Posted at 2016.11.03 Category : ∟書籍・論文・記事

〇大野家
大野治長・治房兄弟は毛利勝永と家老の宮田甚之丞とも従弟である(『南路志』)
大野・宮田・毛利(森)の三氏が葉栗郡に所縁があることを解説。
(略)高澤(等)氏は戦国初頭に(森氏が)美濃から移ってきたのではないかと推測されている。
同(葉栗)郡内に宮田の地名があり、勝永の家老にして従兄弟宮田陣之丞の故地と考えられる。宮田氏は太子山上宮寺住職の分家であるという(『尾張群書系図部集』)。また同郡上門間庄大野郷は、大野氏発祥の地と考えられる。
宮田・毛利両氏は大野兄弟にとって父方の従弟のようですね。
同書では毛利勝永(吉政)の父吉成(勝信?)の妻が大野氏か宮田氏かとされています。
①大野氏であれば、吉成の妻及び宮田陣之丞の母は大野佐渡守の姉妹?
②宮田氏であれば、大野佐渡守の妻大蔵卿局が宮田氏の出?
青柳の存在が裏付けできれば、①?もしくは青柳の母が大蔵卿局の姉妹?という感じですね。
〇勝永の妻 「土佐御前」龍造寺安
龍造寺政家が九州仕置の後記楽する際に娘(「嫡女」〔龍造寺家々譜書抜〕)を人質として送った。「やす御りうにんさま」(『日峰様咄之書(茂宅聞書)』/『佐賀県近世史料』第八編第二巻内)
安の紹介の後にこんな逸話が…
龍造寺政家はその息女安姫を秀吉へ証人として差し出したが、美麗の評判が高かったため、上方にあっては淀殿の妬みを買った。そこで、秀吉は淀殿の嫉視を避けるため、毛利豊前守勝永に安姫を娶せたという。
間もなく、大陸出兵がはじまると、勝永も朝鮮に在陣するようになり、安姫は九州へ下向して、小倉の城下に居住するようになった。美しい安姫のことが忘れられない秀吉は、名護屋との往復の折、船を寄せて小倉に入った。しかし、安姫は勝永への貞操を守って、秀吉のもとへ伺候しようとはしなかった。秀吉は、さては実父政家の指図かと勘繰った。加えて、病弱でもあった政家は、先の肥後一揆の際に出兵しなかったため、秀吉の不興を買っていた。秀吉は、ついに政家に強いて龍造寺いの家督を息子藤八郎(高房)に譲らせてしまったという。
逸話を紹介された後に、「秀吉が諸大名の妻妾に懸想したという話はいくつも伝わっており、一々信ずるに足りない。」と一刀両断されています。
例の蒲生家の冬姫の話といい、まったくその通り。よくぞおっしゃっていただきました。
それにしても、毎回こういう話に出されるのは茶々なのが恣意的で嫌ですね。この話の出店はどの史料でしょうか?
九州平定は天正十五年まで、同書によると安は天正十八年の二月には佐賀に帰っているといいますから、そのころの茶々の権力が安をどうこうできたというのは現実的な話ではないです。
慶長十五年五月二十五日没。「土佐の御料人」、「土佐の御前」〔葉隠〕
没年から大坂の陣において妻に励まされる有名な逸話の妻は、真偽も定かではないが、少なくともこの女性ではなかったらしい。
大坂の陣で土佐に残された妻は後に家康の側室夏の女中に取り立てられたらしい(『南路志』)
〇二条城会見
勝永は土佐に配流後も豊臣の情報を得ていたという話。
大野治長が書状で二条城会見について勝永に宛てた書状の写しが『大阪城の七将星』にあるという。
使者に立った「窪田甚三郎」(宮田甚之丞か)と勝永、治長は従兄弟の間柄というから、治長が勝永につながりを持つのは不自然なことではないように感じます。
この時点で勝永が上方へ赴く意思を示していたのを、治長が「此方御上りの事、御無用」と止めたらしい。
〇宮田甚之丞
大坂の陣において勝永とともに大坂に入ったが、七日に城を出たらしい
(「新参ニ籠、七日ニ城ヲ出ル者/毛利豊前家老後松平伊豆守(松平信綱?)召抱 宮田甚之丞」)
甚之丞は勝永から形見を託されたらしく、真田丸展で展示された陣羽織などはその時持ち出されたもののようです。
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Comment
ありがとうございます
『真田よりも活躍した男 毛利勝永』の第2刷の最後に掲載されているため、目にして頂ける方も限られていますが、ご紹介頂きありがとうございます。
大野、宮田、毛利の故地がわかると、なぜ勝永が土佐国にいたか、なぜ最後まで大坂方に与したかなど、色々なことも腑に落ちる感じがします。
Re: ありがとうございます
ご本人様から直々のコメントをいただき大変恐縮です。
大野について他の家との繋がりなど残されているものが少ない中、大変勉強になりました。
ありがとうございます。
『真田より活躍した男 毛利勝永』とは関係ないですが、「このハゲ~」「この○○様に何を申す~!!」はキンカン頭と呼ばれた方とその上司にそっくりと思いました。
Re: タイトルなし
最近では随分と信長の人物像も見直されておりますので、そのイメージが早く広がることを祈っています。