋堯演・ 俊典・光明院堯瑜・宝厳院空盛・西林院慶順・俊長・演賀・宝菩提院禅源・報恩院憲応・堯政・金剛王院実融・源朝・亮済・石山世尊院景祐・演快・演俊・澄然・宋倩・演超・山田長運(「宰相」/空盛弟子)・右衛門督・実相寺恵純・金勝院宗深の二十五人。
この日の夕刻秀頼に対面し、盃を賜る。〔義演准后日記〕

十二日(晴)
大坂城大般若経真読二日目。後半の十巻が真読される。転読の後、加持祈祷を行う。
この日も祈祷の後秀頼(「秀頼」)の出座あり、倍膳の大名衆の集う中で対面を許され、盃を賜る。
二日にわたる真読に大量の布施が贈られ、義演は「過分ノ布施也」と記載する。〔義演准后日記〕

二十四日(晴)
秀頼(「秀頼卿」/実際は茶々姫か)、舟橋秀賢に職原抄外題の執筆を依頼する。〔慶長日件録〕

二十七日
義演、秀頼(「秀頼卿」)へ真読布施の返礼として匂袋二十袋を進上。また大蔵卿局へも五袋、取次(伊茶局ヵ)に三袋、片桐且元(「片桐市正」)へ五袋、片桐貞隆(「同主膳」)へ五袋を贈る。 今回初めて山田長運(「宰相」)を使者とする。〔義演准后日記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
この月(十八日?)
丹後国の大名・京極高知(「羽柴修理大夫」、「高知」/茶々姫の従弟)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

三日(晴)
秀頼誕生日に付き、大般若経が転読される。経衆は理性院公秀・演賀・亮済・演快・堯政・演俊・演超。〔義演准后日記〕

五日(晴)
義演、先月の大坂城大般若経真読につき持ち出した大般若経六十合を報恩院経蔵へ返納する。〔義演准后日記〕
細川忠興(「長岡宰相」)・京極高次(「京極宰相」)・池田輝政(「池田三左衛門尉」)・福島正則(「福嶋左衛門大夫」)ら上方大名・及び公家衆、伏見の家康(「大樹」)へ賀礼へ参ずる。〔言経卿記〕

六日(晴)
秀頼(「大坂内府」)、片桐且元(「片桐市正」)を伏見に遣わし、家康(「大樹」)へ金子十枚などを贈る。またこの日、織田信包(「織田上野介入道」)も伏見へ礼参する。〔言経卿記〕

九日(微雨、陰晴)
舟橋秀賢、この日、秀頼(「秀頼」/実際は茶々姫か)より執筆を依頼された三略(中国の兵法書。)に表紙を附す。〔慶長日件録〕

十四日(晴)
舟橋秀賢、秀頼(「秀頼様」)へ参礼のため、高尾僧正性院・木食応其とともに大坂へ赴く。平野長治(「平野己雲斎」)邸に滞在する。〔慶長日件録〕

十五日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片桐市正」)を訪れ、秀頼(「秀頼卿」)への謁見を申し入れる。且元曰く、明日対面ありとのこと。〔慶長日件録〕

十六日(晴)
舟橋秀賢、片桐且元(「片桐市正」・「片市正」・「市正」)に伴われ登城し、秀頼(「秀頼様」)に対面する。秀賢、秀頼より手ずから熨斗鮑を賜る。また秀賢、秀頼に太刀一腰・三略を進上する。秀頼、喜んですぐに披見し、秀賢をねぎらう。秀賢、続いて茶々姫(「秀頼様御母堂様」)へ杉原一束・箔ノ帯二筋裁・を帯一筋の上に置いて進上する。また千(「秀頼様政所様 此時御姫様称之」)へ錫五封を贈る。
また、高尾僧正性院もこの日秀頼に礼参するという。〔慶長日件録〕

二十二日(陰、夜雨)
秀頼(「秀頼公」)、言経へ短冊を十枚遣わし、古歌の書写を依頼する。〔言経卿記〕

二十三日(晴)
言経、秀頼(「秀頼公」)の依頼に古今和歌集より十歌を認め、伏見の片桐且元(「片桐市正」)を通して献上する。〔言経卿記〕

年の内に春は来にけり一とせを 去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ /在原元方
見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける /素性法師
夏の夜のふすかとすれば郭公 鳴く一声(ひとこゑ)に明くる東雲(しののめ) /紀貫之
我が背子が衣の裾を吹返し うらめつらしき秋の初風 /読人不知
白雲に羽撃ち交はし飛ぶ雁の 数さへ見ゆる秋の夜の月 /読人不知
朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪 /坂上是則
亀の尾の山の岩根をとめて落つる瀧の白玉 千世の数かも /紀惟岳
見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめ暮らさむ /在原業平
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして/在原業平
風吹けば沖つ白浪たつた山 夜半にや君がひとりこゆらむ /読人不知

五月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼誕生日に付き、大般若経を転読する。義演を導師として、経衆は理性院公秀・松橋堯演など十五人。
その後、井内経紹(「大蔵卿」)を使者として祈念札及び蒸竹子を秀頼(「大坂」)へ贈る。〔義演准后日記(当日・翌四日条)〕

十五日(寅刻雨降)
義演、巳刻大坂に着き、大蔵卿局へ文を送り案内を請う。また、大蔵卿局へ樽代三百疋を贈る。 取次の伊茶局(「いちや方」)へも二百疋を遣わす。すぐに返礼として樽が贈られ、いつものように早朝から祈祷を始めたいとの返答あり。〔義演准后日記〕

十六日(屬晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。義演を導師とし、経衆は理性院公秀・松橋堯演・金剛王院実融・俊典・演照・演賀・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・澄然・宋倩・演超。転読の後、加持祈祷を行う。
その後布施を賜る。秀頼よりは義演に導師分として銀二十枚・綾ノ単物三ツ、千(「姫君」)よりは導師分として帷単物以下三ツ、経衆分として銀二枚ずつなど。
その後秀頼と対面があり、それぞれ盃を賜る。まず義演が秀頼より盃を賜り、続いて義演より秀頼(「秀頼卿」)へ返盃する。〔義演准后日記〕

二十八日(雨降)
大蔵卿局・三位局が上臈たちへ書状を認め、来月三日に九条忠栄(「九条殿」)と完子の婚礼の祝言が行われるためその出席を上臈たちに請う。 慶長日件録
義演、「九条殿」(九条兼孝)の息子忠栄と茶々姫の養女(後の完子)の婚礼祝儀が来月三日に行われる知らせを聞く。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(雨)
舟橋秀賢、九条亭を訪れる。九条家、完子(「岐阜之小吉息女」)を迎える準備で大童の様子。〔慶長日件録〕

二日
大徳寺にて織田信長の二十三回忌法要が行われる。施主は茶々姫(「大日本国摂州居住奉三宝弟子豊氏大夫人」)。〔半泥稿〕

三日(晴)
この日の夜、茶々姫(慶長「秀頼卿母堂」)、養女の完子(慶長「三好小吉息女」・時慶「岐阜中納言」/羽柴小吉秀勝と江の娘)のため、九条忠栄(義演「九条御方御所」、慶長「九条殿中納言」/後の幸家)への輿入れを世話する。 その世話は路地行粧撫物に至るまで細部に及び、それらは人々の目を驚かすほどの立派さだったという。

『慶長日件録』の完子に関する記載
「其身三好小吉息女也、小吉死後、秀頼卿母堂為猶子養育也、今度秀頼卿母堂、悉皆御造作也、」
「岐阜中納言ノ女中、引違テノ儀ト也」〔時〕
阿古(准如妻/顕尊〔佐超〕長女)・准如娘・西御方(顕尊後室冷泉為益女。誠仁親王元典侍)・万(「御姫御方」/顕尊〔佐超〕次女)・准尊(顕尊跡継)・古満(准尊妻。宍戸元秀女で毛利輝元養女。始め小早川秀秋の妻)ら、この輿入れを見物する。〔言〕
〔慶長日件録・言経卿記・義演准后日記・時慶記〕
秀頼誕生日に付き、大般若経が転読される。経衆は九人。〔義演准后日記〕

四日
この日の夜、「姫君ノ乳母人」が自害する。時慶、「前代未聞」と驚愕し非難する。〔時慶記(同月十三日条)〕
義演、完子(「九条殿御内儀」/※ 史料纂集版では兼孝妻・高倉熙子と解釈するも如何)より婚礼祝儀の返礼として銀子三十枚・生帷三重を賜る。 義演、使いの侍に帷を一重遣わす。〔義演准后日記〕

五日(晴)
義演、婚礼の祝儀として九条忠栄(「九条殿」/※ 史料纂集版では九条兼孝と解釈)へ晒布百端・杉原二百帖・樽五荷・肴五種を進上する。 また「同局」へ杉原五十帖を送る。大坂へは大蔵卿局へ晒十端・樽三荷・肴三種、伊茶局(「同いちや」)へ晒五端・伊茶の息子(「同子」)矢野五左衛門(「五左衛門」)へ晒三端、「江戸ノ局」へ樽三荷・肴三種を送る。〔義演准后日記〕

六日(晴)
義演、婚礼の祝儀に九条亭へ赴き、九条忠栄(「御方御所」)へ太刀折帋・馬代三百疋、九条兼孝(「大御所」)へ樽三荷・肴三種を進上し、三献を賜る。二条昭実(「二条殿」)・鷹司信尚(「鷹司御方」)・随心院増孝も同道。〔義演准后日記〕

七日(晴)
舟橋秀賢、九条亭へ婚礼の祝いに訪れる。九条忠栄の父兼孝(「関白様」)に樽を二荷・肴三種(くま引五・昆布三束・するめ十寸)、忠栄(「殿中納言殿」)へ樽三荷・肴三種(昆布五束・くま引十枚・するめ十寸)、完子姫(「同御簾中」)へ樽三荷・肴三種(昆布五束・鯛二十枚・するめ十寸)を贈る。
返礼として秀賢、忠栄(「中納言殿」)より帷一ツ、完子(「御簾中」)より帷二ツを賜る。〔慶長日件録〕

八日(晴)
舟橋国賢(「家君」)、九条亭へ婚礼の祝いに訪れ、九条忠栄(「御方御所」)と対面する。〔慶長日件録〕

九日(晴)
大蔵卿局(「秀頼公御母堂之乳母大蔵卿」)、完子婚礼整えるべく、舟橋秀賢の隣屋敷に滞在の記録。
この日、舟橋秀賢夫人(「女房衆」)、が隣家の大蔵卿局に見舞い、杉原十帖・一包(糒袋ヵ?)を贈る。その午後に大蔵卿局、秀賢夫人へ返礼として十帖(杉原ヵ)と一巻(単物ヵ)を贈る。
その夜、秀賢夫人、完子(「九条殿若御上様」)を訪れ、樽三荷・肴三種を進上する。〔慶長日件録〕

十日
徳川家康(義演「将軍」、慶長「大樹」)、近日参内のため(「当年初」)伏見城より二条城へ上洛。〔義演准后日記、慶長日件録〕

十一日(晴)
この日の朝、九条忠栄(「九条殿、殿中納言殿」)、服部忠兵衛を使者に遣わし、婚礼祝の返礼として秀賢夫妻に唐島単衣一・帷子二ツを贈る。〔慶長日件録〕

十八日
大田美作守(「美濃守」の誤?/梶原政景?)・伊藤長親(「伊藤石見守長親」)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
二日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)、片桐貞隆(「片桐主膳」)を奉行として比叡山横山中堂を造営するにより、義演「三河」を見舞に遣わす。〔義演准后日記(同月九日条)〕

三日
秀頼誕生日につき、義演を導師として仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

九日
秀頼(「秀頼卿」)、片桐貞隆(「片桐主膳」)を奉行として比叡山横山中堂を造営するにより、義演「三河」を見舞に遣わす。〔義演准后日記〕

十七日
徳川秀忠の子(後の徳川家光/「若君」、「大猷院殿」)が生まれる。母は江(「右大将殿の北方」)。男児誕生に上下歓喜するという。稲葉正成(「稲葉内匠正成」)妻福が乳母に任じられる(後の春日局)。〔徳川実紀〕

二十一日
江戸より安藤正次(「安藤次右衛門正次」)が伏見の徳川家康へ遣いし、後の家光誕生を報告する。家康大いに喜んで、男児を竹千代(「竹千代君」)と命名する。同じく伏見にいた秀忠の同母弟忠吉は清州城へ帰り、異母兄秀康は伏見邸にて大名を招き猿楽を催す。〔徳川実紀〕

二十四日 茶々姫(「大さか」)、慶光院より大坂へ訪問したてい首座に慶光院四世周陽上人に宛てた手紙を預ける。内容は、宇治橋の架け替えに関するものdr、自分の体調不良により作業が遅くなった不手際があったことを詫び、稲葉道通(「いなは蔵人」)・古田重勝(「ふるたひやうふ(古田兵部)」)を作事奉行とし、客殿は稲葉道通に、庫裏と弁才天の塔は古田に担当させること、現地でこの文を二人に見せ念入りに作業させること、大坂においても慶光院の宿を建てさせるようにそれぞれ片桐且元(「いちのかミ(市正)」)に命じたと報告してる。また、秀頼(「秀頼」)の息災を伝え、慶光院の祈祷のおかげであると謝している。

二十六日
茶々姫(福田説「よ(ど)」、桑田説「あ(こ)」)、慶光院に上臈三位局を遣わし、周陽上人に宛てた手紙を預ける。内容は、宇治橋の架け替えに関して秀頼(「秀頼」)の発願として行うこと、奉行を片桐且元から命じること、架け替えは遷宮より前にできるよう命じたこと、詳細は三位局より伝えることをつつぇている。またこの手紙で、自身(「ここほど」)と秀頼の息災を伝え、家光(「わもじ」:若君の意)誕生を喜んでいる。

八月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
(十八日?)寺沢広高(「寺沢志摩守」)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

二日(早天雨降)
寧(「政所」)、豊国社へ参詣あり。湯釜二十七釜を奉納する。 内訳は、一番が寧で五釜、二番が龍(「松丸殿」)で五釜、三番が「備前様」(豪?)で三釜、万里小路内義(摩阿)が三釜・木下家定(「木下法印」)が一釜・長慶院(寧の姉、医師三雪〔三雲とも〕の妻、「くま」とも)が一釜、「中納言殿」が二釜、「奥殿」が一釜、客人局(「客人」)が一釜、「松女房衆」(龍侍女?)が三釜、「中納言殿局」が二釜。湯釜奉納ののち金子一枚奉納、また吉田兼見(「二位卿」)・慶鶴丸・兼治(「左兵衛佐」)・梵舜(「神龍院」)そのほか神官・巫女らに進物あり。〔舜旧記〕

三日(大雨)
秀頼(「秀頼卿」)正誕生日につき、義演を導師として大般若経が転読される。経衆は山上・山下・良家衆十五人。〔義演准后日記〕

四日(雨)
義演、山田長運(「宰相」)を使者として、秀頼(「大坂」)へ大般若札・糒袋五十を進上(昨日は大雨により延期していたという注記あり)。〔義演准后日記〕
梵舜、豊国社臨時祭について伏見城(「伏見御城」)を訪問する。 徳川家康は日取りについて十三日にすべき由を伝える。 板倉勝重(「板倉伊州」)・片桐且元(「片桐市正」)・梵舜の三人で奥の間にて談合を重ねる。〔舜旧記〕

七日(天晴)
豊国社臨時祭準備のため、板倉勝重(「板倉伊州」)・片桐且元(「片桐市正」)が豊国社に来る。神供所・兼見(「二位殿」)宅で振舞あり。〔舜旧記〕

八日
豊国社臨時祭のための衣装が梵舜に届く。〔舜旧記〕

十日(天晴)
豊国社臨時祭のための榊が用意される。また、梵舜が伏見城に赴き、板倉勝重(「板倉伊賀守」)・片桐且元(「片桐市正殿」)とともに楽人について相談する。〔舜旧記〕

十一日(雨降)
豊国社臨時祭のため、片桐且元が豊国社を訪れ、上賀茂騎馬装束百人前・内楽人十五人の衣装が用意される。〔舜旧記〕

十三日(降雨)
豊国社臨時祭、雨により延期となる。〔舜旧記、義演准后日記〕

十四日(屬晴)
秀吉の七回忌にあたり、洛中で豊国社臨時祭が盛大に催される。奉行は片桐且元(「片桐市正且元」)。 臨時祭につき、秀頼(「大坂」)は能一座に二百貫ずつ、計八百貫を遣わす。
臨時祭は目を驚かすほどの行粧美麗で、見物人が貴賎問わず群集したという。〔舜旧記、義演准后日記、言経卿記〕

『舜旧記』に記された臨時祭の様子
臨時之御祭、一番御幣左立、御榊メツキ高七尺、葉六百枚、右立、同狩衣指貫ニテ是ヲ両人シテ左右持、次供衆百人浄衣風折、二番騎馬二百騎、豊国之神官六十二人、吉田神人三十八人、合百騎、上賀茂神官八十五人、楽人十五人、合百騎、都合二百騎、建仁寺門前ヨリ二行立、馬乗也、豊国大鳥居ヨリ清閑寺之大路ヲ西ヘ出、照高院殿(道澄)前ニ而乗下也、 三番田楽三十人、四番申楽四座、新儀能一番ツヽ、金春橘、観世武王、宝生太子、金剛□、次能二番過ニ大坂ヨリ八百貫被下也、一座ニ百官〔貫〕ツヽ、被下也、此儀式豊国大門ニテ執行、次二位兼見(吉田兼見)・慶鶴丸・左兵衛佐(吉田兼治)出頭也、

十五日(屬晴)
豊国社臨時祭二日目。京の人々豊国踊りに狂うという。 この日方広寺にて施行あり。この日の為に新たに作られた四座の能が催される。
また、この日寧(「北政所 明神ノ御妻也」)も楼門の北方にある桟敷にて見物。
義演、臨時祭興行を祝い、秀頼(「大坂」)へ葡萄一折を進上する。〔舜旧記、義演准后日記、言経卿記〕

十六日(天晴)
梵舜、豊国社臨時祭の奉行片桐且元(「片桐市正」)とともに伏見城へ赴き徳川家康(「将軍家康」)へ豊国社臨時祭に報告する。また梵舜、板倉勝重(「板倉伊州」)・片桐且元の両人へも礼参する。
後陽成天皇(「禁裏」)、烏丸光広(「烏丸弁」)を勅旨として遣わし、豊国社へ神楽を奉納する(役者:藪藤園・持明院)。〔舜旧記〕

十七日
義演、眼を患う中、秀吉七周忌法楽のための結縁灌頂記を書く。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
秀吉七周忌につき豊国大明神法楽が行われる。 秀頼、名代として片桐貞隆(「片桐主膳」)を遣わし、金子一枚・馬代百二十貫文・太刀折紙を奉納する。拝殿において理趣三昧が行われ、演賀が供養法・演俊が讃・演光が調声を担当する。義演も出座し、良家衆も出仕する。公卿・諸大名(福島正則〔「福嶋左衛門大夫」〕・織田長益〔「有楽」〕・加藤清正〔「加藤肥後守」〕・浅野長政〔「浅野弾正」〕・京極高知〔「京極修理」・京極高次〔「同宰相」〕・浅野幸長〔「浅野(紀)伊守」〕・「鍋島」〔直茂?勝茂?〕など)も参詣する。〔舜旧記、義演准后日記〕
大野治長(「大野修理大夫 治長」)、豊国神社へ石灯篭を寄進する。〔豊国神社石燈籠銘〕

十九日(天晴)
豊国社申楽能が延引される。〔舜旧記〕

二十日(天晴)
秀頼(「大坂秀頼公」)へ臨時祭御礼につき、吉田兼従(慶鶴丸/「権少副」)・梵舜、大坂城へ赴く。秀頼に対し、兼従は太刀折紙・三百疋、梵舜は太刀折紙・馬代三百疋を進上する。 また梵舜、茶々姫(「秀頼公御母義」)・千(「御姫様」)へ杉原十帖・扇三本、大蔵卿局(「大蔵卿殿」)へ足袋三足、宮内卿局(「宮内卿殿」)・二位局(「二位殿」)へ足袋二足、三位局(「三位殿」)へ百疋、「両人女房衆」へ二百疋、片桐且元へ単物一つを贈る。〔舜旧記〕

二十一日(天晴)
吉田兼従・梵舜、秀頼(「秀頼公」)へ礼参する。〔舜旧記〕

二十九日
江戸城築城のために大石運搬の銘が諸大名に下される。片桐且元(「片桐市正且元」)・古田重勝(「古田兵部少輔重勝」)らもこれに従事する。〔徳川実紀〕

閏八月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼誕生日に付き、義演を導師とし、五人の経衆によって仁王講が行われる。〔義演准后日記〕

二十二日
秀頼(「秀頼卿」)、建設中の大坂城二階に千畳敷の部屋にこの日移徙する。〔義演准后日記〕

二十五日
大坂城二階に千畳敷の部屋が完成する。
義演、完子(「九条殿内儀」/※ 史料纂集版では兼孝妻・高倉熙子と解釈するも如何)へ木練一折を進上する。〔義演准后日記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
秀頼(「秀頼卿」)誕生日に付き、義演を導師とし、良家以下十四人の経衆によって大般若経が転読される。 義演、その晩に井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、秀頼(「大坂」)・千(「姫君」)へ各札・木練一折を送る。〔義演准后日記〕

五日(晴)
井内経紹(「大蔵卿」)が大坂より帰り、来る十六日に大坂城にて祈祷が行われる旨を義演に伝える。〔義演准后日記〕
梵舜、大坂へ下向し片桐且元(「片桐市正」)へ「御倉之礎」について申し入れ、受諾される。〔舜旧記〕

六日(雨降)
片桐且元、梵舜へへ木綿五十を贈り、朝食を振舞。また灯篭以下のことについて相談する。〔舜旧記〕

十二日(時雨)
義演、秀頼祈祷のために紙札を二百枚書す(翌十三日に札の内容あり)。〔義演准后日記〕

十五日(晴)
義演、この日大坂へ到着し、片桐且元へ杉原三束を送り案内を請う。
茶々姫(「御袋」)へ杉原五束・かいき一反、千(「姫君」)へ杉原五束、大蔵卿局(「大蔵卿」)へ杉原三束、伊茶局(「いちや」)へ二百疋を贈る。
また片桐貞隆(「片桐主膳」)へ諸白樽一荷・柿一折、織田長益(「有楽」)へ柿一折、矢野五左衛門(伊茶局の息子)へ諸白樽一荷、 茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女。このとき大坂にいたらしい)へ杉原二束を贈る。〔義演准后日記〕

十六日(晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。 経衆は理性院公秀・松橋堯演・俊典・俊長・演照・報恩院憲応・堯政・源朝・亮済・演快・演俊・澄然・宋倩・演眞。 今回は演超(「式部」)・金剛王院実融は不参との記。
義演、布施として秀頼よりは銀子二十枚・小袖一重、千(「姫君」)より小袖一重・鵝眼三十疋・八木二石を賜る。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
秀頼(「大坂」/秀頼名義だが茶々姫の意思か)、養姉完子の嫁ぎ先である九条家屋敷を新造する。義演、それに伴い自らの居間(「易間」)を九条家へ貸すことがこの日決められる。〔義演准后日記〕
九条邸にて、僧正拝任御礼に参内した本願寺光昭(准如)の振舞有。舟橋秀賢も参加。 光昭帰寺後も宴会は続き、完子の女房(「九条大納言殿御簾中御局」)らも顔を出す。秀賢ら、大いに酔い正体をなくす。〔慶長日件録〕
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ参詣、銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「秀頼卿」)の名で吉野山安禅寺蔵王堂が再建される。〔『西国三十三所図会』、(金峯山古今雑記)〕

三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日に付き、義演を導師とし仁王講が行われる。経衆は演照・演賀・堯政・演快・演俊。〔義演准后日記〕

五日(晴)
山科言経、江(「江戸大将〔秀忠〕御女中」)の内々の要請に答え、江とその侍女「京殿」・「太田」(准如妻阿古の乳母)へ愛洲薬・茶調散・快気散などを献上する。(この記事で江の在京が分かる)〔言経卿記〕

十二日(雨)
秀頼(「秀頼卿」、ただし後日「卿」が「公」に訂正されている※)の名で東寺南大門が立柱される。
※ 「卿」は三位以上・参議以上大納言以下の敬称。「公」は大臣以上の敬称。秀頼は前年四月十二日に内大臣宣下を受けているため。〔義演准后日記(同月十三日条)〕
完子(「九条殿御内儀」/※ 史料纂集版では兼孝妻・高倉熙子と解釈するも如何)、義演に樽三荷・外飯(「居ヵ」)一荷を贈る。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。「三位女房衆」(三位局?)豊国社を参詣する。〔舜旧記〕

二十九日
この日の夜、舟橋秀賢、新築の九条亭を見物に訪れ、その綺麗に驚く。客殿・台所・小台所・風呂・女房局など数十に渡る部屋数を記録する。〔慶長日件録〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
この月
秀頼(「豊富 朝臣 秀頼卿」)、蔵王堂建立につき擬宝珠を奉納する(奉行は建部寿徳〔「建部 内匠 頭光重」〕、大工は三条国次〔「三条 藤原朝臣 宗兵衛尉 国次」〕)。〔大和蔵王堂匂欄擬宝珠銘〕

五日(晴)
舟橋秀賢、完子の女房(「九条大納言御簾中ノ御局」)を夕食に招き、また板物を一端贈る。〔慶長日件録〕

八日(晴)
八条宮智仁親王妃(「八條宮御簾中」/九条兼孝女〔「九条関白御息女」〕)、昨月二十四日より患った末にこの日の暁死去。享年二十二歳。「眼口耳下■以外下血云々、中毒歟如何」との記載あり。〔慶長日件録〕

十八日(天晴)
寧(「政所」)、秀吉月忌の豊国社参詣はなし。〔舜旧記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
秀頼(「秀頼卿」)誕生日に付き、義演を導師とし九人の経衆によって大般若経が転読される。
義演、その後札を秀頼(「大坂」)のもとへ送り、醍醐寺二王門建立の儀について訴える。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
義演、秀吉月忌につき神供する。 この日の日記に秀頼の宿星について記載あり。曰く、「秀頼公御星、金曜星一体 御十三歳、開眼供養了、」(秀頼公の記載の右に「× 卿」と補記※)。
※ 「卿」は三位以上・参議以上大納言以下の敬称。「公」は大臣以上の敬称。秀頼は前年四月十二日に内大臣宣下を受けているため。〔言経卿記〕

十九日(立春)
義演、秀頼(「大坂」)へ節分祈念の巻数を送り、千(「姫君」)より銀子を二枚賜る(返礼ヵ)。〔義演准后日記〕
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子十二貫分を奉納する。寧御内衆は神楽銭十二貫を奉納する。 また寧、吉田兼見(「二位」)・慶鶴丸・祝・祢宣・巫女・下神人らに進物する。〔舜旧記〕

二十七日(晴)
舟橋秀賢、九条忠栄(「九条大納言殿」)へ年筮・筆二封、完子(「同女房衆」)へも筆二封を贈る。〔慶長日件録〕



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