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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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幼少時茶々姫に心酔して以来、茶々姫一途な×十年を送っている紀伊(HN)と申します三つ指ごあいさつ(PNは赤石いとこと申します)

茶々について細々と我流に調査&研究しており、情報整理&報告のために永遠に工事中なサイトを運営しています。その他、執筆や講演の機会を頂き、細々と活動させていただいております。


≪コメントについて≫
個別の質問コメントについては、調査・確認する時間や手間などの関係上、基本的にお答えできないことをご了承ください。


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特別展「秀吉と三人の秀勝たち」@曳山博物館

 

【曳山博物館】特別展「秀吉と三人の秀勝たち」
◯豊臣秀吉坐像(知善院蔵、17世紀)
◯豊臣秀吉像(山縣岐鳳筆、瀬田町組萬歳樓蔵、19世紀)
◯豊臣秀吉像(山縣岐鳳筆、個人蔵、19世紀)
◯羽柴秀秀吉寺領寄進状 医王寺侍者御中宛(天正4年10月15日付、徳勝寺蔵)…朝覚の死の前日付。仏供料


posted at 13:21:52


として井口郡に30石を寄進。
◯羽柴秀吉寄進状写知善院宛(天正4年10月22日)…医王寺と同じく井口郷から30石を寄進。
◯『江州湖東八幡宮勧請并祭礼由来』(明治8年、長浜城歴史博物館蔵)…寛文6年(1666)に書かれた、長濱八幡宮および曳山祭の由来書の写し。
◯本光院朝覚像(写真、妙法院蔵、17世


posted at 13:21:53


紀)…昭和27年に焼失。
◯妙法院境内本光院朝覚墓写真(石囲い箱棺墓遺構)
◯本光院朝覚供養塔写真(天正4年、妙法院蔵)…妙法院はもともと小谷村の長尾寺(天台宗)。日富の時代に日蓮宗に改宗、その弟子日示が、秀吉の命で天正2年に長浜に移り妙法寺を開いた。日示は秀吉の崇敬が厚く、秀吉の姉


posted at 13:21:53


とも(日秀)もこの時帰依したとされる
◯豊臣秀吉・羽柴秀勝位牌(18世紀、徳勝寺蔵) (表)「(右)國泰寺殿雲山峻龍大居士 台閤秀吉公/(左)朝覚大禅定門 次郎秀勝君」 (裏)「(左)慶長戌三年八月十八日/(右)天正四子年十月十四日」 秀吉信仰で作られたかも?


posted at 13:21:54


◯羽柴於次秀勝像(瑞林院蔵)瑞林院は蒲生氏郷室の創建、開基岌方行西は秀勝に仕えた藤掛氏の出身
◯瑞林院墓地内羽柴秀勝墓所写真
◯羽柴於次秀勝位牌(17世紀、瑞林院)
◯崇源院像(養源院蔵、17世紀)


posted at 13:21:54


お江が来てたとは驚き。それだけ小吉の史料が少ないってことなのかな。お江合わせて3点くらい。

 

企画展「井口の歴史と文化財」&常設展@高月観音の里歴史民俗資料館

 

【高月観音の里歴史資料館】 (常設)
◯『太閤志津ヶ嶽軍記』伊吹玄瑞著、江戸時代後期、個人蔵: 「木之本浄信寺の僧・雄山が記した『賤ヶ岳合戦記』を、弟・伊吹玄瑞が増補・改訂して版行したもの。序文によれば、雄山は、母が浅井長政の孫(長沢福田寺慶安の娘)にあたることから、


posted at 11:22:07


僧籍にありながら、求めに応じて『浅井三代記』や本文を記したという」
◯芳洲会蔵「野村合戦必携 稿本」明治40年、南部晋編。
◯同蔵「江北史料図彙 浅井郡之一」明治後期、南部晋著編。 昌庵見久尼歯骨図、昌庵見久尼肖像
◯同蔵「をしえのみやび」、明治後期、南部晋著編。


posted at 11:22:08


◯同蔵「稿本浅井武鑑 二編 全」 明治後期、南部晋編。 (企画展「井口の歴史と文化財」)
◯理覚院蔵「伝井口弾正肖像画」絹本・著色、安土桃山時代 「井口氏は地元の土豪で浅井氏の重臣であり、また同族関係にあったという」 ・解説:「理覚院は、近江国佐々木氏や湖北を領した浅井氏らとゆかり


posted at 11:22:08


の深い、当地の土豪井口氏の菩提寺(廟所)。寺宝として、井口弾正経元の肖像の伝える威風堂々とした画幅が残され、また天正13年の銘が刻まれた供養塔が建っている。」 「井口氏は崇峻天皇皇子定世親王の後裔近江中原氏を出自と伝え、また一説には近江源氏佐々木氏の一族で東条氏と称したともいう。」


posted at 11:22:08


「一説に、戦国期の当主井口弾正経元は祖母が浅井家から嫁しており、その容貌は浅井初代の亮政と極めて似ていたという。亮はのちに、弾正経元の嫡男経親を重用し、経元の娘阿古(阿古御料・小野殿、1527?-73)を嫡男久政の室に迎えたという。そして久政と阿古の間に生まれたのが長政である。


posted at 11:22:09


しかし、『嶋記録』には、長政の母阿古が信長の怒りによって十指を数日の間に切られ、ついには殺害されたという心痛に耐えない記録が残されている。」


posted at 11:22:09


「なお、渡岸寺観音堂(向源寺)に安置される国宝十一面観音像は、元亀元年の戦に際して土中に埋伏されて兵難を逃れ、その後これを掘り起こして一宇の坊舎を建てて奉安したのが井口弾正(経元の子?)とも伝えられている。」


 

「大たにの五もし」(中村博司著『豊臣政権の形成過程と大坂城』)

 

「大たにの五もし」:日付欠羽柴秀吉自筆書状(天正11年8月/『大日本史料』十一編之四所収/中村博司著『豊臣政権の形成過程と大坂城』より)


posted at 14:17:32


北ノ庄~安土~長浜~京都~但馬~姫路~大坂 という流れが、今までになくしっくり。 そして思いのほかお寧の世話になっていて、このころの茶々の事績とともに、後年の後室連携の面でも当時のお寧の周辺について再確認が必要だなと感じた次第です。


posted at 14:17:32



 

秀次事件と八百姫

 

秀次事件は秀頼の許嫁だった八百姫が病死したのが大きな契機だったと個人的に思ってる…


posted at 17:07:48

プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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